ヤジ馬の日本史

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パクリ編20/過ぎたるものが二つあり

~治部少(石田三成)に過ぎたるものが二つあり 島の左近と佐和山の城~
これを戦国時代の日本の武将である石田三成(1560-1600年)に対する評価だと
受け止めると、こんな印象にもります。
~参謀役の島左近(生年不詳-1600年)と領地の佐和山城は、石田三成という人物には
 ちょっとばかりもったいないのではないか~


そこで、少し話題を広げる形でここに登場するそれぞれに関連した事柄を追ってみると
こんな具合になります。
石田三成(1560-1600年)/
 豊臣秀吉(1537-1598年)に仕え、五奉行の一人として、特に太閤検地など、
 行政面に実績をあげ、近江・佐和山城主に封ぜられる。
 秀吉の死後、反徳川勢の中心となるが、関ケ原の戦い(1600年)で敗れ処刑された。


昨今の戦国ドラマなどにも、石田三成はよく登場していますが、武将には違いない
ものの、「優秀な官僚」という一面を強調した描き方も少なくないようです。


島左近(清興/きよおき/生年不詳-1600年)/
 石田三成の股肱の臣であり、関ヶ原の戦いには、徳川家康到着に動揺する西軍を
 鼓舞するため先鋒の軍を破ったものの、翌日の決戦で、三成の前衛の指揮をとり
 戦死した。


この時代頃の軍師(参謀)が前線の指揮官を兼務することは当たり前にあったよう
ですから、左近が配下の兵とともに戦闘に参加することは、それほど珍しいこと
でもなかったかもしれません。


   

       石田三成 / 島左近


それまでも多くの要請を断り続けてきた左近でしたが、三成からのオファーもやはり
断っています。
しかし、三成は諦められませんでした。 それほどの人材だったということなのでしょう。
そこで光成は、当時の自身の禄高四万石の半分、つまり二万石を与えるという破格の

待遇を示し、その上にそれはそれは熱心な説得を続け、根負けした左近に、とうとう
仕官を受け入れさせた。
こんなお話もありますが、しかしこれとは異なる見方もあるようですから、確実な
史実とまでは言えないようです。


また、三成と左近の間にはこんなエピソードも語られています。
~関ヶ原の戦いの前夜に、左近は島津義弘・小西行長らと共に敵陣夜襲を提案したが、
 三成に受け入れられずに幻に終わった~


このお話は、いっぱしの武将ならその「夜襲」の意義が理解できただろうに、
凡将であり経済官僚?に過ぎない三成にはそれができなかった・・・
という感触で語られることが多いようです


佐和山城
 この時代、畿内と東国を結ぶ要衝として、軍事的にも政治的にも重要な拠点で
 あった近江国・佐和山(現彦根市)に存在した城。


 本能寺の変(1582年)の後に行われた清洲会議で、謀反人・明智光秀(1528-1582年)
 の討伐に功があった堀秀政に与えられ、その後、堀が転封になると、代わって
 堀尾吉晴が入城。
 さらにその後の1590年には豊臣政権五奉行の一人である石田三成が入城しています。


三成は荒廃した城の整備に着手し、5層(3層?)構造の天守を備えた堂々たる城に
変貌させました。
「過ぎたるもの」の一つにこの佐和山城が挙げられているのも、戦下手で定評?の
ある三成が、こうした「堂々たる構えの城」を持ったこと自体に、幾分の過剰感が
あったということなのかもしれません。


それはそれでいいのですが、ところが筆者はつい最近になって、これとまったく
瓜二つの言葉があることを知ったのです。
この言葉に初めて遭遇した時は、てっきり三成評のパロディだと思ったものです。
だって、こんな文言なんですよ。
~家康に過ぎたるものが二つあり 唐の兜に本多平八~


登場する人物やブツに違いはあるものの、まったく三成評のパクリとしか思えない
言葉の並びです。 そこで調べてみると、こんな説明もありました。
~この言葉は武田信玄(1521-1573年)の近習・小杉左近(生没年不詳)が言ったもの~
そういうことなら、単なるパロディではないかもしれん。


もっとも、三成評と家康標のどちらの「過ぎたるもの」がオリジナルでどちらが
パクリなのかは、よくは分かりません。
ひょっとしたら、案外に双方ともが後世の創作ってことも、ないではないような、
そんないささかややこしい気配を感じないでもありません。


