ヤジ馬の日本史

日本の常識は世界の非常識?この国が体験してきたユニークな歴史《日本史》の不思議をヤジ馬しよう!

例外編14 幕府はやむなく引っ越した

用事があってふらっと自転車でお出かけしてみると、普段は通過するだけの商店街の雰囲気が

いつもとはちょいと違っていました。

目立つ場所に「〇〇(商店街名)まつり」のポスターがあって、ついそれに

目が移ったのです。

「魔が差す」って、こういうことを言うのかもしれません。

 

そこには武士の時代を題材にした小さなイベントの案内があって、その前には

見るからにヒマ人風のオジサン?オジイサン?が二人。 そのやりとりが耳に入ってきました。

A 「これ見てよう、ひょっこり思い出したけんど、確か将軍サマの居所が幕府の名前に

  なっているんだったよなあ」

 

すると相手は、

B 「要するに、その場所が鎌倉だったもんで鎌倉幕府、同じく江戸だったもんでで江戸幕府って

ことが言いたいのきゃぁ」

両人とも、モロにネイティブ尾張者の言葉です。

 

会話は続きました。

A 「そう、そのこと。 そんでよう、今までついぞ思ったことはなかったけど、

  そういうことなら将軍サマが室町に住んどったで室町幕府ってことに

  なるんだわなぁ、きっとなら」

B 「そんなもんそうに決まっとるわさ、たぶんなら」

 

そして、これがヒントになって、続いてオジサンAが吐いたこんな素朴な疑問符を、

筆者はちゃっかり今回の記事に取り上げることにしたしだいです。

A 「そんで、その室町ってどこのことなんだえぇ?」

 

実は、オジサン同士の会話の方はこのように進んでいったのです。

B 「そんなもん、武家政権なんだで、やっぱり関東で決まりでねぇの?」

A 「そんなら、鎌倉と江戸の中間あたりの地域になるのかぇ?」

B 「そんなことまでは知らんがねぇ。 

今まで知らんまんまでもなんにも不便はあれせんかったしねぇ」


    室町殿


実際、「室町」って、どこだっけ?

こう訊かれて正しく答えられる人は、そんなに多くもなさそうです。

むしろ少数派といっていいくらいのかもしれません。

試しに、アナタの周辺の方にも同じ質問をぶつけてみるとその辺のことはよく分かると思います。 


でも、なんでそう言い切れるのか?

実は筆者自身が割合に最近まで、上の「オジサンAさん」もどきだったからです。

~武士の本拠地は関東であり、それが証拠に「鎌倉」も「江戸」も関東にある~

こんな擦り込みのせいで、「室町」も当然関東のどこかだと思い込んでいたというわけです。 


ところが正解は「京・室町」。

ですから、これについても歴史の「真実」を知った時は、まさしく吃驚仰天の思いを味わったものです。 


すると、当然こんな疑問が湧いてきます。

~武士の本拠地は関東であり、それが証拠に「鎌倉」も「江戸」も関東にあるのに、

では、なぜ「室町」だけは京にあるのだろう?~ 


室町幕府初代将軍・足利尊氏(1305-1358年)も、実は、前の武家政権・鎌倉幕府に倣って、

鎌倉に拠点を置いたようです。

そのまま何事もなければ、尊氏の政権は「第二次鎌倉幕府」または「後鎌倉幕府」ほどの

歴史用語になったのかもしれません。 


ところが、その後になって、袂を分かった南朝・後醍醐天皇(1288-1339年)との決着を

付けるために、尊氏が京に舞い戻ることになってしまったのです。

簡単に言えば、尊氏政権と後醍醐天皇政権が対峙する、内戦もどきの状況が出現したことに

なります。 


政治的センスにおいてはいささか「オンチ」気味だった尊氏も、しかし「戦さ」に限れば

得意中の得意ですから、対峙の決着は早々に付けられると見込んでいたようです。

ところが、後醍醐天皇もなかなかにしぶとい。

で、両者のこの対峙は「短期決戦」とはなりませんでした。 


そのために京を離れることができなくなってしまった尊氏は、心ならずも政権機能を

京に置かざるを得なくなってしまったのです。

うっかり、後醍醐天皇から目を放そうものなら、どんな事態を招くものか分からないからです。

後醍醐天皇が尊氏の「将来計画」を潰したカタチになりました。 


だったら「京」は分かるにしても、「室町」とはいったいナンヤネン、という疑問が出てくるのは

当然です。

京を本拠地としたのであれば、前の「鎌倉幕府」や後の「江戸幕府」と同様に、

それを「京幕府」と呼んでもよかったのに、そうはせずになんでわざわざ「室町幕府」

呼んだのかしらん? 


