ヤジ馬の日本史

日本の常識は世界の非常識?この国が体験してきたユニークな歴史《日本史》の不思議をヤジ馬しよう!

微妙編13/偏諱には栄誉も屈辱も?

半世紀(1787-1837年)もの長期にわたって征夷大将軍を勤め続けたことでも
よく知られているのが、江戸幕府第11代将軍・徳川家斉(1773-1841年)です。
もっとも、この方はこの他のことでも割合賑やかな話題を提供しているのですが。 


たとえば、
〇精力増強のためオットセイの陰茎を粉末にしたものを飲んでいた。
 →そのため、陰では「オットセイ将軍」とも呼ばれた。
〇16人の妻妾を持ち、 53人の子女(男子26人・女子27人)を儲けた。
 →そのうち成年まで存命できたのは約半分の28人だった。
〇誰にも看取られないままの最期で、その死に気が付かれるまでには時間を要した。
 →臨終の瞬間を見逃すという大失態を演じた担当医は責任を問われ処罰された。


現代の「少子化問題」解決の糸口を見つけるためには、メッチャ子沢山だった
この将軍・家斉のライフスタイルを参考にしてみるのもいいのかもしれません。
しかし、ここではこうしたこととはまったく無関係な以下の方々を取り上げます。
えぇ、ヘソ曲がりとの批判は覚悟の上です。


徳川斉昭(1800-1860年/水戸藩第9代藩主。 第15代将軍・慶喜の父)
島津斉興(1791-1859年/薩摩藩第10代藩主)
島津斉彬(1809-1858年/斉興の長男。 薩摩藩第10代藩主)
鍋島斉正(1815-1871年/佐賀藩第10代藩主。 後の鍋島閑叟)
黒田斉溥(1811-1887年/福岡藩第11代藩主。 後の黒田長溥)


同様な方々は実は他にも大勢おられるのですが、右代表ということで、これらの方々に
登場いただきました。
よく見ると、ここに挙げたどなたの名前も前の文字が「斉」であることに気が付きます。 もし気が付いていなかったのなら、ここで気が付いてください。 
でないと、お話が前へ進みません。


この時期に「斉の字ブーム」があったということが原因ではありません。
実は、上の方々の名前は将軍・家斉の名前の後ろの字「斉」を、自分の名前の前の字に
頂戴しているのです。
~将軍や大名が、功績のあった臣や元服する者に自分の名の一字を与える~
こうしたことを「偏諱を賜る」と言います。


 第11代将軍・徳川家斉


ということであれば、「偏諱を賜る」栄誉に浴した人は鼻高々のはずです。
なにせ主君から特別勲章を頂戴したようなものですからねぇ。
確かにそうした人は多かったのでしょうが、しかし、薩摩藩・島津斉彬や
佐賀藩・鍋島斉正などは必ずしもそのようには受け止めなかったかもしれません。


なぜなら、この後のことになりますが、島津斉彬も鍋島斉正も討幕、つまり将軍に盾を
突く形の行動を見せているからです。
確かに、その時は「偏諱」を授けた将軍・家斉自身はすでに亡くなっていましたが、
それでも「将軍からの偏諱」を至上の栄誉と感じていたのなら、こうした行動は
取りにくかった気がするのです。


ということなら「偏諱を賜る」って、上の説明通りに、
~将軍や大名が、功績のあった臣や元服する者に自分の名の一字を与える~
こんなケースばかりでなかったのかもしれません。
それどころか、実情としては、むしろ逆の意味合いを込めた場合もあったような気も
してくるのです。


逆の意味って? 
栄誉の逆なら、屈辱・恥辱ほどの意味合いになりそうですが、話が遠回りしている
感じがありますので、具体的な例を挙げて先を急ぎましょう。
たとえば、江戸幕府の創立者であり、初代将軍も勤めた徳川家康(1543-1616年)の
幼い頃が、それに当てはまりそうです。


三河国の家康は幼い頃、隣の駿河国・今川義元(1519-1560年)の人質となり、その
名も「元康」と名乗りました。
これは義元から「偏諱を賜る」ことで、頭にその義元の後ろの字「元」を自分の名の
頭の字に頂いたものであることはもちろんです。


ではでは、こうした場合の「偏諱」も、本当に、
~功績のあった臣や元服する者に自分の名の一字を与える~ことだったのか。


常識的に見れば明らかにそうではなく、むしろ、こんな意味合いを持たせていたように
見えます。
~ええか、お前の名前にワシの名の「元」の字がついているのは、お前はワシの
 人質であり奴隷であるということなのだ。 ゆめゆめ忘れるでないゾ~


こんな「偏諱」なら、栄誉どころか、超ド級の屈辱です。
ですから「桶狭間の戦い」(1560年)で今川義元が倒れると、早速のところ偏諱の
「元」の字を捨てて、早々に「家康」と名乗るようになっています。
家康にすれば、超ド級の屈辱から解放されたということです。


