冗談?編16/鳴かぬホトトギス余話
織田信長>鳴かぬなら・殺してしまえ・ほととぎす
豊臣秀吉>鳴かぬなら・鳴かせてみせよう・ほととぎす
徳川家康>鳴かぬなら・鳴くまで待とう・ほととぎす
ホントに御本人が詠ったかものかどうか、そこいらへんはいささか怪しく感じられる
ところもありますが、戦国の英傑とされる御三方の気性を的確に表しているとして
有名な歌です。
そこで筆者はこう考えた。
~「マユツバ込みでも可」ということなら、なにも三英傑に限らず他の人物の歌が
あったとしても、それはさほど不思議な光景でもないゾ~
ということで今回のテーマに「ほととぎす」の歌を選んだ次第です。
要するに戦国三英傑の場合と同様のパターンで、ご本人の心情・嗜好・哲学・拘り
などを「ほととぎす」に託しつつ的確に詠った歌ということになります。
で、それはいったいどんな歌かって?
その点は事前に十分なご留意をお願いしておきますが、実を言えばとことん
ヒマ人向きの話題になってしまいました。
というのも、「マユツバ込みでも可」としている以上、結構エエコロカゲンな
お話が混じり込んでしまうのも仕方のないことだからです。
戦国三英傑
織田信長 / 豊臣秀吉 / 徳川家康
前置きはこのくらいにして、何派ともあれ始めてみましょう。
さて、まずは古い時代の方を選んでみました。
飛鳥時代の皇族・政治家である「聖徳太子」(574-622年)ですが、こんな感じに
なるのでしょうか。
聖徳太子>鳴かぬなら・話し合うべき・ほととぎす
大意>仲間の和を乱してまで「鳴かない」ことがいいのかどうか。
そうしたことは、はやり全員で話し合って決めた方が間違いないであろう。
折角ですから、お節介な筆者の率直な感想も加えておきますと、
~日本民族が持つ「和」という精神構造を見つけ出て、さらにそれを大切にすることを
説いた聖徳太子ならではの心情が切実に吐露されている~
ここから以降もこんな按配のお話が続きますから、どうか肚をくくってくださいな。
さあ、続いていきます。
飛鳥時代から奈良時代初期にかけての公卿・政治家であり、また一種の怪人とも
いえそうな「藤原不比等」(659-720年)です。
藤原不比等>鳴かぬなら・鳴いた振りせよ・ほととぎす
大意>歴史とは、真実そのものよりストーリーの方を大切にするである。
だからして、実際にはほととぎすが鳴かなかったとて、それを鳴いた
ことにしておくなら、それなりに形の整ったきれいな物語にもなろうゾ。
「天皇」という絶対的な存在がありながらその実権は自分が握るという、それこそ
(とっくに賞味期限を超えてしまってた表現ですが)超難度技「ウルトラC」を
やってのける人物なのですから、怪人という表現もあながち的外れでもない印象です。
この「ほととぎす」は宗教人も無縁ではなかったようで、その中から何人かの歌を
覗いてみることにしましょう。
まずは、鎌倉時代前半から中期にかけての日本の仏教家で、鎌倉仏教の一つである
浄土真宗の宗祖とされる「親鸞」(1173-1263年)の場合です。
親鸞聖人>鳴かぬなら・南無阿弥陀仏・ほととぎす
大意>ほととぎすにとってさえ阿弥陀如来が絶対なのである。
それは鳴こうが鳴くまいがどちらにせよ、阿弥陀如来が絶対という真理は
不変なのである。
なにせ「阿弥陀如来」を信じるだけで救済されると説いているのですから、
「阿弥陀如来」の前に道はなく「阿弥陀如来」の後ろにも道はないということになります。
同じ鎌倉仏教人でも異なった宗派である日蓮宗(法華宗)の宗祖「日蓮」
(1222-1282年)の場合ならこの位になりそうです。
日蓮上人>鳴かぬなら・法蓮華経・ほととぎす
大意>ウグイスが「ホーホケキョ」と鳴くのであれば、ほととぎすは
「ホーレンゲキョ」と鳴けばよいのではないか。 音は似てるゾ。
それでひょっこり思い出したのですが、幼い頃の筆者はこの「ホーレンゲキョ」の
響きから野菜の「ホウレンソウ」(菠薐草/法蓮草)を連想したものです。
当時の苦手意識がそうさせたのかもしれませんが、イッパシの大人になって以降は、
お蔭さまで、「法蓮華経/ホーレンゲキョウ」と正しく認識できています。
宗教人をもう少し追いかけることにして、さらには、禅僧であり日本における曹洞宗の
開祖「道元」(1200-1253年)も取り上げてみました。
道元上人>鳴かぬなら・それも修行ぞ・ほととぎす
大意>寝食日常これ皆修行である。