この素朴な疑問に対する回答はこんな感じになりそうです。

第三代将軍・足利義満(1358-1408年)が、この京の広小路室町に御殿を造営したことで

当時の人々は歴代将軍を「室町殿(むろまちどの)」と呼ぶようになった。

このことから、「室町」の名称が定着したとの説明です。


   

       足利尊氏 / 後醍醐天皇


 応援クリックを→ にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ ←にほんブログ村


ということなら、「室町」とは、他の「鎌倉」や「江戸」のようにひとつの都市を意味するのではなく、

都市の中の一部の地域を指していることになります。

なるほど、道理で分かりにくいはずだ。

こんな事情なら、室町幕府の「本拠地」を間違えた、あるいは知らなかった人がいたところで

無理もないことで、その責任はむしろ「室町」という名称の側にあることになりそうです。 


ところがこの説明でも、実はまだ十分にスッキリしたものだとは言えません。

なぜなら、こんなツッコミだってあり得るからです

~そういう事情なら、第三代将軍・義満以後の「室町」は了解しよう。

しかし、初代・二代は「室町」ではないことになってしまうゾ~ 


もしこんな風に突っ込まれたら、アナタならどう説明しますか?

えぇ、筆者だったら一目散に逃げの一手です。

ですが、改心してして、もう少し追ってみたところ、こんな説明になっていました。  


~入京後の尊氏は二条高倉近辺に住居を構えた。

幕府機能自体は三条坊門万理小路にあったため、この頃は「三条御所」と呼ばれた~

これらすべての経緯を時系列に並び直すと、これくらいの印象になるところです。


第一期 「後鎌倉幕府」(ごかまくら・ばくふ) 初代・尊氏

第二期 「三条幕府」 (さんじょう・ばくふ)  初代・尊氏/二代・義詮

第三期 「室町幕府」 (むろまち・ばくふ)  三代・義満以降


つまり、この三つ拠点を移動した幕府の総称を、いたってシンプルに「室町幕府」呼んでいる

わけです。

拠点の在り方からしても、かなり「腰の落ち着かない政権」ということになりますが、実際、

政治的状況の面からしても同様のことが言えそうなのです。 


○第三代・義満の頃までは、「南北朝問題」に悩まされた。

 →事態収拾のためには、後醍醐天皇とは「別の皇統」を立てなければならなかったと

いうことでしょうか。 


〇第六代・義教の時代には、「恐怖政治」を敷き、それがついには「将軍暗殺事件」にまで

発展した。

  →なにせ「くじ引き将軍」(神に選ばれし将軍)ですから、怖いもの無しの政治でした。 


〇第八代・義政の時代には、自身の「職場放棄」?さらには「応仁の乱」も招いた。

 →文化人・芸術家としては超一流だった義政でしたが、およそ政治には不向きで、

 結果として治安混乱社会を招きました。 


室町時代の特徴として、さらに挙げておきたいこともあります。

それは、初代・尊氏とその弟・直義の間には「協力と離反」の時期があったこと、

また南北朝自体も「皇統分裂」や「三種神器」の真贋問題を抱えましたし、

さらには「応仁の乱」(1467-1477年)においては、敵・味方がコロコロ入れ替わるなどが

あって、そのそれぞれの出来事に何倍もの複雑さが入り組んだことです。 


今回の記事によって、~「室町時代」の室町ってなに?~

この質問にはなんとか答えることができそうですが、では、こちらの質問には?

~「室町時代」ってどんな時代だったの?~ 


さて、こう訊かれると詰まってしまうのは必至です。

なにせ、「何倍も複雑」ということですから致し方ありません。

で、筆者的心証を挙げておくなら、こんな感じになるところです。


~政権本部の「引っ越し」が繰り返されただけでなく、その上に「ナンデモあり風潮」

 が当たり前の、めったやたらとややこしい時代だった~


 応援クリックを→ にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ ←にほんブログ村