ヤジ馬の日本史

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災難編20/神仏分離と修験道の禁教

たまたまのこと遭遇したこんな文章に、ちょっとした違和感を覚えました。
~神道を国教とする方針を掲げた明治政府は、修験道廃止令(1872年)を発布し、
 その実践や信仰を禁止した~


宗教オンチが定評の筆者は、「深山に神宿る」ほどのイメージから、なんとなく
「修験道は神道傍系の信仰」という思いを抱いていたためです。
しかし、上の説明ではそうした忖度をさらさら持ち合わせず、むしろ神道からは
大きく外れた位置にあるという説明です。


だからこそ、日本宗教を神道に限定したい明治政府からは、禁教の措置を受けたと
いうことなのでしょう。
そこで、この機会に宗教オンチの定評を少しでも返上すべく、筆者はその「修験道」
ついて改めて確認してみることにしたのです。


すると、なんとこんな説明になっていました。
~(修験道とは)日本古来の山岳信仰が、外来の密教、道教、シャーマニズムなどの
 影響のもとに平安時代末に至って一つの宗教体系をつくりあげたものである。
 そのため、特定教祖の教説に基づく創唱宗教とは違って、山岳修行による
 超自然力の獲得と、その力を用いて呪術(じゅじゅつ)宗教的な活動を行うことを
 旨とする実践的な儀礼中心の宗教である~


また、この説明からは「修験道」にはオカルト的要素があるようにも感じ取れます。
そこで、未熟な思い込みを重ねないためにも、ここに登場した用語の意味合いを再確認。
すると、こんな按配でした。


山岳信仰 → 古来世界各地で精霊、神々、悪魔などの住む場所として畏敬されて
        きた山岳に、宗教的意味を与えて崇拝し、また山岳を対象として
        種々の儀礼を行うことをいう。


密教 → 日本には平安初期に空海・最澄によって伝えられた、加持・祈祷を
      重んじる深遠秘密の教えで、貴族などに広く信仰された。


道教 → 中国民族の固有の生活文化のなかの生活信条、宗教的信仰を基礎とした
      中国の代表的な民族宗教であり、初期の信仰は、不老不死の神仙を希求
      したり、巫術や道術による治病などに重点を置いたが、やがて儒教や
      仏教と競合し、影響しあい、内的修養や民衆的道徳意識の堅持を中心と
      する信仰をも重視するように発展した。


シャーマニズム → 通常、(脱魂や憑依など)トランスのような異常心理状態に
           おいて超自然的存在(神霊,精霊,死霊など)と直接に接触・
           交流し、この間に予言,託宣,卜占,治病,祭儀などを行う
           人物(シャーマン)を中心とする呪術・宗教的形態である。


     修験道山伏(修験者)


要するに、歴史的に眺めれば「修験道」には、たとえば密教、あるいは道教など、
「神道」以外の信仰要素が濃厚に溶け込んでいる。 
少なくとも明治政府はそのように判断し、そこで
「修験道禁止令」を発布したという
運びのようです。


そういうことなら、その「修験道」そのものについても、もう少し知っておく必要が
あるのかもしれません。 すると、こんな説明を発見。
~修験道の法流は、大きく分けて真言宗系と天台宗系に分類される~
なんだとぅ、じゃあ、どっちにしたって間違いなしの「仏教」一味ではないか。
宗教オンチの驚きは大きい。


さらに続いては、
~七、八世紀の呪術的宗教家,・役小角(えんのおづぬ/生没年不詳)が
 修験道の開祖とされる~


「七、八世紀」とは、随分とまた大まかなおっしゃりようで、的確な時代把握が
できかねます。
そこで、「天皇一覧」を覗いてみることにすると、こうありました。
〇第41代・持統天皇 (在位:690-697年)
〇第42代・文武天皇 (在位:697-707年)


ですから、第38代・天武天皇(在位:678-686年)から始まり、
第48代・称徳天皇(在位:764-770年)に終わる、いわゆる「天武系天皇」の時代で
あり、また、稀代の辣腕政治家・藤原不比等(658-720年)が活動していたこ頃と
言い換えてもいいのかもしれません。


では、その「役小角」とは、そもそもどんな人物だったの?
~五色の雲に乗り、大空を飛び、神仙の宮殿で神仙と交わり、心身を養う霊気を
 吸いたいと願い、岩窟に籠もり,葛を身にまとい、松の葉を食べ,清泉で沐浴し、
 世俗の汚れを落とし、山林で修行した~


