ヤジ馬の日本史

日本の常識は世界の非常識?この国が体験してきたユニークな歴史《日本史》の不思議をヤジ馬しよう!

付録編24/米将軍の享保アブク飯

最近はあまり耳にする機会がありませんでしたが、ぼんやりTVニュースを眺めて
いた時についつい思い出した言葉があります。
「あぶくぜに」・・・漢字なら「泡銭」と書きます。 そして、その意味は、
~働かずに、または正当な労働によらないで、あるいは不正な手段によって得た金銭~


勘の良い方は既にお察しかもしれませんが、えぇ、そのTVニュースは自民党派閥の、
いわゆる「パーティー券問題」を報じていたのです。
それによれば、そうしたパーティーで得た収入を規則に従って報告することを
すっかり無視しただけでなく、あろうことか、一部はハナから無かったものとして
扱って「裏金」作りに励んでいたというのですから、国民の立場からしても
開いた口が塞がりません。


なぜなら、公金による「政党交付(助成)金」制度を導入(1994年)するに
あたっては、政治家先生の御歴々はこう訴えていたはずだからです。
~国民一人当たりコーヒー一杯分、250円を負担していただくなら、企業献金を
 受けなくとも済むのですッ!~


「企業献金はヒモ付き」という国民の意識を払拭するためだったのでしょう。
ところが、その後に「企業献金」がすっかり無くなったというわけではなく、より
見えにくい形に進化?し、まるで潜水艦のように「深く静かに潜航」したまま、
異様な変異を繰り返すことで生き延びただけでなく、現在では、
~パーティー券を押し売りして、それを裏金とする~ことが当たり前となって
いたようです。


こうした行動に、えぇ、思わず、こんな言葉まで思い出しましていまいましたねぇ。
「反社会的勢力」・・・その意味はこのくらいになるようです。
~暴力、威力と詐欺的手法を駆使して経済的利益を追求する集団又は個人~


また「裏金」とは、~詐欺的手法を駆使して経済的利益を追求する~ことに
他なりませんから、両方の言葉の定義を寄せ集めてみると、こんな文言が引き出される
ことになります。
~「裏金」(あぶく銭)作りに精を出している自民党派閥議員らは
 「反社会的勢力」である~
あっちゃー、とんでもない結論が導き出されてしまいました。


   泡銭(あぶくぜに)


そうこうしているうちに、実はこんな言葉にも遭遇したのです。
「あぶくめし」・・・泡銭に倣って、漢字では「泡飯」と書くのでしょうか。
そういうことなら、その意味合いも同様に、
~働かずに、または正当な労働によらないで、あるいは不正な手段によって得た飯~
ほどになりそうです。


ところがドッコイ、そうではなく、実は日本史の用語に関する記憶術もどきの
語呂合わせというか、あるいは呪文というか、そうしたものの一つだったのです。
語呂合わせって?
たとえば、「平安遷都は794年」という歴史の出来事を、
~鳴くよウグイス平安京~と覚えておいて、「鳴くよ」の部分から「794年」を
思い出すといった方法です。


歴史を学ぶという観点からすれば、いささか邪道な感じがしないでもありませんが、
それでも真正面から力づくで記憶するよりは、覚えやすそうな方法なのも確かです。
だったら、この「あぶくめし」は、日本史のいったい何を語呂合わせしたものなの?


その答えがこれ。
~江戸幕府第八代将軍・徳川吉宗(1684-1751年)が取り組んだ、いわゆる
 「享保の改革」の内容項目の頭文字を分かりやすく並べたもの~


これを聞いた筆者なぞはこんな誤解に及びました。
~吉宗には「米将軍」とのニックネーム?もあり、さらには本人の身体も大柄だった
 から、「飯だってメッチャ沢山食べた」に違いない。 
 そして、その際限のない食べっぷりを「泡飯」(あぶくめし)と表現したのかな~

ところが、これはとんと的外れでした。


では、吉宗・享保の改革の「あぶくめし」とは?
このように、整理されていました。


<あ> → 上米(あげまい)の制
<ぶ> → 武芸(ぶげい)奨励
<く> → 公事方御定書(くじかたおさだめがき/裁判の基準を定める)
<め> → 目安箱(めやすばこ/投書箱) 
<し> → 質素(しっそ)・倹約を奨励


なるほど、覚えやすい整理方法です。
ということで、折角ですからの機会ということもあって、その中身もイチイチ
覗いてみることにしたのです。


では。最初の文字<あ>となる「上米の制」って?
こんな説明になっています。
~江戸幕府が財政窮乏対策として、諸大名に対し1万石につき毎年100石ずつの
 上米を命じ、その代償に参勤交代の江戸在府期間を1年から半年に短縮した制度~

