ヤジ馬の日本史

日本の常識は世界の非常識?この国が体験してきたユニークな歴史《日本史》の不思議をヤジ馬しよう!

ツッパリ編33/千人供養なんぞは堕地獄じゃ

たまたま遭遇した奈良の大仏さんの紹介記事には、こんなことが書いてありました。
~(奈良・東大寺の大仏は)第45代・聖武天皇の発願で745年に制作が開始され、
 752年に開眼供養会が行われた~

現在からなら1,400年近くも以前のことになりますから「メッチャ大昔の出来事」
だと言っても大袈裟にはなりません。


そして、そこにはこんな一節も。
~後世に複数回焼損したため、現存する大部分が再建であり、当初に制作された
 部分で現在まで残るのはごく一部である。
 「銅造盧舎那仏坐像」として国宝に指定されている。~


へぇそうなのか、何回か損傷したことがあったのか。
そこで、その複数回の「焼損」の内容にも首を突っ込んでみたのです。


〇  855年 (開眼から約100年後)地震で被災し首が落下した。
〇1180年 (1回目の焼失)東大寺・興福寺の僧兵集団と平重衡との戦いにより、
      興福寺が全焼、東大寺も伽藍の主要部を焼失した。
〇1567年 (2回目の焼失)松永久秀VS三好三人衆軍との戦いの最中に焼失した。


 松永久秀


ということで、今回のお話はこの「大仏の戦国時代の焼損」に振ることにしたの
ですが、おっと、その前に、ここに登場した人物たちについても、ざっと知って
おいた方がいいのかもしれません。


松永久秀(1508-1577年)/大和国の戦国大名。
三好三人衆/畿内で活動した三好長慶の死後に三好政権を支えた、いずれも
       三好氏の一族・重臣である三好長逸・三好宗渭・岩成友通の三人を指す。
要するに、東大寺を戦場として松永久秀VS三好三人衆が激突したというわけです。


そして、
~久秀は長い対陣の末に三人衆の陣である東大寺の奇襲に成功した。
 このとき大仏殿が焼失し、大仏の首も落ちた~


ウーム、この説明だとあたかも松永久秀軍の側に焼失の原因があったかのように
受け止められます。 しかし、実際には、
~大仏炎上は、実際は三好方の失火であった~
~最近の研究によると「戦の最中の不慮の失火説」が有力である~
など諸説あって、一つの説だけを鵜呑みにはできない雰囲気ですです。


しかし、ともかくも「損傷」したことは事実ですから、おそらく管理者である
東大寺なぞは、早速のこと、修復することも考えたでしょう。 
しかしながら、以下のように「戦さテンコ盛り」の時期ですから、コトはそうそう
スムーズには運びません。


〇1566年 羽柴秀吉(1537-1598年)が墨俣一夜城建設に功績を上げたとする。
〇1567年 東大寺大仏の2回目の焼失(松永久秀VS三好三人衆)。
〇1568年 織田信長(1534-1582年)の上洛に際して、明智光秀・丹羽長秀・
     羽柴秀吉
らが京都の政務を任された。


そして、この後に主君・信長に対する家臣・明智光秀の謀反「本能寺の変」
起こります。
そして、ここで倒れた織田信長の後継者としての地位を確立していったのが、
同じく信長の家臣だった羽柴秀吉でした。


で、その動きを「四倍速」ほどのモードで端折り眺めをしてみると、
〇1582年 織田信長が「本能寺の変」(1582年)に倒れる。
〇1584年 秀吉が関白宣下を受ける。
〇1586年 秀吉が正親町天皇から「豊臣」の姓を賜る。
この時点の秀吉は、しっかり権力を掌握して、言うならば、押しも押されぬ
「天下人」になっていたということです。


そして、お話は大仏に戻って、
〇1595年 秀吉の発願により「京の大仏」(方広寺/木造)建立。
これは、「金属製大仏」だと工期も費用も膨らんでしまうため、それを避ける意味で
「木造大仏」としたということなのでしょう。


東大寺の大仏修復が長い時間を要したのも、確かに戦国の世という事情もあったに
違いありませんが、やはり工期や費用という現実的なハードルも大きく影響したように
思われます。
ちなみに、この仏様は東大寺と同じ「毘盧遮那仏/びるしゃなぶつ」でした。


さて、天下人・豊臣秀吉(1537-1598年)の発願によって建立された大仏様ということ
ですから、そうなると、お披露目もそれなりに豪華絢爛でなくてはなりません。
ただでさえ「黄金好き/ド派手好き」な秀吉ですからねぇ。
ただし、その点、天下人としての秀吉は決して浮かれっ放しでいたわけではありません
でした。
それは、信仰・宗教に関して、こんな強烈な体験・記憶を持っていたからでした。


