ヤジ馬の日本史

日本の常識は世界の非常識?この国が体験してきたユニークな歴史《日本史》の不思議をヤジ馬しよう!

怪人編36/乱暴者で図々しくて恥知らず

~武士Aが従弟であり同僚の武士Bの妻Cに横恋慕し、その挙句に殺人を犯した~
現代なら、さほどに珍しいとも思われないお話ですが、「武士」が登場している
のですから、お話は昔の昔のことに違いありません。
その辺にいささかの興味を覚え、今回ちょっと首を突っ込んでみることにしたものです。


さて、武士とは紹介されていますが、AもBもいわゆる「北面の武士」とのことです
から、どうやら武士政権の鎌倉幕府が成立する以前の事件のようです。
しかも、その展開がバッチリ史実なのかといえば、この点についても、実はいささか
確証に欠ける印象になっているのです。


ちなみに「北面の武士」とは、
~院(上皇)御所の北面に伺候して警護にあたった武士~
ですから、今風目線で眺めるなら、
「近衛兵」あるいは、日本の「セキュリティポリス」(SP/要人警護官)とか、
アメリカ合衆国の「シークレットサービス」(SS/大統領警護官)職員とか、はたまた
「ボディガード」(警護員)や「機動隊」(治安警備)もどきの存在になりそうです。


それはともかく、その「殺人事件」の経緯は妙に込み入っており、当事者各位に
とっては、大きなストレスにもなったようです。
ただ、事件に関りのない筆者のような立場の者からすれば、それなりに興味津々の
一面を感じるのも事実です。


上では仮名としていましたが、ここで事件関係者の御名前を出しておきます。
   武士A→遠藤盛遠  /まだ十代での出来事。
 武士B→源(渡辺)渡  /盛遠の従弟で同僚(北面の武士)。
武士Bの妻C→袈裟御前  /目の覚めるような美人とされる。


この遠藤盛遠は、若い頃から奇行が絶えなかった人物とされています。
そんな盛遠が、親戚の供養の際に従弟で同僚の渡辺渡の妻である袈裟御前を見て恋慕
したまではともかく、そんなクセの強い人間ですから、とんでもなく強引な迫り方を
したようです。
現代なら間違いなく「ストーカー」認定されたに違いありません。


   切った首を月明かりに照らし出す遠藤盛遠


断っても断っても繰り返し迫られるばかりか、盛遠はついにはこんな脅し文句さえ
突き付けてきたのです。
~ええか、オレの言うことを聞かないとお前の母を殺すぞ~


すっかり追い込まれてしまった袈裟御前はこう答えました。
~私は夫のある身。 夫がいる以上アナタの言うことを聞く訳にはまいりません。
 でも、それほどまでにお慕いくださるなら今夜寝所に忍び込んで夫を討って

 ください~


夫のいない立場になれば、結婚も不可能ではないと仄めかしたわけです。
こうしたことも「殺人教唆」に当たるのかどうか筆者はよく知りませんが、ともかく
この言葉を信じた盛遠は、暗闇の中で寝所に忍び込んで、袈裟御前の夫・渡辺渡の首を
まんまとはねて殺害。


と思いきや、ところがギッチョン!
その首を灯にかざして見ると、何とそれは恋い焦がれた袈裟御前だったのです。
つまり、袈裟御前は夫の身代わりとなるべく、男装して寝所で待ち構え、わざと自分が
殺されるように仕向けたということです。


自らの命と引き換えに貞節を貫き通した袈裟御前。
いかに乱暴者で奇行常習者であったとはいえ、そうした彼女を自らの手で殺してしまった
盛遠の心痛は、さすがに深いものがありました。
自らの行いを恥じた盛遠は袈裟御前の菩提を弔うために出家したのです。
18歳でした。 
これが、後の真言宗の僧・文覚もんがく/1139-1203年)の若き日の姿でした。
ちなみに、被害者夫・渡辺渡も出家し渡阿弥陀仏(重源とも)と称したようです。


ということで、ある意味で一種の怪人?であった、この遠藤盛遠に関して「古文書」の
類が伝えるお話を拾い集めることにしてみました。
当然ながら、その中にはヨタ話やホラ話、あるいはトンデモ話が含まれているものと、
思われますから、そこらあたりは各人でご判断いただきながらお付き合いください。


要するに、本記事にそうした類のお話が含まれていたとしても、その責任は
筆者にではなく、ひとえに「古文書」類の側にあるということを言っておきたい
わけですねぇ。


さて、まずは《平家物語》(成立年未詳)の読本系諸本を探ってみることにします。 
しかしまあ、「読本系諸本」とは、いかにもひち面倒な表現になっていますが、
実はこれには理由があります。