そう考えると、その今川義元を倒した尾張国・織田信長(1534-1582年)は、
家康にとっては大恩人だったことになります。
信長がいなければ、いつまでも「元康」のままだったのですからねぇ。
事実、この後の家康は信長の同盟者として、その活動に協力を惜しむことはありません
でした。


 

 第八代将軍・徳川吉宗 / 尾張藩主・徳川宗春


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お話が筆者の生息地・尾張へ回ってきたことで「偏諱話」をもう一つ思い出しました。
それは、尾張徳川家第7代当主・
徳川宗春(1696-1764年)の生涯です。
こんな説明になっています。
~兄で第4代藩主の吉通(1689-1713年)より偏諱を受け、諱を通春とする。 
 吉通は奥で夕餉を摂る際には宗春と共に食事をしたほど末弟の宗春を可愛がった~


えぇ、仲の良い兄ちゃん吉通の「通」の字を偏諱され「通春」と名乗っていたわけです。
ところが、
~歴代の藩主と同様に、藩主就任後に将軍から偏諱を授かって改名した~


時の将軍と言えば、
初代将軍・家康の曾孫であり、四代将軍・家綱、五代将軍・綱吉のハトコにあたるという
血筋を誇り、また「享保の改革」(1716-1745年?)を断行し幕府財政を好転させた
ことで、名君との誉れも高い第八代・徳川吉宗(1684-1751年)でした。
ちなみに「ハトコ」とは、親同士がイトコの関係を言います。


この将軍・吉宗から慣習的な偏諱を賜って「通春」の名は「宗春」に。
ですから、宗春は吉宗に対して、心底から~有難きしあわせ~という気持ちを
抱いたとは思えません。


なぜなら、この二人は反りが合わないなんてものではなく、その政治理念からして
水と油、根本から違っていたからです。
徹底的な「質素倹約」政策をとる将軍・吉宗に対し、一方の宗春は著書「温知政要」の
中で「反・享保の改革」とも見える真逆の政策を主張し、強力に推し進めていました。


しかも、江戸時代の藩主が自分の政策を書物として出版したのは、この宗春が
初めてということもあって、将軍・吉宗からすれば、「自分にケンカを売っている」と
しか思えません。


安い木綿の服を着て、一日二食で質素倹約の率先垂範に努め、芝居禁止に躍起になる
将軍・吉宗。
そうした姿勢をあざ笑うかのように、豪華絢爛ド派手なファッションを身にまとい、
こんなことを吠える宗春。


〇お金は活かして使うべきであって、行き過ぎた倹約なんぞは
 かえって無益なんだでぇ・・・
〇芝居は庶民の元気の素なのだから 興行は遠慮無しでどんどんやりゃあせ・・・
吉宗からすれば、「自分の“善政”にことごとくに楯突く“ならず者”」という受け止めに
なっても不思議ではありません。


ということは、両者間の「偏諱」には、むしろ、将軍・吉宗から宗春への
「口止め料」もどきの意味合いがあったようにも見えなくはありません。


実際、その黙約?を破った形になった宗春のその後には、将軍・吉宗の締め上げに
よる“悲劇”が待っていました。
ただ、それに触れるとお話が長くなりますので、それは別の機会に譲るとして、
折角ですから、全21条からなる宗春の「温知政要」はどんなことを言っているのか、
ちょっと覗いておきましょう。


実はこれが、また結構面白く現代社会にも通用しそうな思想?が披露されているのです。
→規則規則で縛ってどうするの? そんなもん、少なければ守れるけど、多すぎては
 守れえせんのだから意味ないでぇ。

尾張の殿様ですから、先ほどから尾張言葉になっています。


人を裁くことに関しては、かなり慎重な姿勢を示しています。
→“冤罪”なんてのはお上の恥だでよぅ、ええか、そんなことがないように取調べは
 とことん徹底的にやらないかんでぇ。

 (実際、冤罪の可能性も考え「死刑」も執行しなかった)


併せて、人命尊重の意識・哲学も示しています。
→命は尊いもので、決して金では買えるものではあれせんでぇ。


また、個人の資質についても、
→誰にもそれぞれの能力があるんだで、適材適所でやるのがええ。
上司の、部下に対する心構えについてはこんな具合です。
→ドカッと、ガバッと大目に見てやることがとっても大事なんだでぇ。


こうした世間受けする発言を施政者が好まないのは世の常なのでしょうが、
かと言って、それを徹底的に黙らせようとしたのでは折角の「名君」との評判も、
ちょっとばかり色褪せ加減かな、と思ったりする筆者です。
でも、何を隠そう、その宗春と同じ尾張人ですので、その辺は適当に割り引いて
受け止めてくださいな。


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