ヤジ馬の日本史

日本の常識は世界の非常識?この国が体験してきたユニークな歴史《日本史》の不思議をヤジ馬しよう!

デジャヴ編31/血統交代ありの万世一系

七世紀半ばから八世紀末に至る間に在位した歴代天皇の方々に、その代数順に
並んでいただくと以下のようになります。(数字は代数/女性天皇は女帝と表記)
~38・天智-39・弘文-40・天武-41・持統女帝-42・文武-43・元明女帝-
 44・元正女帝-45・聖武-46・孝謙女帝-47・淳仁-48・称徳女帝-
 49・光仁-50・桓武~

さらに付け加えておくなら、46・孝謙と48・称徳は諡号こそ異なりますが、実際には
同一人物で、重祚(再即位)したことで諡号も二つ持つことになったものです。


さて、そのうちの38・天智と40・天武、この御二方について簡単な紹介を記すなら、
このくらいになりそうです。
38・天智天皇(626-671年)
  →中臣鎌足と謀って蘇我氏を滅ぼし、孝徳・斉明両朝の皇太子として
   大化の改新の諸政策を行なった。
   斉明天皇崩御後も皇太子のまま称制し、白村江で唐・新羅軍に大敗以後、
   都を大津に移して即位した。


40・天武天皇(生年不詳-686年)
  →兄の天智天皇即位の際、皇太弟となったが、天皇の死を前に吉野山中に退去。
   天智の後継である大友皇子(弘文天皇)との間に壬申の乱(672年)が起こり、
   旧勢力を平定し即位した。


そして、この御二方の天皇について「日本書紀」はこのように主張しています。
~38・天智天皇と40・天武天皇は共に「父・舒明天皇/母・斉明(皇極)天皇」であり、
 まったくの「同父同母兄弟」である~


平たく言えば、38・天智から40・天武への皇位継承は天皇家のテッパン原則である
「万世一系」に則った、落ち度の欠片もないまったく正当なものである、としている
わけです。(ちなみに、39・弘文即位の認定は明治時代のこと)


ところが、実際には歴代天皇の内の40・天武→48・称徳までの九代(八人)の天皇を
「天武系」天皇、これら以外の方々を「天智系」天皇とする意識も存在しているのです。
そのことは、~歴代の天皇や皇后、皇族の尊牌(位牌)が奉安されている~とされる、
いわば天皇家の菩提寺である泉湧寺の祀り方によっても一目瞭然です。


なんと、40・天武から48・称徳女帝までの、いわゆる「天武系」天皇のお歴々が
ものの見事に仲間外れにされているのです。
ということは、当時の人々の間には「天武天皇はいささか正当から外れた血統」とする
意識が強かったことを示しています。
なぜなら、もし少数派の意見だったとしたなら、歴代天皇を祀る「菩提寺から排除する」
などというようなメッチャ過激な対応はしなかったし、できなかったはずだからです。


ということは、当時の一般的な認識はこのようだったことになります。
~40天武に取って代わられた38・天智の血統は、49・光仁、50桓武の代になって
 返り咲いた~


もう少し詳しく眺めるなら、返り咲いた「天智系」天皇の49・光仁は確かに
38・天智の孫に当たる人物ですが、ただ、その皇后となった井上内親王の父親が
「天武系」の45・聖武天皇という血筋にあり、そのため、その間に生まれた子が天皇に
なったなら、これは「天智系」の完全復活とまでは言えません。


ところが49・光仁の後継は、そうした天武系の血筋とはまったく無縁の夫人
(皇后より下の位)の高野新笠との間に生まれた山部親王(50・桓武)でした。
そのため、この50・桓武を完全復活した「天智系」の最初の天皇とする見方もできます。


要するに、「天武系」天皇の最初の天皇→第40代・天武天皇(生年不明-686年)。
 完全復活「天智系」天皇の最初の天皇→第50代・桓武天皇(737-806年)

このようにみることができるわけです。


   第40代・天武天皇


そして、実はこの二人の天皇にはいくつかの共通点を見出すことができます。
そこらあたりもちょっと探ってみると、一番分かりやすいのはその諡号それぞれに

共通して「武」の字が付いていること。
しかし、これはあまり意味のある共通点ではないのかもしれません。


なぜなら、40・天武/42・文武/45・聖武/など「天武系」男子天皇は、全員が
「武」の字が付く諡名になっているからです。
ひょっとしたら、この時代ちょっとした「武の字諡号」ブームがあったのかも
知れません。


では、47・淳仁はどうなのだと突っ込まれそうですが、実はこの天皇は在位中に
止めさせられるという、なんとも不名誉な顛末を演じたせいで、長い間にわたって
単に「廃帝」(クビになったダメ天皇)との呼ばれ方をしていました。


しかし、一旦は即位されたのに「廃帝」のままでは、あまりにもお気の毒ということで、
これも明治時代になって諡号されたものです。
ちなみに、この天皇は「日本書紀」を編纂主催した舎人親王の子ですから、
40・天武の孫に当たります。


