偶然編17/五世の孫のお手柄異聞
ひょんなことから、いわゆる「子孫」に対する呼び方を探ってみることになりました。
「自分自身」を基準の「0世代」として眺めた場合、1世代下るごとにそれぞれが
どんな呼び方になるかということです。
1世代目=子/2世代目=孫/3世代目=曽孫/4世代目=玄孫(げんそん やしゃご)、
多分ここらあたりまで知っている人はそうそう珍しくないでしょう。
なにせ筆者ですら承知していたくらいですからねぇ。
なぜならごくごく稀なことではあるものの、超高齢者などの周辺では、
この「玄孫」という言葉が使われる場面もあるからです。
ところがその先となると、今度は知っている人のほうが珍しい印象です。
それはある意味無理もないことで、日常生活の場面においてこれ以降つまり
「5世代」以降の呼び方が使われることはほぼほぼない印象ですものねぇ。
それが証拠に、失礼ながらアナタだってご存知なかったでしょうに。
もしこれをサクサクと答えられるようでしたら、アナタはいささか変人系の領域に
踏み込んでいると自覚された方がよいと思われます。
来孫(5世孫)
それはともかくとして、折角の機会ですから、その「非日常の世界」へも首を
突っ込んでみましょう。
えぇ、「4世代目=玄孫」以降の世代の呼び方を知ってみようということです。
すると、このようになっています。
5世代目 (5世孫)/来孫(らいそん)
6世代目 (6世孫)/昆孫(こんそん)
7世代目 (7世孫)/仍孫(じょうそん)
8世代目 (8世孫)/雲孫(うんそん)
9世代目 (9世孫)/匡孫(きょうそん)
10世代目(10世孫)/曾来孫(そうらいそん)
ふえぇ、10世孫まであるってか!
それなら、~こうした呼び方はどこまで続くの?~ということになります。
その疑問に対しては、ネットのAIはこんな回答を用意してくれました。
~理論的には世代が続く限り命名が可能ですが、日本の文化においては
10世代以上の呼称はほとんど記録に残っていません。
古代中国では更に続く場合もありましたが、実用性や記録の希少性から、
ここまでの範囲で十分とされているようです~
そりゃあそうかもしれません。
世代を下れば下るほどその「血縁関係」の範囲は拡散していき、同時にその分だけ
「人類皆兄弟姉妹」という感覚に近づいていくからです。
そうなると、たとえば「8世孫」なんて表現は、逆に意味が薄過ぎて、使わなく
なっちゃうのも当然かもしれません。
裏を返すなら、
~感覚的に血統と感じられる限界線は、この5世孫(来孫)あたりになるのかなぁ~
ということです。
その5世孫は、もう使い慣れた言葉でなら「孫のそのまた曽孫」と言い換えることが
できます。
そしてこの「5世孫」(孫の曽孫)は、実は日本史的にも大変に面白い場面で、
しかも何度か登場しているのです。 それも眺めみましょう。
最初は、以下のように説明される神武天皇です。
~筑紫の日向で誕生し、45歳時に兄や子を集め東征を開始。
数々の苦難を乗り越え中洲(大和国)を征し、畝傍山の東南橿原の地に都を開いた。
そして翌年に即位して初代天皇となる~
そして、その戸籍?はこうなっています。
~天照大神の孫・瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の曽孫~
天照大神の「孫の曽孫」という説明ですから、つまりは天照大神からみたらビッタシ
「5世孫」ということになります。
要するにこの神話に基づくなら、「異世界」(人間世界/ヤマト民族)の統治は
最高神であってさえ「5世孫」に時代まで、長い長い時間を費やさなければ
ならなかったということのようです。
その画期的な大事件の時期については、こんな説明になっています。
~『日本書紀』に基づく明治時代の計算によると、
即位日は西暦紀元前660年2月11日~
うへぇ、古ッ!