主君・信長の盟友・徳川家康(1543-1616年)が、領国で「三河一向一揆」
(1563-1564年)に遭った際には、主君側ではなく、なんと一揆側についた家臣も
少なくなく、家康自身もその対処を誤れば自らが滅びかねないという危機的な状況に
まで追い込まれました。


また、主君・織田信長は、11年にもわたる本願寺との「石山合戦」(1570-1580年)で、
ついに勝利することができず、朝廷に頼むことでやっとのことに講和に漕ぎつけた
という経緯も承知していました。
それどころか、秀吉自身がキリスト教には手を焼いて、結局「バテレン追放令」
(1587年)という宗教弾圧にまで及んでいるのです。


要するに、信仰・宗教のそうしたし厄介さを当事者としても体験してきた秀吉ですから、
巧みにコントロールしないことには自らへ跳ね返ってくるとこを熟知していたわけです。
そうした中で、秀吉は宗教勢力各派に対して大仏開眼供養パーティへの招待を
したのです。


    

日奥(日蓮宗・不受不施派の祖) / 天下人・豊臣秀吉


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具体的には、「千僧供養」といいましたが、これに出仕するよう命じたわけです。
なんですか、その「千人供養」って? こんな説明になっています。
~天台宗・真言宗・律宗・禅宗・浄土宗・日蓮宗・時宗・浄土真宗の八派に対して、
 宗派ごとに100名の僧を供養に出仕するよう命じた~


ですから、出仕を求められた僧の数は、正確には8派×100人で、総計800人という
ことになります。
これを「千人供養」とはいささか過剰な表現にも思えますが、実際そういう名称でした
から、この点はスルーします。


しかし、秀吉としても、各派がおとなしく僧を出仕させてくれば一安心ですが、
「欠席」を申し出るような派があれば、数多の宗教事件を経験してきただけに、
ちょっと心配です。 
~腹に一物あっての欠席じゃないのか~との思いも浮かびます。


八派のうち七派は素直に出仕を承諾しました。
ただし、内部で意見が分かれた宗派もあったのです。 それが日蓮宗でした。
~この時日蓮宗は、出仕を受け入れ宗門を守ろうとする「受布施派」と、出仕を拒み
 不受不施の教義を守ろうとする「不受不施派」に分裂した~


難しい言葉が登場していますが、要するに、布施つまり仏教の修行の一環として
重要視されている慈善的な行為や寄付に関しての論争があったらしい。
そこまでは確かに推察できますが、しかしながら、全体としては何を言っているのか
よく分かりません。 そこで、ちょいと寄り道が必要です。


 受布施派 → 下の「不受布施派」ではない派。
不受不施派 → 日蓮の教義である法華経を信仰しない者から施し(布施)を
        受けたり法施などをしないという、不受不施義を守ろうとする宗派。


要するに、日蓮宗の内部ではこんな論争が展開したということです。
~秀吉は他宗の人であり、日蓮宗を謗法(そしる)の人である。
 信者でなく謗法の人のもよおす法会に出仕し供養を受けることは、日蓮聖人以来の
 日蓮宗の宗義に反する「堕地獄の行為である」~

こちらが、教理を頑なに遵守すべきとする「不受不施派」の、いわば原理主義的な
意見です。


ただ、そこまでいかない世俗主義的な意見の方が多数派を占めました。
~そうかもしれんが、今秀吉の意向に逆らうことは、日蓮宗の破滅に繋がるかもしれぬ。
 一度だけ要求どうりに出仕し供養を受け、以後断ればよいではないか~

そうした末に、日蓮宗としては千僧供養に出仕することに決定したのです。


ところが、これを「堕地獄の行為である」と主張した僧・日奥(1565-1630年)だけは、
頑なに出仕を拒否し、ついには寺を去っています。
ですから、この日奥が「不受不施派の祖」とされています。


一方の「受布施派」は、
~一度出仕して後に制法を立てるはずだったものが、以後二十年間も大仏供養に
 出仕したのである~

という説明になっていますから、こうした歴史からすれば、世界のどの宗教にも
あるように、日本の宗教にも「原理主義/世俗主義」はあったように見えます。


ということなら、~日本の常識は世界の非常識~ばかりでもない、ということに
なりそうで、そういう意味では「ちょっと安心」・・・
もっとも、何が安心なのか、言っている筆者自身もとんと分かっていないのですが。



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