《平家物語》とは、文字ではなく、語りもの(音曲)として琵琶法師(盲目の僧)に
よって語られたことで広く愛好された作品だからです。
つまり「BOOK」ではなく「MUSIC」ということです。


さてお話を、その《平家物語》の読本系諸本に戻すと、そこにはこんな記事がある
ようです。
〇熊野の那智の滝に雪中五日も浸かる荒行で死んだが、不動明王の童子に助けられ、
 生き返った(息を吹き返した)。
〇高尾神護寺に勧進し、院御所法住寺殿へ押しかけて暴力を振るったため、
 伊豆へ流罪になった。


〇この伊豆の地で源頼朝(1147-1199年)に出会い、父・義朝のしゃれこうべ(髑髏)を
 見せて決起をうながした。
〇その際、伊勢国の安濃津から出航した後、遠江の天竜灘に差し掛かったところで
 嵐に遭遇した文覚は船の舳先に立って「聖が乗る船に危害を加えるとは何事か!」
 と大喝するや、すぐに波風が収まった。

これなどは、俄かには信じがたいホラ話チックなエピソードになっています。


平家滅亡(1185年)後のこと、八十歳にして謀反の疑いを受け対馬へ流された。
〇死後の文覚は怨霊となり、
「承久の乱」(1221年)に敗れ、隠岐へ流された
 
後鳥羽上皇(第82代天皇/1180-1239年)の枕元にまで現れて暴れた。
ですから、ジイサンの年代になっても、あるいは死後にも、それなりの活躍をみせて
いたことになります。


   

         文覚 / 源頼朝


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また、その《平家物語》の読本系諸本の一つに数えられる《源平盛衰記》
(48巻/著者不明)には、こんな紹介があるようです。
〇長谷観音に申し子として生まれたが早く孤児となり、幼児期よりすっごく乱暴者、
 かつ厚かましくて図々しく、さらには恥知らずであった。
 
こりゃまた、散々な評価です。


また、最初の武家政権・鎌倉幕府の記録《吾妻鏡》には、
〇籠居( 家の中に引き籠る)または入定(高僧の死)を装って福原京に上り、
 平氏追討の院宣を賜って頼朝にもたらした。
〇江ノ島の洞窟に籠ってまじないを行う。

このように、宗教者としての一面も紹介されています。


さらに、《玉葉》(66巻)には
〇源頼朝が文覚を木曾義仲のもとへ遣わし、平氏追討の懈怠(怠慢/おさぼり)や
 京中での乱暴などを糾問させた。

《愚管抄》(7巻)には、
〇乱暴で、行動力はあるが学識はなく、人の悪口を言い、天狗を祀る。
〇文覚と頼朝は四年間朝夕慣れ親しんだ仲である


ちなみに、前者《玉葉》は摂政関白・九条兼実(1149-1207年)による、この時代の
政界実情を記した日記で、また後者《愚管抄》は天台宗座主・慈円(1155-1225年)に
よる歴史書であり、そして九条兼実と慈円は実の兄弟という関係になります。


さらには、筆者はまったく知らなかった、というよりその読み方すら分からない
《井蛙抄》という書物も、この文覚について触れているようです。
その前に、その書物の方についての紹介を覗いてみると、
『井蛙抄』(せいあしょう)は僧で歌人の頓阿(とんあ/1289-1372年)が
 1360年〜1364年頃に著した書物で、写本によっては
『水蛙眼目』(すいあがんもく)
 とも呼ばれる~

いずれにせよ「蛙」サンの文字を取り込んだ書名になっています。


さてその、メッチャ読みにくいタイトルの《井蛙抄》によると、
〇文覚が僧侶・西行法師(1118-1190年)を憎んでいたとの噂があった。


ここに登場する西行法師とは、以下のように紹介される歴史有名人です。
~俗名は佐藤義清(のりきよ)で、鳥羽院下北面の武士として仕えたが23歳で出家。
 陸奥(みちのく)から中国・四国まで行脚するなど生涯にわたって旅が多く、
 旅の体験を通して自然と心境とを詠み、独自の詠風を築いた~


《井蛙抄》は「噂」と断っていますから、コトの真相は不明ですが、それにしても
20歳ほど若輩者・文覚の方が、年配者・西行を「憎んでいた」とは穏やかでは
ありません。
まあ、元・北面の武士とか、女性問題が動機となって出家したとか、両者には共通する
ところもあるので、何らかの関りがあったとしても不思議ではないのですが。


しかしまあ、西行の知るところではなく、むしろ文覚の一人相撲だったと受け止める
方が無難なのかものかもしれません。
えぇ、なにしろ《源平盛衰記》の文覚評はこんなですものねぇ。
~すっごく乱暴者、かつ厚かましくて図々しく、さらには恥知らず~


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