ヤジ馬の日本史

日本の常識は世界の非常識?この国が体験してきたユニークな歴史《日本史》の不思議をヤジ馬しよう!

事始め編31/用事ついでにお手紙も

たまたま遭遇した郵便局(日本郵便株式会社)のHPに「日本の郵便の始まり」と
タイトルされた記事があったので、ついでのことに読んでみました。


~明治4(1871)年3月1日(新暦4月20日)、東京・大阪間で官営の郵便事業
 (制度)が開始された日をもって、日本の郵便の始まりとされています。
 「郵便の父」として呼ばれている
前島密(1円切手の図柄の人物)が、
 明治3(1870)年に「駅逓権正(えきていごんのかみ)」兼任を命ぜられ、当時、
 政府文書の送達に、月に1500両を支出していた事実から、郵便は事業化できると
 判断し、今日の「全国均一料金」による日本の郵便制度を作り上げたものです。
 「郵便」や「郵便切手」などの言葉も彼自身が選択した言葉です。~


前島密(ひそか/1835年-1919年)の名はまったく知らないというわけではなかった
のですが、郵便の創業者としてだけではなく、そのほかに江戸遷都、国字の改良、
海運、新聞、電信・電話、鉄道、教育、保険など、えらく幅広い分野でも大きな
功績を挙げた人物だということまでは知らなんだ。


 前島密「郵便の父」


そこで、その「郵便」に関連するあたりを徘徊してみることにしたのですがと、
子供向けのサイトにこんな説明があるのをみつけました。


~そして、明治になってからできたのが、郵便制度(ゆうびんせいど)だ。
 郵便だと、手紙やはがきを書いたら、切手を貼(は)ってポストに入れるだけ。
 送りたい相手に、どこへでも届けてくれる。
 郵便制度は、今では世界中で取り入れられ、当たり前のように使っている。
 郵便制度は、近代の通信に大きな役目をはたしたんだね。~


なるほど、その通りだ。
ですが、この説明の前段部分、つまり頭の「そして」へ続く部分には、実はこんな
一文が。
~日本では、手紙や荷物などを送り届ける飛脚(ひきゃく)という人がいた。
 飛脚を使った通信は、鎌倉(かまくら)時代に始められ、江戸時代の終わりごろまで
 続いたんだ。~


そこで念のために、その「飛脚」という言葉にも首を突っ込んでみると、
~信書・文書などの送達にあたった者。
 語源は早く走る者、文使(ふみづかい)という意味である。
 通信手段は、権力と物資輸送の行われる所では不可欠であるから、いずれの時代

 にもあったはずである。~


これはモロに蛇足になりますが、そうした「手紙」にはこんな呼び方もあったようです。
信書(しんしょ)/書簡・書翰(しょかん)/書状(しょじょう)/さらには、
昔なら/消息(しょうそく、しょうそこ)/尺牘(せきとく)/などときて、
このあたりになると、浅学の筆者なぞにはもうまったくの「見知らぬ世界」です。


それはともかく、先の説明に素直に従えば、鎌倉時代以降、郵便物を運んでいたのは、
~「飛脚」と呼ばれる専門業者だけだった~とも受け取れなくはありません。
そこで、ことのついでにその「飛脚」そのものを少し追ってみることにして、
行き着いたのが江戸時代の飛脚事情でした。


こんな説明になっていました。
~大きく分けると、幕府の「公用飛脚」、大名の「大名飛脚」、民営の「町飛脚」が
 あった。~
なんだとう、「飛脚」にもいろいろな種類があったってか。
そんなら、そういうところにも立ち寄らなくっちゃ。 


すると、上の「公用飛脚」を、どうやら「継ぎ飛脚」と呼んだようで。
継ぎ飛脚/幕府が直接に運営した飛脚で、各宿場に常備された36頭ずつの伝馬を
     乗り継いで貨物や信書が逓送された。


これが、幕府ではなく大名の場合になると、
大名飛脚/諸大名が江戸藩邸と国元との通信にあたらせた飛脚。
     しかし、費用がかさむため民間の「町飛脚」が発達すると多くの大名は

