ヤジ馬の日本史

日本の常識は世界の非常識?この国が体験してきたユニークな歴史《日本史》の不思議をヤジ馬しよう!

大雑把編11/古今と東西の出来事並べ

随分と迂闊なことですが、つい最近になって、日本と外国との相互間の、いわば
「歴史の同時性」という面で、筆者には随分と疎い面があることに気付いた次第です。
何を言いたいの? たとえば、こういうことです。


海の向こうでかのシェークスピアが活躍をしていたその時代に、日本国内では一体
どんなことが起きていたのだろうか? 
面のために申し添えれば、そのシェークスピアとは、このシェークスピアのことです。
ウィリアム・シェイクスピア( 1564-1616年)は、イングランドの劇作家、詩人で
 あり、イギリス・ルネサンス演劇を代表する人物でもある~


その名前や肖像こそ承知はしていたものの、正直なところ、その活動の時期に
ついては、日本の時代とリンクさせる発想が持てなかったということです。
そこで心を入れ替えて、ひょいとその経歴に目をやってみると、なんと没年が
「1616年」となっています。
あれっ、この「1616年」って日本史でも何かあったはずだぞ。


そこでしばしの沈思黙考。 おお、そうだがや!
長きにわたって目の上のコブだった豊臣家(秀頼/淀殿)を滅亡(1615年)に
追い込んだ徳川家康が、肩の荷を下ろすような形で死を迎えたのも確かこの
「1616年」だったはずだ。


そうか早い話が、シュークスピアって、日本の戦国時代、つまり三英傑が活躍して
いた頃の人物ってことなのか。 
そこで、念のために、そのあたりの数字も拾っておくと、
   〇織田信長(1534-1682年)
   〇豊臣秀吉(1537-1598年)
   〇徳川家康(1543-1616年)
シェークスピア(1564-1616年)


確かに、シェークスピアは「戦国の三英傑」の少しだけ後輩ということになりそうです。
でも、だったら、なんで筆者はもう少し後の時代の人だと思い込んでいたのかしらん?
そこで、思いを巡らせてみると、おお、
~人形浄瑠璃および歌舞伎の作者である近松門左衛門(1653-1725年)は、
 「日本のシェークスピア」とも評価されている存在~


この刷り込みがあったせいで、本物のシェークスピアも。門左衛門と同様に江戸時代の
前期から中期にかけての人だと錯覚していたようです。
ああ、知ったかぶりして人に説明していようものなら大恥をかくところだったけれど、
その前に気が付いて本当に良かった。 やれやれダ。


   シェークスピア


では、今度は日本史の方から攻めてみましょう。
たとえば、
源義経が活躍した頃の世界の動きはどうだったのか。
源義経の活躍と言えば、源氏VS平家の三連戦ミラクル三連勝で、結果として
平家を滅亡に追い込んだことで超有名です。


一ノ谷の戦い(1184年) 〇屋島の戦い(1185年) 〇壇ノ浦の戦い(1185年)
の三連戦ですね。 ではこの頃、海の向こうでは?
筆者がそんな知識を持ち合わせているはずがありませんから、ちょっくら調べて
みると、実は十字軍の第三回目(1189-1192年)の遠征の頃に当たっていました。


ちなみに、その第一回目はこれより百年ほど昔の1096年-1099年のこととされて
いますから、日本なら第73代・堀河天皇の時代ということになります。
でも、その「十字軍」って一体なんですか?
ご存知の方も多いのでしょうが、ご存知でない方も、筆者を初めとして決して少なくは
ないはずです。


そこで、ちょっとカンニングをしてみました。 すると、
~中世に西欧カトリック諸国が聖地エルサレムをイスラム教諸国から奪還することを
 目的に派遣した遠征軍のこと~
つまり、イスラム教諸国に対するキリスト教諸国の側の武力行使ということに
なりそうです。


両者間に信仰上の対立があることは、21世紀になって起こった
「アメリカ同時多発テロ事件」を見ても分かることです。
「アメリカ同時多発テロ事件」は、2001年9月11日にイスラム過激派テロ組織
 アルカイダによって行われたアメリカ合衆国に対する4つの協調的なテロ攻撃。
 
「9・11事件」と呼称される場合もある~


では、そのイスラム過激派テロ組織「アルカイダ」とは?
~イスラム主義を掲げるスンナ派ムスリムを主体とした国際テロ組織。
 ソ連・アフガン戦争中の1988年、ソ連軍への抵抗運動に参加していた
 
