落胆編17/バイリンガル鼻ッ柱折れる
今回のお話の主はオギュー・ソライ。
ちょっと聞いただけだと、あたかもフランス人あたりの名のようにも感じられますが、
実は歴とした日本人の名前で、漢字で表すなら
荻生徂徠(おぎゅう・そらい/1666-1728年)となります。
どんな人物なのか。
~江戸時代中期の儒学者・思想家・文献学者で、「古文辞学」を標榜した~
メッチャ簡単になら、このくらいの案内になります。
そして折角ですから、その「古文辞学」とやらも覗いてみることにすると、こちらは
こんな説明になっています。 ~荻生徂徠に始まる儒教古学の一派~
「新儒教」とされる「朱子学」の創始者・朱熹(1130-1200年)についても、とにかく
「古代の言語を全く知らないと批判した」とのことですから、それからすれば、
古代言語については一家言持った人物だったようです。
ちなみに、あの有名な「赤穂事件」(吉良邸討ち入り/1703年)が起こった際にも、
この徂徠の名が登場しています。
「浪士」の扱いを巡っては、幕府内部から「助命」の声も上がる中で、断固として
「切腹」を主張した人物としてもよく知られているということです。
さて、お話は海外の状況に移り、しかも時間的にも幾分前後します。
実は、この少し前に中国大陸では漢民族による正統な?王朝「明」が滅んで、
「満州族」という蛮族?による「清」王朝が樹立しています。
つまり、この頃の日本人インテリ層にある多くは、少なからずこんな落胆・喪失感を
味わっていたと思われます。
~憧れの対象だった「真の文明国・中国」が、なんとこの世から消滅してしまった~
自分たちこそが「世界そのもの」であり、それ以外には何もないとする、徹頭徹尾
「唯我独尊」と言っていい中華思想からすれば、「漢民族国家の滅亡」なんてことは、
すなわち「世界が消滅する」ことであり、「あり得ないこと」だからです。
ところが、その驚天動地の出来事が現実に起きてしまったのです。
要するに、「中国を師」と崇め、中華思想の権化となっていた当時の
日本人インテリ層の多くも、メッチャ大きなショックを受けたということです。
何しろ、先端文明国の中国ではなく、日本という文化不毛の地に生まれたことを
嘆き残念がるインテリ日本人もいたほどですからねぇ。
それほどに、当時の日本のインテリたちの中国かぶれは熱気を帯びていたという
ことになります。
もっとも、つい最近の二十世紀の日本でも、北朝鮮を「人類の理想郷」と見たり、
あるいは、今は既に消滅している「ソヴィエト連邦」(現ロシア)の体制・共産主義を
「人類の鑑」のように崇めたインテリ各位も少なからずいたわけですから、現代人だって
当時のインテリを嗤えるものではありません。
ええ、もうすぐ二十一世紀というメッチャ遅い時期になって、北朝鮮が人権無視の
独裁国家であることや、共産主義大国・ゾヴィエト連邦が崩壊するのを目の当たりに
したことで、やっとのこと「人類の理想郷」でもはたまた「人類の鑑」でもなかった
ことに気が付いた日本知識人もいたのですからねぇ。
それはともかく、さて、お話を徂徠サンに戻しますと、この方の中国古典に対する
学識たるや、それはもうハンパなものではありませんでした。
現代でいうなら、さしずめ「文化勲章間違いなし」のレベルにあったようです。
そればかりではなく、その上に「聖人の国・中国/東夷の国・日本」という意識を
強く強く抱いていたようですから、この「明国滅亡」(1644年)という
「中国ショック」?をまともに喰らった一人だったも言えそうです。
失礼を承知で平たく言うなら、その「中国崇拝」ぶりはハンパでなく、少し気取った
言い方なら、「中国古典の権威」という自負心をハンパなく強く持っていたのです。
その強い自負心は、例えばこんなお話にも姿を現しています。
朱熹 / 赤穂浪士切腹
当時は、中国文を訓読み返り点付きのスタイルで「日本読み」するのが普通でした。
それは著名な儒学者といえども例外ではなかったようです。
ところがドッコイ、そんな中にあって、この徂徠サンだけは予備作業無しで、
まんま「中国読み」をしていたそうで、しかもそこに留まらず、
それを「自慢」?のタネにもしていたようです。
ええ、こうした存在は決して珍しいものでもありません。
探せばアナタの周りにも、一人や三人くらいはすぐ見つけられるでしょうし、実際
筆者の周りにもその手の御仁はきちんとおられます。
さて、徂徠サンのそうした「自慢」には確たる裏付けがありました。
詳しいことまではよく分かりませんが、なんでも長崎の通辞から「中国会話」を
学んだとされているのです。 でも、なんで通辞から?