それはさておき、こちらについても同様の作業をしてみましょう。
徳川家康(1543-1616年)/
 三英傑の一人としても超有名な人物であることは説明を要しません。
 はじめ今川義元(1519-1560年)について(というよりは人質となって)、後には
 織田信長(1534-1582年)と結び武田氏を滅ぼし、さらにその後には
 豊臣秀吉(1537-1598年)と和睦して、その天下統一に協力しています。


ところが秀吉死後になるとコロッと姿勢を一転し、豊臣側と決戦、関ケ原の戦いで
完全勝利を収めます。
その後に創立した江戸幕府(1603年)では自らが初代征夷大将軍となり、
その将軍職を息子・秀忠に譲った(1605年)後も大御所として君臨し、さらには
大坂夏の陣(1615年)にも出陣し、ついには豊臣家を滅亡にまで追い込みました。


なんとも元気なジイ様です。
さらにその後になると、武家諸法度などを定めるなどして幕政の基礎を築き上げた
ばかりか、死去の翌年には「東照大権現」という神号勅許まで授かっています。
要するに、「人間・徳川家康」は仮の姿であって、その正体は「東照神」という
神様だったことになるわけです。


唐の兜(頭)
 家康が被っていた中国のヤクの毛で飾った高価な兜(かぶと)のことで、
 非常に堅牢で丈夫なものとされていたようですから、メッチャ立派な物の例として
 ここに挙げられたのでしょう。
  残念ながら、筆者はその姿かたちなどの詳細を知りません。


本多平八郎(忠勝/1548‐1610年)/
 家康に仕えた武将で武功により頭角を現し、以後武田信玄との諸戦で勇戦しました。
 さらには、徳川氏譜代家臣団の最上層を形成し「徳川四天王」の一人としても
 その名が挙げられています。
 ちなみに、「四天王」のあとの三人は、酒井忠次(1527-1596年)、
 榊原康政(1548-1606年)、井伊直政(1561-1602年)とのことです。


   

      徳川家康 /本多忠勝(平八郎)


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さて、これはちなみのちなみになってしまいますが、その「四天王」とは、
~元々は仏教における神々であり、「四大王」ともいう~
「仏教の神様」なんて言葉を耳にすると、何やらヘンに感じられますが、明治時代
以前はばっちり「神仏習合」だったので、決してヘンなことではありませんでした。


では、その「四天王」はどなたかと問うと、こんな説明が待っていました
~東方の持国天(じこくてん)/南方の増長天(ぞうちょうてん)/
 西方の広目天(こうもくてん)/北方の多聞天(たもんてん)の四神で、
 それぞれ須弥山・中腹に在る四天王天の四方にて仏法僧を守護している~


念のためですが、ここにある「仏法僧」とは鳥の名である「仏法僧/ブッポウソウ」
ではなく、
~仏法僧とは仏教における三つの宝(三宝)の中身であり、仏は悟りを開いた人/
 法は仏の教え/僧は仏の教えに従って悟りを目指して修行を行う出家者/をいう~


なるほどですが、いささかお話が逸れ出していことに気が付きましたので、お話を
再び「過ぎたるもの・本多平八」に戻しましょう。 こんなエピソードがあります。
~本能寺の変が起きたとき、少数の随行とともに堺に滞在して家康は取り乱し、
 それをこの忠勝(平八)らが諌めて、「伊賀越え」を行わせたという~


さらにこの時、
~途中の川で船を使った際、追手が使用するのを防ぐため、船底を槍で突き破った~
有事にあっても冷静沈着な態度を崩さない肚の据わった人物だったようです。


また、その後にも語り草になった行動がありました。
小牧・長久手の戦い(1584年)では、忠勝は当初留守を任されたが、豊臣方16万の
 大軍の前に徳川軍が苦戦して崩れかけていることを聞き、わずか500名の兵を
 率いて小牧から駆けつけた~


それでどうなった?
~そして5町(約500m)ほど先で豊臣の大軍の前に立ちはだかり単騎で乗り入れる
 という忠勝の振舞いを目撃した豊臣軍は逆に進撃をためらい戦機は去った~


ウワッ、凄い!
~この豪胆な振舞いや活躍などにより、敵将である豊臣秀吉からも東国一の勇士と
 賞賛された~

まさに絵に描いたような猛者だったわけです。


そこで、改めて思うのです。
~治部少(石田三成)に過ぎたるものが二つあり 島の左近と佐和山の城~
~家康に過ぎたるものが二つあり 唐の兜に本多平八~

どちらがオリジナルで、どちらがパクリであるにせよ、両方ともがそこそこに
的を射た言葉になっているなぁ。



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