ウサーマ・ビン・ラーディン(1957-2011年)とその同志らによって結成された~


いささか堂々巡りの感があって埒が明きませんが、ではそのイスラム教とは?
~7世紀初めに、アラビアのメッカでムハンマド(マホメット/570頃-632年)が
 創唱した。 ユダヤ教・キリスト教と並ぶ一神教で、神からの啓示の記録と
 されるコーランが聖典~


ちなみに、筆者などはその人物の名を「マホメット」と習ったよう気がしていました。
ところが無残なことに、こんな説明も付け加えられていたのです。
~「マホメット」は訛り~
ですから、本来の「エビフライ」を尾張言葉の「エビフリャー」と教えられていた
ようなものかもしれません。


では、この「ムハンマド」が活躍していたの頃の日本はどうだったのか?
なんと、聖徳太子と重なる時期もあるのです。
ちなみに、聖徳太子(574-622年)とは、
~第31代・ 用明天皇の第二皇子で、第33代推古天皇の摂政として蘇我馬子とともに
 内政・外交に尽力し、
冠位十二階十七条憲法を制定した。
 
遣隋使を派遣して国交を開き、先進国の文物を輸入し、また仏教興隆につとめた~


確認の意味で、そこらあたりの年表を並べてみると、こうなります。
603年/(聖徳太子)冠位十二階を制定する。
604年/(聖徳太子)十七条憲法を作る。(隋では煬帝が即位)
607年/(聖徳太子)遣隋使として小野妹子を派遣。 この時の煬帝宛ての国書が
          「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙なきや」


622年/(聖徳太子)死去。
630年/(ムハンマド)メッカを征服、周辺各国にイスラム教入信を呼びかけ。
632年/ (ムハンマド)巡礼の後に死去。


ということでしたので、今度はその「ムハンマド」が起こしたイスラム教と仲の悪い
キリスト教国、その中でも「9・11テロ」の標的となったアメリカ合衆国に目を移して
みます。
では、この「アメリカ合衆国」が独立した時期の日本は?


     

     アメリカ独立戦争 / 田沼意次



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アメリカ独立戦争(1775-1783年) 
~イギリス本国(グレートブリテン王国)と北アメリカ東部沿岸のイギリス領の
 13植民地との戦争~


その引き金になったとされるのが「ボストン茶会事件」(1773年)です。
~イギリス領植民地のボストンにおいて、植民地人の急進派がイギリス本国議会に
 対する抗議として停泊中の船舶から積荷の茶箱を自ら海に大量投棄した事件~


なんでこんなことをしたのか。
それは、独立を目指すアメリカ側の姿勢に大きな不快感を抱いたイギリス側が、輸出する
茶葉(紅茶)にメッチャな関税を掛けて圧力をかけたからです。
~これまで通りに紅茶を飲みたくば、黙ってイギリスに従え~ということです。


アメリカに渡ってきた人々も元々はイギリス人で、いわゆる「紅茶派」ですから、
これにはさすがに堪忍袋の緒が切れてしまい、自らで茶箱を投棄するや、遂には
武力衝突にまで突入していきました。
アメリカ側にとってよほど腹に据えかねる仕打ちだったようで、それ以来アメリカ人は
紅茶ではなく、イギリスの関与がないコーヒーを飲むようになったと言われています。


それはともかく、アメリカが曲がりなりにも独立を果たした1776年頃の日本社会は、
いったいどんな状況を示していたのか?
そんなこと、筆者が知るはずがありません。
知っているなら、わざわざこんな話題を持ち出すはずもありませんからねぇ。


そこでまたまたカンイングに及ぶと、天皇は第118代・後桃園天皇で、将軍は
第10代・徳川家治の時代ということです。
将軍・家治といえば、側用人(後に老中兼任)・田沼意次を重用したことで知られて
います。


これ以前もこれ以後も「農業重視一辺倒」の姿勢しか見せられなかった江戸幕府に
あって、「経済活動・商業重視」の政策を持ち込んだ唯一の人物が、その将軍・家治の
側用人だった田沼意次でした。
そのため、その施政は「田沼時代」(1751年-1789年)とも呼ばれています。


つまり、こういうことが言えそうなのです。
~アメリカ合衆国が「独立する時期」は、日本では「田沼時代」~
ですから、日米の両国は、ほぼほぼ同時に「大転換の時期」に遭遇していたことに
なりそうです。


そして、アメリカ合衆国が植民地の立場から見事に独立国への発展を果たしましたが、
それに比べ、日本はこの「田沼時代」から旧態依然とした農業重視の
「天保の改革」(1841-1843年)へと歩を進め、結果として幕府が消滅する姿を見せる
ことになりました。


そのアメリカ合衆国と日本が真正面から戦った「太平洋戦争」(1941-1945年)が
勃発するのは、この時期からおよそ160年後のことになります。



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