ならばほととぎすにとって「鳴かぬ」こと、これも実は修行なのであるゾ。
ちなみに、道元自身は自らの教えを「正伝の仏法」として、セクショナリズム
(縄張り意識/派閥主義)的な宗派の在り方を否定していました。
そのために弟子たちには自らが特定の宗派名を称することも禁じていたとのことです。
それも半端なものではなく~禅宗の一派として見られることにすら拒否感を示していた~
とされていますからハンパではありません。
しかし、宗派に「名称」がないことも、これまた不自然であり不便窮まりありません。
そこで、このような意向を示したと伝えられています。
~どうしても名乗らなければならないのであれば「仏心宗」と称するように~
尼将軍・北条政子 / 守銭奴・日野富子
お話の向きを変えて女性にも登場していただきましょう。
平忠盛の正室で、平清盛の継母に当たる「池禅尼」(1104?-1164年?)です。
源氏の嫡流・源頼朝(1147-1199年)が平家の棟梁・平清盛(1118-1181年)の手に
落ちた折に、その清盛に対して強く「頼朝助命」の嘆願をしたことで知られる女性です。
もっとも、そこで「命を助けられた」その頼朝によって、結果として「平家滅亡」
(1185年)に追いやられたわけですから、歴史は一筋縄ではいきません。
池禅尼>鳴かぬなら・命ばかりは・ほととぎす
大意>か弱き立場の者をヤタラメッタラ殺すのは良くない習慣です。
ましてやほととぎすのことであれば、私は必死で助命嘆願しますヨ。
紙幅の都合で先を急ぎます。
続いては、その源頼朝の御台所・北条政子(1157-1225年)で、こんな紹介のされ方も
あります。
~頼朝が亡くなった後に征夷大将軍となった実子の頼家・実朝が相次いで暗殺された
後は、鎌倉殿(将軍)として京から招いた幼い三寅(後の藤原頼経)の後見と
なって鎌倉幕府の実権を握り、世に「尼将軍」と称された~
メッチャやり手の女性だったということです。
北条政子>鳴かぬなら・明日は鳴けぬぞ・ほととぎす
大意>ワタシに反抗するのは確かに可愛いことだけど、頼朝・頼家・実朝さんが
その通りだったように、明日になればそうした反抗すらできなくなるのヨ。
別の意味でこれまた「女傑」と呼べそうなのが室町幕府第8代将軍・足利義政の
正室(御台所)だった「日野富子」(1440-1496年)です。
我が子可愛さから政治を混乱させたことで「応仁の乱」(1467-1477年)を招いた
ばかりか、その戦のための資金を必要とする大名・武将には敵味方の別を問わず
「金貸し」をするなど、まあ稀代に守銭奴と言っていいのかもしれない女性です。
日野富子>鳴かぬなら・払いを先に・ほととぎす
大意>「鳴かない」ことを選択するのを認めないわけではありませんが、
いいこと、それにはまず私に銭を支払ってからにしてくださいナ。
時の権力者もそれなりの苦悩を吐露しています。
戦はメッチャ強かったものの、いささか政治オンチの傾向もあった室町幕府初代将軍
「足利尊氏」(1305-1358年)の場合です。
足利尊氏>鳴かぬなら・いかにすべきや・ほととぎす
大意>このようなイレギュラーな事態では、はてどう判断して良いのやら、
心が千々に乱れてすっかり混乱してしまうではないか。
鎌倉幕府が綻びを見せその足利尊氏が活動している時期に、カビの生えた証文、
要するに「天皇主権」の政治体制を主張したのが第96代・「後醍醐天皇」
(1288-1339年)でした。
後醍醐天皇>鳴かぬなら・鳴かぬが悪い・ほととぎす
大意>天下すべては天皇である私が仕切るのだから、その命令に従わずに
イチャモンをつけようなどとは何たる極悪人であることか。
江戸時代からも御一方。
江戸幕府の財政立て直しに貢献したといわれる第八代将軍「徳川吉宗」(1684-1751年)
です。
政治路線を巡っての御三家尾張藩の徳川宗春との確執は、そりゃあハンパなものでは
ありませんでした。
徳川吉宗>鳴かぬなら・尾州育ちか・ほととぎす
大意>私に逆らうようなホトトギスなら、宗春と同じく尾張で生まれ育った
「ひねくれ者」に違いあるまいゾ、まったく困った奴だ。
念のためですが、これらの歌は全部がフィクションであり、また実在の人物及び団体
とは一切関係ありませんので、その辺りは充分に御留意くださいね。
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