     これに転用した。


これは、大名直営つまり官営よりは、民営を利用した方がコストダウンになったと
言っているのでしょう。


全藩というわけではなかったものの、こんな飛脚スタイルもあったようです。
七里飛脚/尾張藩・紀伊藩などいくつかの藩が、居城から江戸に至る街道路地
     七里ごとに小舎を設け、脚夫を配置して公用信書や飛脚荷、その他の

     逓送にあたらせた


すると、今度は民間の町飛脚にも触れる必要がありますが、その説明には、
筆者などはあまり耳にしたことのない「三度飛脚」という言葉も登場しています。
三度飛脚/元和元年(1615)大坂城定番の諸士が家来を飛脚として江戸に家信を
     通じ、毎月三度江戸・大坂間を往復したところから、この名に。


それを踏まえて、
町飛脚/民間営業の飛脚。
    大坂商人のうちに「三度飛脚」にならう者があり、寛文三(1663)年、
    江戸・大坂・京都の三都の商人が、幕府公許の下に三都往復の飛脚業を
    開始したのがはじまりで、当時は東海道往復に六日を要したところから
    
「定六」ともいった。


町飛脚の場合は、こんなシステムになっていたようです。
~荷物は馬が運び、馬とその馬を引く「馬方」は宿場ごとに借り、
最初から最後まで荷物に付き添う「宰領」と言われる人が馬に乗る~


さらにその後になると、金銀逓送をする「金飛脚」、米価通信のための「米飛脚」
などもできて、幕府公用や諸大名の通信にも関与するなど隆昌をみたとされています。

 

  町飛脚(宰領)の様子 / 飛脚の着色写真(1863年-1877年頃)


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こうした各種説明の中には、以下のような文言もありました。
「継ぎ飛脚」では、
~江戸から京都までを急行便 41時間、普通便 45時間で走った~
~東海道は57カ所の宿場で継ぎ、その速度は24時間で200キロ運ぶと言われた~


今度はその「スピード」を売りにする動きが登場するようになったということの
ようです。
もっとも、目的地まで一人が通しで走るのではなく、リレー形式としていたのは
当然で、その場合、ひとり当たりが走る距離は10キロくらいだったようです。


そういうことであれば、継ぎ立ての時間も考慮に入れしながら、単純計算すれば
「時速9キロ弱」くらいになります。
現在のマラソンランナーの速度を「約40キロ/約2時間」と捉えれば、「時速20キロ」
ということになるので、大雑把なイメージなら「マラソンランナーの半分程度の速度」
だったことになりそうです。


では、鎌倉時代から江戸時代にかけて、いわゆる「手紙」を一番多く運んだのが
「飛脚」だったかといえば、どうやらそうでもないようなのです。
~郵便制度が発足する前の日本では、手紙や書類などは、大名や藩主、役人などは、
 自分たちの配下や従者を使って手紙を送っていたこともあったが、一般的に旅人や
 商人、僧侶、使者などを通じて送られていた。~

「飛脚」がメインだったとは言っていません。


さらには、こんな説明も。
~特に農村地帯では、文字を書けない者も多く、口頭での伝達も一般的に行われ、
 こうした場合には、村役人などが重要な役割を果たした。~ 


実際にはこんな現実的な問題もあったようです。
~このような方法で手紙を送る場合、配達までには時間がかかり、また手紙の
 受け取りが確実であるかどうかも不確かで、手紙が届かなかったり、誤って
 配達されたりすることもよくあった。~


もっと突き詰めれば、費用の問題もありました。
当時の「郵便代」に該当する費用を、現代価格に換算すると、一通当たり数万円から
その何倍もと結構高額になったため、そうそう気楽には「飛脚」を利用することが
叶わなかったのです。


ですから、一般人の場合は、こんなスタイルが多かったようです。
~ちょうどそちらのほうに行く人がいたので手紙を頼みました~


そのことを指す「幸便」という言葉もあったそうですから、一般人にとっては
「飛脚便」よりは「幸便」の方が、いわゆる「普通郵便」だったということなのかも
しれませんねぇ。


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