「上米」とは「上納米」のことで、つまりすべての大名領を課税対象としたわけ
ですから、その分幕府財政は確かに潤いました。


ただ、この制度は1722年から始まりましたが、幕府財政が安定してきた1731年には
廃止され、同時に参勤交代制の方も元に戻していますから、その意味では
「時限立法/期間限定」の扱いだったのかもしれません。


   

 享保の改革(1716年~ ) / 目安箱 


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この語呂合わせには入っていないようですが、<あ>の項に「足高の制」(1723年)が
加えられてもよかったのかもしれません。
~幕府の各役職ごとに一定の基準高(役高)を定め、その役職に就任した者の家禄が
 基準高に達しない場合、在職期間中に限って不足分を支給した俸禄制度~


分かったようで分からない文章ですので、その具体的な例を探してみました。 
すると、
~たとえば800石の旗本が基準高3000石の町奉行に就任した場合は、
 在職期間中幕府から足高(不足額の増給分)として(その差し引き)2200石が
 支給された。
 これにより小禄の者も役職相応の俸禄をうけることになり、職務にともなう

 諸経費に苦しむことなく任務を行うことが可能になった~


そればかりではありません。
~他方、幕府財政からみても、世襲の家禄を増加する方法とは異なり、支出の抑制に
 なった~

ですから、これも「時限立法/期間限定」的な扱いだったことになりそうです。


ということで、今度は<ぶ>武芸奨励。 こんな紹介もありました。
~太平が続いたこの時期、質実剛健の士風は廃れ、幕府の中核部隊であるはずの
 旗本五番方(軍事部門)の面々は満足に乗馬も出来ない体たらくであった~

そんなぁ、軍事政権(江戸幕府)の軍人(旗本)が「馬にも乗れない」だなんて、
ホントのことなの?


どうやらそうした傾向があったことはホントだったようで、そこで将軍吉宗は、
~新旧さまざまな武芸奨励を実施し、軍事演習さながらの大規模な狩猟をも敢行した~
第五代将軍・綱吉(1646-1709年)の代に禁止されていた犬追物、鷹狩なども
復活させたということです。


続いて<く>公事方御定書
~吉宗の命により、寺社・町・勘定三奉行が現行の法令、判例を整理して上下二巻に
 編集したもので、上巻は司法・警察関係、下巻は御定書百箇条と呼ばれ、
 訴訟・裁判の手続、刑罰規程などを収めた~

要するに、裁判の基準を定めた、今なら「六法全書」もどきのもの?かもしれません。


筆者は少し疲れを覚えてきましたが、まだ残っている項目もあるので、お互い
もう一息頑張ることにしましょう。
ということで、今度は<め>目安箱(1721年)。
~広く庶民の要求や不満などの投書を受けるために評定所の門前に置かれた
 訴状箱で、庶民の進言・不満などを投書させ、諸役人の非行を正し、行政の厳正を
 はかるのに役立った~


肝心なのは、
~箱は将軍の面前で開けられ、将軍が自ら開封し閲覧した~という点です。
そうでなければ、訴えが吉宗に上るまでに、だれぞに手を加えられてしまうか、
あるいは、どこぞで雲散霧消しちゃうかも知れませんものねえ。 その意味では、
吉宗という人はお役人の心情や行動原理をよく承知していたと言えそうです。


ようやくのこと、最後の<し>「質素・倹約」に辿り着きました。
こんな説明がありました。
~平和な時代が続くようになると、武士を含めて人々は贅沢な生活をすることに慣れ、
 お金を湯水のように使うようになった。
 そのため、吉宗は贅沢な暮らしを戒め、節約を中心とした昔の武士の生活を

 基本として、質素倹約を進めた~


どんな風に?
~将軍・吉宗自身が派手な衣装を着ず、木綿の粗末な衣服を着続けた。
 刀も金銀の派手な物ではなく、鋼と鉄で作られた実用的な物を身に着けた。
 また、食事も白米ではなく玄米を食べ、魚肉をあまり食べず、おかず一皿と

 お吸い物一杯の一汁一菜を中心とした~


そればかりか、大奥に懸かる経費を大幅削減するために、大奥女中の大量解雇にも
踏み切ったようです。
確かに、幕府自らが率先して質素倹約に邁進するこうした行動は、まことに結構な
ことです。
なにせ、幕府財政は「火の車」なのですからねぇ。


しかしながら、贅沢ができるだけの収入がある国民にまで質素倹約を強いるのは
如何だったのでしょうか。
というのは、将軍が国民の経済活動の在り方にまで干渉した結果、当然ながら経済は
失速し不景気に陥ってしまったからです。


早い話が、名君?吉宗と国民の心情には正反対のものがあったことになりそうです。
吉宗 「贅沢は 敵だっ!」
国民 「贅沢は素敵だっ!」



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