ヤジ馬の日本史

日本の常識は世界の非常識?この国が体験してきたユニークな歴史《日本史》の不思議をヤジ馬しよう!

逆転編30/江戸幕府御触書の紆余曲折

江戸幕府の第三代将軍となった徳川家光(1604-1651年)の政治姿勢を眺めると、
少なからず「上から目線」であることに気が付きます。 
家光の祖父である初代将軍・家康(1543-1616年)も、また父である二代将軍・
秀忠(1579-1632年)も、かつては諸大名らと共に戦地を駆け巡った経験を持つ
人物です。


ところが、既に徳川幕府が成立した後に生まれた家光にはそうした経験は皆無です。
そこて、こんな言葉が発せられることになります。
~余は生まれながらの将軍である~
諸大名に君臨し、また統治することを運命づけられた存在であると宣言している
わけです。


つまり、こうした意識の表れは諸大名には対して、常に「上から目線」をもって
臨んでいたことになります。
ですから、諸大名に対する改易(取り潰し)をかなり盛んに行ったのも、そうした
背景があってのことだったかもしれません。
諸大名の力を削げば削ぐだけ、また諸大名を潰せば潰すだけ、諸大名全体の力が弱まり、
その結果として、諸大名に対しする力関係が幕府に有利、つまり絶対的な君臨に
繫がると考えていたでしょう。


こうしたやり方に対して諸大名から不平不満が出ます。
諸大名からすれば、やられっ放しという形ですから当然のことです。
しかし、ここでも家光の強圧的な姿勢は崩れません。 こう言い放っています。
~(幕府の決定に)不服があるなら、国許へ帰って戦の仕度をするが宜しかろう~


   「慶安事件」(由比正雪の乱)


大名に対する改易は浪人を生みます。
御家が潰されることで、主君と家臣という関係も崩壊してしまうからです。
今風にいうなら、多くの会社が倒産に追いやられ、そこで働いていた社員が軒並み

失業者となってしまう姿に似ています。


但し現代の失業者と大きく異なる点があります。
それは、この時代の「失業者」(浪人)は基本的に武器(刀)を携帯していることです。
主君不在となったとて、「武士の魂」(刀)まで捨てるわけではないのです。


ですから本当を言えば、家光幕府も改易作業に精を出すなら出すで、それと並行して
浪人対策にも手をつけるべきだったでしょう。
ところが、改易に躍起になるあまり、この問題に配慮をみせることはありませんでした。
ですから、運よく再仕官できる者もいたのでしょうが、多くは浪人、いわば失業軍人の
立場に留まらざるを得なかったということです。


理屈から言えば、そうした浪人たちにも、郷里へ帰って百姓をするなりの道もあった
のでしょうが、これでは浪人の心に沁みついた「武士のプライド」を満足させることが
できないのです。
さて、そうした中で「高姿勢」家光が薨去しました。
慶安4年(1651年)4月、家光48歳のときでした。


その後継として、家光の子・家綱(1641-1680年)が、第四代将軍となるべく手続きが
進められました。
ただ、そのときの家綱は今風なら小学四・五年生という年齢でした。


貯まりに溜まっていた浪人たちの不平不満は、この故・家光から幼・家綱への
バトンタッチの間隙を突く形で爆発しました。
軍学者・由比正雪(1605-1651年)を首謀者とした浪人グループが決起したのです。
「慶安事件」(慶安四年・1651年)と呼ばれています。


念のためですが、同じ出来事を「慶安の変/由比(井)正雪の乱」と呼ぶことも
あるようです。
その意図は「江戸幕府転覆計画」だったとされていますから、今風の言い方なら
「クーデター」を目論んだことになりそうです。


ところが、結構気宇壮大なその目論見は、同時に緻密さに欠ける杜撰さもあって、
決起は成功することなく、結果として一同は追い詰められ多くの自決者を生みました。
この決起の原因が家光の力づくの「武断政治」にあったことは間違いありません。


では、家光のこうした「強圧的/上から目線」政策は、単に大名だけに向けられたのか?
実は、そうではないとする見方があります。
それが「慶安の御触書」(慶安二/1649年)で、ざっとこんあ説明になっています。


~家光の時代に江戸幕府が発令した、農民に対する決まりごとを定めた文書で、
 農業の方法から生活のあり方・服装に至るまで、日々の中で守るべき心得を
 定めた全32条から成る~


げっ、32条ってか、随分と細かいことまで言っているようだ。
そこで大雑把なところだけを拾ってみると、農業の営みについてだけでも、こんな
按配になっています。


〇麦や粟・稗などの雑穀を作り、米を食べ尽くさないように。
〇田畑の除草をこまめに行い、空いた時期には大豆や小豆を植えるように。
〇麦を植えられそうな場所を探して、少しでも生産するように。
〇牛や馬を飼って、堆肥を作るように。
〇農作業のない正月には鍬や鎌などの農機具の手入れをするように。


