アレンジ編29/武家政権の日陰的将軍たち
組織のトップに征夷大将軍を据える形の「幕府」という政治方式を採用した
武家政権は、日本の歴史上に三つ登場しています。
しかも、そうした幕府の名称がそのまんま日本史の時代区分の名称にも採用されて
いるわけですから、このことはかなり重大な意義を持つものと思われます。
念のために、そうした幕府を時代順に並べてみるとこうなります。
〇鎌倉時代/鎌倉幕府(1185?-1333年)
〇室町時代/室町幕府(1336 -1573年)
〇江戸時代/江戸幕府(1603 -1868年)
それぞれの時代の間に挟まれている幾分の歳月は、いわば新時代へ移行するための
準備期間ということになるのかもしれません。
で、ここからが今回のテーマになるのですが、さてそれぞれの幕府の歴代将軍の名を
思い浮かべることができるか、ということです。
結構難しいことで、ちなみに筆者自身の場合だと、カンニングなしで何とか名前を
挙げられたのが、せいぜいのところ以下の程度でした。
〇鎌倉幕府→初代・源頼朝/二代・頼家/三代・実朝。
(なんと3人だけで、以降はギブアップ)
〇室町幕府→初代・足利尊氏/三代・義満/六代・義教/八代・義政/十五代・義昭。
(少しは増えたものの、これも5人限りでその他の方々はギブアップ)
〇江戸幕府→初代・徳川家康/二代・秀忠/三代・家光/五代・綱吉/
八代・吉宗/十一代・家斉/十三代・家定/十四代・家茂/十五代・慶喜。
(もう少し出るかと思いきや、9人ほどでギブアップ)
歴代ということなら鎌倉幕府九代、室町幕府十五代、江戸幕府十五代となり、
総計39人の将軍がいたことになりますから、計算すると17/39で、なんと半分にも
満たない、まさにトホホ感あふれる知識力になっています。
そんなサマを自慢するのもさすがにカッコウも悪いので、ここから筆者の逆襲と
なります。
~そんならアナタは、鎌倉幕府の第四代以降の将軍が誰であったのか、ちゃんと
ご存知ですか?~
「う~ん、誰だっけ?」となる方も少なくないのかもしれません。
源頼朝
なぜなら、~源氏将軍は三代で滅んだ~という史実がうっすらながらも刷り込まれて
いるせいもあってか、中にはだ第三代・源実朝が“最後の将軍”だと思い込んでいる方も
あるようです。
事実、学校生活を送っていた頃の筆者自身がその通りでした。
しかしながら(これは後になって知ったことなのですが)、三代で滅んだのは
初代・源頼朝の血統であり、鎌倉幕府そのものではありませぬ。
えぇ、先にも挙げたように第九代まで連綿と続いたというのが正しい史実という
ことです。
ただし、以降(四代~九代)の将軍は確かに存在感が薄い印象があります。
ということもあって、その後のの歴代将軍を多少しっかり目に眺めることにして
みたのです。
第三代・実朝が死んだことで、源氏嫡流の血筋が三代で絶えたその後の鎌倉将軍は、
皇族や公卿から、今風にいうなら「人材派遣」をしてもらうことで、実権を持たない
いわばお飾り的な存在になったようです。
武家政権のトップの座に全く人種?の異なる皇族が公卿や収まるなんて、何とも
いびつな印象ですが、史実はその通りでした。
たとえば、第三代・実朝の後継者たちはこの方たちでした。
〇第四代将軍・藤原頼経(1218-1256年)公卿 在職:1226-1244年/18年 3か月
〇第五代将軍・藤原頼嗣(1239-1256年)公卿 在職:1244-1252年/ 7年10か月
ともかく、こうしたスタイルは第三代将軍・源実朝(1192-1219年)の暗殺死から
鎌倉幕府滅亡(1333年)に至る間の100年以上に渡って続けられました。
しかし、「お飾りの的な将軍」ということであるのなら、その背後には
真の実力者がいたことになります。
そういうことなら、なぜそうした勢力自らが将軍職に就かなかったのでしょうか?