しかし、これでも「5世孫」の時代なのですから、「0世代」ともなれば気が遠くなる
くらいの大昔のお話になるのは無理もないことなのかもしれません。
初代・神武天皇 / 平将門
さて時代をもう少し下って、続いては第26代・継体天皇のケースです。
先代の第25代・武烈天皇が後嗣を残さず崩御したため、当時の政界実力者たちの
推戴を受けて即位したとされているのがこの継体天皇です。
しかし大きな声では言えませんが、実は先代武烈天皇とは血縁関係が・・・
「全くない」というわけではないようですが、その関係はなんと「四従兄弟」に
あたるとの説明です。
でも、何ですかぁ、この「四従兄弟」って?
面倒ですが追ってみる必要がありそうです。 するとこんな説明に遭遇しました。
親同士が「兄弟姉妹」の血縁関係になると、これを「従兄弟姉妹」(いとこ)の関係と
呼び、そして、もう一つ世代を下ると、これが「再従兄弟姉妹」
(はとこ/またいとこ/ふたいとこ)との表現になるとのことです。
なんの、ここで諦めてしまってはいけません。
さらに下って、その次が「三従兄弟姉妹」(さんじゅうけいていしまい)、
そしてトドメにもう一つ下ると、やっとこの
「四従兄弟姉妹」(よんじゅうけいていしまい)になるのです。
こうなると実際のところ、その関係性はもうほとんどワケが分かりませんから、
別の言い方を探してみるとこうなるとのことです。
~自分の高祖父母の血を引く、さらにその先の関係。
(自分の祖父母のいとこの孫に当たる人が該当)~
余計に分からなくなってしまいそうですが、遠慮なく言わせていただくなら、
ほぼほぼは「赤の他人」に近い「血縁関係」と言ってもよさそうです。
ではこの場合だと、天皇資格者の鉄板ルールである「万世一系」をすっかり無視
しちゃっているわけですか?
当然のツッコミですが、ところがギッチョン。
いいえ、そうでもありませぬ。
なぜなら、このように説明されているからです。
~第26代・継体天皇は第15代・応神天皇の「5世の孫」~
出たッ、またまた「5世孫」だがや!
つまり、継体天皇は「応神天皇の孫の曽孫」であるからして、皇統の「万世一系」は
瑕疵なく継承されているとの説明です。
でも、ホントに問題ないのかなぁ。
それに対して、
~5世孫ということなら、血統についての問題はなんにもありゃせんゾ~
こう宣ったのが、平安中期の関東の豪族である平将門(903?-940年)でした。
こんなことをした人物です。
~下総国・常陸国に広がった平氏一族の抗争は関東諸国を巻き込む争いとなり、
その際に国府を襲撃して印鑰を奪うや、京都の朝廷 朱雀天皇に対抗して
「新皇」を自称して東国の独立を標榜~
朝廷と対立したために、それならばとばかりに「関東独立国」?を樹立し、自らが
そのトップである「新皇」(しんのう)の座に就いたということです。
そうした行動はこんなことの意思表示でした。
~陋習だらけで老朽化した旧来の朝廷は西国で勝手にやってくれて構わない。
ただし関東に限っては、ワタシ将門が新体制をもって治めていく~
国家公認の施政者の存在をハナから無視するとの宣言ですから、モロに「国家反逆罪」
にあたる行動です。
しかし将門自身は、反逆なんて大それた思いは微塵も抱いていませんでした。
なぜなら、
~ワタシは第50代・桓武天皇の「5世孫」であるッ!~からです。
要するに、自らが皇統に繫がる者であることを訴え、これを自らの正当性と
したということです。
でもしかし、その「5世孫」というのはホントにそうだったのかしらん?
そんな疑念を検証するために、基準にされたその桓武天皇まで遡ってみましょう。
すると、こういうことになっていました。
桓武天皇の「孫あるいは曽孫」が平高望(賜姓皇族・高望王のこと)であり、
その孫が平将門とされています。
ですから、桓武天皇の「5世孫」を主張したということなら、平将門自身は、
自分の祖父・平高望を「桓武天皇の曽孫」と認識していたことになります。
ええ、桓武天皇の「曽孫(高望)の孫(将門)」、逆の言い方なら「孫の曽孫」
であり、ものの見事に、
~ワタシは第50代・桓武天皇の「5世孫」であるッ!~となりますものねぇ。
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