これだけではありません。
農民の日々の暮らし方についてもバッチリ文言が並びます。
「小さな親切、大きなお世話」って、こういうことを言うのかもしれませんねぇ。


〇朝は早起きして草刈りをし、昼間は田畑で耕作を行い、夜も縄や俵を編む仕事を
 休まずするように
〇農民の着る衣類は麻と木綿のみとし、帯や裏地もそれを守るように。
〇幕府の定めを守り、領主や代官に従うように。

 また名主、組頭を本当の親と思って接するように。


〇たばこや酒や茶を買って飲む(贅沢をする)ことのないように。
〇生活が成り立たないなら、子どもを養子に出したり奉公へ出したりするように。


一方的に縛るだけではさすがに可哀そうと思ったものか、それなりに「救い」もどきの
言葉も添えています。
◇百姓は田を受け継ぐことができるのだから、きちんと守れば子孫まで安心して
 暮らせるゾ。
◇年貢さえきちんと払えば、百姓ほど安心な職業はないゾ。
◇百姓にとっては、この御触書を守ることがしっかりと得になるゾ。


ところがギッチョン!
この「慶安の御触書」はなかったという見解が登場し、現在ではこちらの方が、
むしろ有力視されているとか。
しかしまあ、なんでそうなるの?


 

    第三代将軍・徳川家光 / 儒学者・林述斎


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~これまで「慶安二年二月廿六6日」との日付が記された文書が存在することから、
 この時期に定められた(御触書)とされていた。
 ところが肝心の原本そのものが発見されていないことなどから、専門家の間で
 議論の対象となった~


では、何がその「議論の対象」になったの?
~発令された時期だけでなく、本当に江戸幕府がこの御触書を出したかどうか~
ゲッ、では、その日付入りの文書はまるっきりの「偽書」ということなの?
ところが、ややこしいお話ですが、そうでもないようなのです。


こんな説明を見つけました。
~「慶安御触書」は原本が見つかっていないことや、江戸幕府の公式文書にその名が
 ないことなどから、明治時代にはすでにその存在を疑う声が上がっていた~


なんだとぅ、だったら早く言って欲しかったなぁ。 
でもそういうことなら、この「慶安の御触書」の正体は一体何なのさ?
~近年では江戸幕府が定めた正式な文書ではなく、17~18世紀に農民の
 教育のために書かれた教科書がルーツであるという説が有力視されている~


幕府の文書ではなく、なんと教科書だってか。 なんでそうなるの?
~近年になり、地域の史料調査によって、『慶安の触書』の原型と見られる文章が
 発見された。
 それは17世紀半ばに甲州から信州にかけて流布していた
『百姓身持之事』という
 地域の百姓に対する説諭的な教諭書をもとに、1697(元禄10)年に甲府徳川藩が
 発令した
『百姓身持之覚書』という甲府徳川藩法だった~


説明はさらに続きます。
~そして、当時の甲府徳川藩主は徳川綱豊(のちの第六代将軍・家宣/1662-1712年)
 であり、また後の時代にこの『百姓身持之事』を発見し、幕府の
『慶安の触書』
 して領内に広く流布させた人物は、儒学者・林述斎(1768-1841年)だった~


述斎は、幕府の教育機関として昌平坂学問所を整備した人物であり、
この『慶安の触書』は木版印刷を使っての流布だったようです。
すると、この説明は、述斎大先生がペテンをかましたという意味なの?
これもどうやら違うようなのです。


~そして、林述斎による『慶安の触書』は、述斎に縁のあった東日本の幕領の領主が
 採用して広く流布することになり、さらには明治になり幕府法令として
『徳川禁令考』
 に収録され、全国に流布したということのよう~


以上の経緯を整理してみると、こういうことなの?
 →17世紀半ば/甲州から信州にかけて『百姓身持之事』が流布。
その『百姓身持之事』を元に、
 →17世紀末期/甲府徳川家が『百姓身持之覚書』を発令。


その『百姓身持之覚書』を再発見した林述斎が、
 →18世紀前半/幕府の『慶安の触書』としてまとめる。
その『慶安の触書』が、
 →19世紀後半/幕府法令として『徳川禁令考』に収録。


こうした経緯が正しいものだとすれば、書名に「慶安」と謳ってあるものの、
その時代の三代将軍・家光とはまったく無関係だったことになります。
つまり、本記事でその家光の人物像をとうとうと述べてきた筆者の顔は丸潰れという
ことですから、イヤでもこういう結論になってしまいそうです。
~諸大名を潰した家光/顔を潰された筆者~


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