それは決して「遠慮深かった」というような奥ゆかしい理由ではなかったようです。
こうした「お飾り将軍」を朝廷側に出させるだけの力を持っていた実力者といえば、
鎌倉幕府初代将軍・源頼朝(1147-1199年)の妻・北条政子(1157-1225年)の
実家である「北条家」としても、まぁ間違いないでしょう。
そういうことなら、その北条家の身内の者自身が将軍の座に収まればよいではないか?
当然の発想です。 ところが史実はそのようには運んでいません。
なんで、そうなるの? 当然すぎる「素朴な疑問」です。
その「北条家」自らが実力将軍の座に就かなかった理由については、一応はこのように
説明されています。 参考:Wikipedia
~元はといえば、伊豆の一介の小豪族に過ぎない出自の低さのため、仮に将軍職に
就いても、有力御家人たちの心服を得ることは難しかったため・・・~
しかし、この説明はいささか「穏やか」に過ぎる印象がしないではありません。
もっと踏み込んで「遠慮なし・無礼講」でモノ申すならなら、北条家はいわゆる
「明日は我が身」という思いを抱いていたということなのでは?
北条政子 / 北条義時
つまり、こういうことです。
北条家は自ら担いで、初代・頼朝、二代・頼家、三代・実朝を将軍に就けましたが、
実は三人が三人とも「不可解な死」を迎えています。
初代・頼朝の場合は落馬?事故が死因とされ、二代・頼家、三代・実朝の両人は
明々白々の暗殺死です。
この三人の「不可解な死」に、北条家一族が少なからず関わっていたことは
間違いないでしょう。
ならば、いくつかのライバルは滅ぼしたとはいえ、まだまだ「有力御家人」たちが
残る環境下で無理を押して自ら将軍に就くことは、今度は自分達がそのターゲットに
なりかねません。
そこで「名より実を取る」つまり栄光の将軍職より、政界の「黒幕/フィクサー」的な
立場を選択したのでは?
なにせ、なにごとも「命あっての物種」ですからねぇ。
で、北条家がこうした小ずるい?政策を用いたことで、「栄光の将軍職」は、
単なる「派遣将軍/お雇い将軍」という立場になり下がり、結局、現代日本人に
とっては「無名の存在」?になってしまったということです。
そうしたことを改めての眺め直す意味で、先に挙げた第四代・第五代将軍以降、
最後の第九代将軍までの方々を再確認してみました。
すると、こうなっています。
〇第六代将軍
宗尊親王(むねたか/1242-1274年)皇族 第88代・後嵯峨天皇の第一皇子。
在職期間:1252-1266年/14年 3か月
〇第七代将軍
惟康親王(これやす/1264-1326年)皇族 第6代将軍宗尊親王の嫡男
在職期間:1266-1289年/23年 2か月
〇第八代将軍
久明親王(ひさあきら/1276-1328年)皇族 第89代・後深草天皇の第六皇子。
在職期間:1289-1308年/18年 3か月
〇第九代将軍
守邦親王(もりくに/1301-1333年)皇族
第八代将軍久明親王と第七代将軍惟康親王の娘との間の子。
在職期間:1308-11333年/24年 9か月
ここまで来て改めて思うわけです。
~鎌倉幕府における第四代から最後の第九代まで六人の将軍の
名前を挙げられる日本人は、いったいどのくらいいるものだろう?~
おそらくは少数派ではないのでしょうか。
逆にいうなら、こうしたことに目を向けてみるなんてことは、そのこと自体が
「相当にマニアックなこと」であり、断じて一般向きとは言えないということに
なるのかもしれませんねぇ。
言葉を換えるなら、こうも言えるのかもしれません。
~鎌倉幕府の第三代までは源氏嫡流であり、割合いに目立つ日向将軍と言えるものの、
第四代から最後の第九代までは武士でもなく目立たちもしない日陰的将軍~
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