ヤジ馬の日本史

日本の常識は世界の非常識?この国が体験してきたユニークな歴史《日本史》の不思議をヤジ馬しよう!

油断編14/合戦時代の情報取説

ひょんなことから戦国合戦にまつわるエピソードを一つ思い出しました。
ただ全体として、非常に面白おかしいお話になっているので、どこまでが史実
なのかについては筆者には判断が付きません。


「本能寺の変」(1582年)によって織田信長(1534-1582年)が倒れたその後の出来事。
それが信長家臣の羽柴秀吉(1537-1598年)陣営と、それに対する信長次男・
織田信雄(1558-1630年)プラス信長盟友の徳川家康(1543-1616年)陣営との間で
繰り広げられた、いわゆる「小牧・長久手の戦い」(1584年)でした。


さて、両軍の激突において圧勝したこの日の信雄・家康軍は、手薄にした遠征基地・
小牧山城への帰還を急ぐこととし、その途中小幡城に入りました。
兵士の休息と目的地・小牧までの距離を考慮した行動で、とりわけ不自然なことでも
ありません。


一方の秀吉軍もその点のぬかりはなく、その情報をキャッチするや小幡城へと兵を進め、
その信雄・家康軍と一戦交えるべく体勢を整えた上で、夜明けを待つことにしました。
昔は夜間の照明が充分に得られないという事情もあって、暗いうちの戦闘は基本的に
避けるようにしていました。 
目視が利かないことで、同士討ちが起きかねないからです。


要するに、両陣営はこの時点でがっぷり四つに組む体勢が整ったということです。
ところが翌明け方、薄明りの中であたりを見廻してみると・・・
あれっ、小幡城内のつまり信雄・家康軍の人も馬もスッカリ姿を消して見事にカラッポ!


その状況を尻目に、信雄・家康軍が小牧山城に無事帰還を果たしたことは言うまでも
ありません。
要するに、この「小牧・長久手の戦い」では、秀吉は武力戦でも、また情報戦に
おいても、家康にイヤというほどの完敗を喫したわけです。


もっとも、この油断を悔いた秀吉は、その後に家康と組んでいた織田信雄に直接
働きかけ自ら側に篭絡させることで、謀略戦においては一矢を報いる形にはしたの
ですが。


 小牧・長久手の戦い(1584年)

 羽柴秀吉 VS 織田信雄+徳川家康


そこで今回の話題に取り上げたいのが、この戦国時代で使われた「情報」手段です。
そもそもこの時代に多発した「合戦」とは、それなりの兵力を整えた敵味方の双方が、
同じ場所で同じ時間に激突することですから、相手に関する情報を把握することは
非常に大切になってきます。


うっかり負けようものなら、即自分が属する御家が傾いたり、悪くすれば滅亡して
しまうことだってあり得ますし、また人間の側としても大怪我やあるいは、場合に
よっては死に至ることだってあり得る、まさに死活問題だからです。


そのような「負」の結果を背負わないよう、言葉を換えれば「正」の結果を得られる
ようにするためには、武力兵力の充実だけでは不十分で、関連する諸々の情報
そのものが絶対に欠かせませんでした。
そうしたことは合戦の最前線、つまり合戦現場においても同様でした。


しかし、なにせ通信機もスマホのない時代なのですから、戦場全体の状況を把握しよう
にも、それはそうそう容易ではありません。
ということなら、合戦の指揮官はそうした情報をどのような方法で受信発信していた
ものか、ちょっと知ってみたくもなります。


~合戦における総大将は小高い位置に陣取りし、戦況を見守りながら適宜に命令を
 下した~

こうした説明もあるにはありますが、戦場を一望できるような環境が必ず整うわけ
でもないでしょうし、仮にそれができたとしても、悪天候で戦況の判断がつかないと
いうことだってあるでしょう。
そうした場合には、このスタイルでは必ずしも「的確な命令」は望めません。


何事も「情報第一」をモットーとするかのような現代社会の一隅に生息している
筆者なぞは、時折のことですが、そうした必要情報が現代よりはグンと少なかった
であろう古い時代に思いをはせることがあります。
早い話が、~(現代ほど情報が溢れていなかった)昔は良い時代だったなあ~
ということです。


すると逆に、そうした情報少量?時代における当時の人間の行動がどのようなもの
だったのか。 そんな疑問も浮かんでくるのです。


 

 陣幕/軍幕(作戦評議場) ||| 合戦の伝令兵


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そこで、ヒョイと思いついたのが、そうした筆者の疑問を、今話題の「チャットGPT」
にぶつけてみることでした。 そこで早速、
問い/大きな合戦の場合に、司令官はいかにして前線の状況を把握したのか?