この頃は明国からの亡命者なども少なからずいたはずです。
たとえば、水戸藩主・徳川光圀(1628-1701年)に招かれた?あるいは亡命した?
中国明の儒学者朱舜水(1600-1682年)もそうした一人でした。
ですから、徂徠さんもこうした人たちから学び習得する方法もあったように
思えますが、徂徠サンについては、一応は「長崎の通辞から」(日本人)学んだと
されているようです。
この後のことの顛末を逆算してみるなら、確かにこちらの可能性の方が高かった
かもしれません。
そうした一連の出来事もモチロン織り込んでのことでしょうか、徂徠サンの人物像に
ついての案内は、Wikipediaではこのようになっています。
~(荻生徂徠という人物は)豪胆でみずから恃(たの)むところ多く、中華趣味を
もっており、中国語にも堪能だったという~
こうした数多の紹介をそのまま素直に受け入れるなら、徂徠サンの人物イメージは
こんな感じになりそうです。
→中国古典を(レ点など)加工なしの「原文のまま」原語ですらすら読めた。
→そればかりか、並みの学者には困難なレベルの中国文も難なく書けた。
→「語学塾」?に通って「中国語会話」も身につけていた。
→すなわち、中国語に関しては「読み・書き・話す」を完璧にマスターしていた。
これらを踏まえた上で、さて、もう少しお話を続けましょう。
その徂徠サンが、なんと渡来した中国人の僧に面会する機会に恵まれたのです。
なにせ根が勉強熱心な徂徠サンですから、欣喜雀躍の心持ちだったことでしょう。
「ホンマモンの中国」に遭遇できるという興奮です。
で、こうしたお話の運びであるなら、徂徠サンとその中国人僧の二人の会話は
飛び切りに弾んだもの・・・と思いますよネ。
だって、長崎通辞から学び、それなりの自信を持っていた中国語を駆使すれば
いいだけのことですから。
ところがドッコイ!・・・実際はそうはなりませんでした。
いいえ、相手の中国人僧がやたらとシャイな性格で「無口」だったというわけでは
ありません。 なんと二人は「筆談」を選んだからです。
「漢字」については徂徠サンのお手のものですし、中国人僧にすれば他ならぬ
母国語ですから、意思疎通に難儀はありません。
しかし、なんでまた手間をかけてそんな「不便」なことを?
普通に会話すれば、もっとスムーズではないか?
・・・実はこれにはよんどころない理由があったのです。
要するに、徂徠サンの放つ中国語は中国人の僧はまったく伝わらなかったのです。
中国語会話を一生懸命に学んだはずの徂徠サンでしたが、どうやら
「あまりに日本語風でブロークンな中国語会話」だったようです。
このことは、中国語の読み書きには十分に堪能で、しかもなにかと自尊心の高い
徂徠サンには大いなる屈辱だったことでしょう。
熱心に学んだはず「外国語」が、いざその国の人に話しかけてみると、まったく
通じなかったとあれば、なにも徂徠サンでなくともガックリコンとくるものです。
まるで少し前まで日本において行われていた学校英語教育そのままの「トホホ」な姿で、
少し笑えてもきますが、徂徠サンのこのエピソードは「外国語」は「話す」を含めて
マスターする必要があることを示唆している。
このようにも感じましたので、ここに「歴史の教訓」として取り上げた次第です。
ちなみに、筆者自身も「二ケ国語マスター」は抜かりなく研鑽を積んでいます。
しかし、「日本語&英語」というバイリンガルではあまりに普通過ぎて面白く
ありません。 では、どんなバイリンガルかって?
そんなもんは決まっています。
母国語として「日本語」を、そして郷土語として「尾張弁」を、TPOに合わせて
上手く使い分けているのです。
やはり、複数の言語を駆使できることはなにかと便利なもののですねぇ、これが。
いや、郷土語ならこんな言葉になるのかなぁ。
~やっぱりよぅ、あれこれ喋れると、ぜってぇ便利だがねぇ、これがぁ~
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