これだけでも大層なことですが、さらには、
~孔雀王の呪法を修得し、鬼神を使役して、水を汲ませたり、薪を採らせたりし、
 鬼神が命に従わないと,験力で自由を束縛した~

なんと、鬼神に命令を下すだけでなく、処罰までしてしまうのですから、その験力は
ハンパではありません。


そして、その上には、こんなド凄いことまでやらかしているのです。
~人質として捕えられた母親を釈放してもらうために、自ら囚われの身となり、
 流刑となったが、昼間は伊豆で、夜間は富士山に登って修行を重ね、遂に天を飛ぶ

 ことができるようになり、罪を許されると神仙となって天空に飛び去った~


俄かには信じ難いお話ですが、宗教開祖とか宗教創始者ともなれば、このくらいの
ことは、苦も無くできなくてはいけないのかもしれません。
なぜなら、キリスト教の創始者とされるナザレのイエス(前5年頃?-後30年頃?)にも、
目の見えない人間を見えるようにしたり、足の悪い人間を歩けるようにしたりとか、
数多の奇跡を行ったお話が付いて回っていますからねぇ。


では、役小角がまるっきりの伝説上の人物かと言えば、これがややこしいのですが、
どうやらそうでもないようなのです。
~多くの奇跡が伝えられるので実在を疑う人もあるが、『続日本紀』文武天皇3年(699)
 5月24日条に、伊豆島に流罪された記事があり、実在したことは確かである~


  

       役小角 / 破壊された石仏(神仏分離令が廃仏毀釈へ)


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そういうことなら、なんとも不思議な存在に感じられますが、それはそれとして、
「修験道」をもう少し追及してみたところ、こんな説明もありました。
~修験道の淵源は、奈良時代に仏教や道教の影響を受けて、山岳に入って修行し、
 陀羅尼(だらに)や経文の一部を唱えて呪術宗教的な活動を行った在俗の宗教者に
 求めることができ、のちに修験道の開祖に仮託された
役小角もこうした宗教者の
 一人である~


あれっ、ここでは役小角が正真正銘の開祖というわけでなく、「開祖に仮託された」
と言っているゾ。
ということは、「修験道」は、そのくらいに自然発生的な一面も備えていたという
ことになるのかもしれません。


また、こんな説明もありました。
~修験道は特定教祖の教説に基づく創唱宗教とは違って、山岳修行による
 超自然力の獲得と、その力を用いて呪術宗教的な活動を行うことを旨とし、
 平安時代になると、天台・真言の密教僧のうち加持祈祷(かじきとう)の能力に
 秀でた者は、験を修めた者
「修験者」また「山伏」とよばれた~


さて時代はグンと下って、江戸時代が終わった1868年のこと、いわゆる「神仏分離令」
が出されます。
~国家の西洋化・近代化を進める上では邪魔になる~
国際社会にデビューしたての新米国家は、こんな発想を持ったのでした。


しかしながら、コトは円滑には進まず、
~各藩や政府直轄地では、地方官がこれを無視して強硬な抑圧・廃仏策を進めたため、
 寺院の統廃合など神仏分離を超えた
「廃仏棄釈」とよばれる事態が1874年(明治7)
 ごろまで続いた~
このような状況を呈したことから同年の内に「神仏分離の実施には慎重を期すように」
と命じています。


こうした時期において、「修験道」も禁教(1872年)とされました。
明治政府が禁教に踏み切ったことには、もちろん「修験道は神道ではない」という
判断が大きな理由でしたが、実はこんな側面もあったようです。


~修験道は「未開の宗教」であり、国家の西洋化・近代化を進める上では邪魔に
 なると、明治政府は考えた~

ここでの「未開の宗教」という言葉は、おそらくは諸外国の目から「迷信/似非宗教」
もどきに映ることを避ける意味合いで使っているのでしょう。


さて、外国宗教であり、列国の文化や政治的に多大な影響を与えているキリスト教に
ついて、新国家は江戸幕府の政策を継承する形で禁教としていましたが、
~西洋列強の推進するキリスト教の日本人への布教活動への対抗でもあったが、
 列強により強く反発もされ、信教の自由の保証を逆に求められる事態となる。
 結果、明治6年(1873年)にはキリスト教に対する
禁教令が廃止された~


しかし、仏教やキリスト教と同じく、やっぱりこちらも見直すべきとされ、
修験道禁教令は1886年に廃止され、再び合法的な宗教となった~
えぇ、この決定が下されたことについては、「開祖に仮託された」役小角も、
おそらくは草葉の陰で泣いて喜んだことでしょうに。 
やれ、メデタシ、メデタシ。


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