思い付きの質問ですから、いささか言葉足らずの質問になってしまいましたが、
ところが、すぐさまこんな答が返されてきたのです。
感心するくらいに勤勉律儀ですが、その回答は結構ボリュームもあったので、以下に
その抜粋を挙げることにします。


回答/大きな合戦の場合、司令官は前線の状況を把握するために、さまざまな方法を
   使用していました。
   まず、敵の位置と動きを監視するために偵察部隊を派遣し、情報収集を行って
   いました。


ここで、上の質問には肝心の「戦国時代」という断わりがなかったことに気が付いて、
問い/戦国時代の合戦の場合、司令官による作戦はどのようにして、前線の戦闘兵に
   伝えられたのか?

回答/戦国時代の合戦において、司令官による作戦指示は、前線の戦闘兵に伝えるため
   に様々な手段が用いられました。


筆者が知りたいのはその「様々な手段」についてですが、これはそれなりに詳しい
説明が並べられました。 箇条書きにすると、こんな按配です。
〇 鳴子を使って信号を送る。
〇 旗や標識を使って指示を伝える。
〇 鳴子や旗では伝えにくい詳細な指示は使者や伝令を使って伝えた。


なるほど、要するに「合図」のやりとりで情報伝達していたわけで、それだけでは
足らざるところについては人間、つまり「使者や伝令」が担当したと、以下の説明では
なっています。
〇 武将たちは敵に指示が盗まれないようそれぞれ独自の合図を作ったが、そうした
  情報の伝達には時間がかかり、指示が遅れることもあった。
〇 それに比べ、伝令は迅速に指示を伝えることができた。


また、ドラマなどの合戦シーンでは陣幕(軍幕)が登場することも少なくありません。
幕で囲った、いわば作戦本部ですが、軍幹部が軍議(作戦会議)を行う場所と
言っていいでしょう。


そして、その際には作戦評議のための「絵地図」が用いられる描写も少なくないの
ですが、ヘソ曲がりの筆者なぞは、その際についついこんな思いを抱いてしまうのです。
~そんなにも大雑把な地図に頼って立てた作戦で、ホントに大丈夫なのかぁ?~


筆者なぞは、もう少し出来の良い精密な地図に基づいて作戦を立てて欲しいと
思ったりもするのです。
なにせ、その作戦に自分の命を懸けることになるのですからねえ。
ところが、この当時においては、こうした大雑把レベルの「地図」が当たり前だった
ようです。


こんな説明がありました。
~領土をめぐる抗争が続いた時代、戦いには自国と自国に接する他国の正確な地図が
 欠かせなかったので、地図には忍びなどが集めた情報を基に領土の境界や河川、道、
 大まかながら高さも示された山なども描かれた~


ただし、~地図は行政や軍事の要であり、国情や内容によっては秘密事項となる~
なんだ、「機密情報」という事情があったのならドラマに登場する「地図」の
大雑把加減は、ある意味妥当なのかもしれん。


また、こんな説明もありました。
~この時代における軍隊の基本的な構成は、総大将の下に大名や家臣が配置され、
 さらに彼らの支配下に実働部隊が配置されるという、いわば「連合軍」のような
 組織だった~


だったら、こういうことになるのか?
今はお互いに手を組み協力し合ってはいるが、状況の変化次第では、ひょっとしたら、
「今日の友は明日の敵」ってことになるかもしれない。
だったら、地図ひとつにせよ、手の内の情報をさらけ出してしまうのは、まさに
「愚の骨頂」である。


つまり、軍議の席に「精密な地図」が登場しない、登場させないのは「連合軍」を
構成する各人それぞれに、「精密地図は機密情報である」という共通意識が浸透して
いたためではないのか。


このことは、
~そんなにも大雑把な地図に頼って立てた作戦で、ホントに大丈夫なのかぁ?~
という筆者の疑問に対する、天邪鬼チックではあるけれど一つの解釈ということには
なりそうです。
ともかくも、仲間を相手にしてさえ、情報に対しては「油断大敵」を鉄則にすべきが、
こうした合戦時代にふさわしいセンスだったのかもしれませんねぇ。



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