しかしまあ、先の「39・弘文天皇」といい、この「47・淳仁天皇」といい、
この御二方にきっちり諡号した明治政府はなかなかに気っぷがよろしい。


それはともかく、他の共通点を探してみると、実は「焚書」を挙げることができる
のかもしれません。
しかも、双方ともがかなり大がかりといってもよい規模の「焚書」です。
ちなみに「焚書」とはこのような行為を言います。
~政治権力による思想・言論統制策の一つで、書物にもられた思想を禁圧し、その流通、
 伝播を防止するために、公開の場で当該の書物を焼き捨てる行為、儀式をいう~


ですから、40・天武が行った「焚書」の影にはこんな理由があり、また、こう主張した
かったのでしょう。
~世間に広まっている誤りや贔屓が混じった諸々の歴史書は整理処分し、真に正しい
 歴史書として製作したのが、息子・舎人親王に編纂させた「日本書記」なのだ~


つまり、「日本書紀」と異なる内容の歴史記録が、あちらこちらに残っていたのでは
大変にマズい。
逆に言えば、正誤を比較できるような「史料」そのものを無くしてしまえば、
当然「日本書記」が唯一正しく正確であると主張できることになるわけです。


そこで、各豪族家が保存する「歴史書」の類を迷わず「焚書」としたのでしょう。
その意味では、「日本書記」とは天武系による天武系のための「大本営発表」
見ていいのかもしれません。


その点、40・天武の場合とは直接的な動機の面では違いがあるももの、50・桓武も
シッカリ「焚書」を実行しています。
実はこの頃までは、朝鮮半島に天皇家に縁の深い飛び地?「任那」がありました。


さらには、何度かその「任那奪還」を企てたこともあったようですが、巧く運ぶことが
叶わず、ひょっとしたらこの50・桓武の時代にその奪還を諦め「見果てぬ夢」と
したのかも知れません。


言葉を換えるなら、任那に対する「望郷の念」を断ち切ったということです。
そのためには、後ろ髪を引かれるような、また未練たらしい諦め方はしないはずで、
当然のことながら、「任那の記憶」つながる記録の類は一切合財処分したハズです。
えぇ、そのカタチのひとつが大掛かりな「焚書」になるのは、容易に想像がつく
ところです。


   

     第50代・桓武天皇 / 早良親王(崇道天皇)


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探せばまだありそうです。 たとえば「祟り」もその一つです。
エッ、御二方は「祟り」を受けていたの。
科学的には「祟り」があったとは言えませんが、本人たちがそのように受け止めて

いたのは、ほぼ間違いなりません。


たとえば、40・天武の場合なら、あろうことか三種神器「天叢雲剣」(草薙剣)
祟りを受けたというお話があります。
~天武天皇が病に倒れる(686年)と、占いにより草薙剣の祟りと判明。
 神剣は再び熱田神宮へ戻されたが、天武天皇は回復せず崩御した~


これは、本来あるべき熱田神宮から草薙剣を持ち出し、それを戻すことなく永年に
わたって天武の手元(宮中)に置かれ続けていたことを示しています。
しかしまあ、仮にそうではあったとしても、「三種神器」がよりによって、正統な
継承者であるはずの天皇その人に祟るなんて!
ひょっとしたらこれも、40・天武の血統の正当性を疑問視したお話なのかもしれません。


では、50・桓武にも祟りはあったのか? その答えは「あったとも!」です。
~桓武天皇の同母弟の早良親王は、兄・山部親王(桓武)が即位(781年)するに
 ともない、皇太子となる~

ここまでは問題ありません。


ところが、政界実力者であった藤原種継に対する暗殺事件(785年)が起こると、
それを実行した犯人らが、このように自白したとされています。 
~ボクたちは、早良親王と相談して、計画し実行したんだ~
もちろん早良親王は即刻に逮捕・幽閉されました。


とんと身に覚えのない早良親王は凄まじい抗議と行動をもって無実を主張しました。
~飲食をみずから絶って10日余を経て、淡路へ移送される途中、憤死した~
ところが問題はその後で、50・桓武の身の回りでやたらの異変が続いたのです。
~夫人、生母、皇后らが相ついで死亡し、792年には早良親王に代わって皇太子と
 なった安殿親王の病状も悪化し、遂には早良親王の怨霊が取り沙汰された~


そこで50・桓武は、
~早良親王の墳墓に墓守を置き(790年)、その墓地に堀を巡らせ(792年)、
 穢れることのないようにし、経典の転読(声をあげて読む)や供物などをした~


ところが、それだけでは目論見通りの怨霊に対する慰撫・鎮魂とはならず、遂には
「崇道天皇」の尊号を贈る(800年)までして宥めに努めなければなりませんでした。
これよりずっと後の第82代・後鳥羽天皇は、三種神器が整わないまま即位したため、
「神器なき即位」と言われましたが、その表現を用いるなら、こちらの崇道天皇は
諡名だけの「即位なき尊号」と言えるのかもしれません。


そうした40・天武と50・桓武の経緯から、こんなことが言えそうです。
~ある種の血統の祖たらん者は、きっちりと「焚書」(情報統制)もせにゃならんし、
 死に物狂いで
「怨霊鎮魂」(祟り対策)もせにゃならん~
ということになり、いずれにせよ多忙で気苦労も重なる結構大変なお立場だった
ようですねぇ。



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