信仰編15/神サマ仏サマは持ちつ持たれつ
旧ナントカ協会とか某カントカ証人とか、昨今日本では宗教・信仰がらみの話題が
よく取り上げられています。
ただ、その内容があまり芳しいものではないのは、まことに残念なことですが。
しかしながら、宗教や信仰に対する解釈には微妙で繊細な一面があるのも事実の
ようです。
たとえば、「唯一絶対神」の世界でも、そうしたことは言えそうな気がします。
えぇ、ユダヤ教とかキリスト教とかイスラム教とかの、元々は同じ正体(のはず)の
唯一絶対神を信仰する宗教のことですが、その解釈には大きな違いがあることは、
筆者のような宗教オンチでさえ気が付くところです。
もっとも、唯一絶対神であるからには文字通り唯一の存在ということですから、
そこに「同じ正体」なんて説明を加えること自体が野暮なことですが、そうした点は
筆者が根っからの宗教オンチであるせいということでご容赦ください。
「唯一絶対神」への解釈の違いとは、それを信仰するお互いがこう主張していることに
なります。
~神に対する自分たちの理解こそが正しいもので、他はトコトンに間違っている~
そう言われれば、間違っているとされたほうだって言い返すことになります。
~なにを抜かすか。 神に対する理解はオレたちが断然正しいのであって、
キミたちのはモロに未熟であるか、もしくはおマヌケな勘違いである~
しかしまあ、同じ神に対してさえ、その解釈にはこのように大きな幅が出るという
ことなら、これが異なる神(異教)の場合などは、単なる幅の差どころではなく、
それこそ根本的な相違が生じたとしても不思議ではありません。
実をいえば、日本の歴史にもそうした光景はありました。
物部氏の廃仏行為
それは「仏教公伝」(538年)がきっかけでした。
~(私的にはもっと早く伝わっていたが)百済王から日本に、公式ルートでは初めて
仏教が伝えられたこと~
具体的には百済王の使者が仏像や仏教関連の典籍を日本側に贈ったという出来事です。
それを受けた日本では、政界勢力を二分する一方の蘇我氏が仏教崇拝を、もう一方の
物部氏は仏教排斥をそれぞれが主張し、従来から生じていた政治的緊張の上に、
新たにさらなる対立を生むことになったのです。
実質的には、日本民族はこの時初め、自分たちのそれとは異なる信仰や神が存在する
ことを知ったことになります。
そうなると、それをきっちり区別し認識することが必要になります。
ですから、新しく迎えた「仏教」に対し、今まで自分たちが持ち続けてきた従来の
信仰を、言うならば「神道」ほどの概念で受け止めました。
つまり、この段階で国内に従来からあった「神道」と、海外から伝わった新しい
「仏教」という二種類の宗教の存在を意識したことになります。
しかし、同じ民族に複数の宗教を共存させるなんてことは、結構難しい一面が
あるような気もします。
何しろ同じ絶対神であっても、ユダヤ教とキリスト教(後にはイスラム教も)とは
互いに受け入れることができなかったのですから、それを思えば、日本のように
それまで全く未知の新たな神(仏)サマを迎えようなんて試みはハナから無理っぽく
感じられますからねえ。
しかし、歴史は、その国産「神道」と舶来「仏教」が実に巧みに共存したことを
伝えています。
いやいや、「共存」なんて遠慮がちなものではなく、すくなくとも10世紀初期より
のち明治元年(1868年)の神仏分離までの間は、べったり「融合/一体化」、
いわゆる「神仏習合」の形を取っていたのです。
えぇ? 何ですか、その「神仏習合」って?
~神道信仰と仏教信仰とが融合調和することで、その「習合」とは、本来相異なる
教義・教理を結合また折衷することであり、本地垂迹説がそれにあたる~
そんなら今度は、その「本地垂迹説」って、いったい何のことですか?
~神は仏が世の人を救うために姿を変えてこの世に現われたとする神仏同体の説で、
すでに九世紀ごろから行なわれ、平安末期から鎌倉時代にかけてはすべての
神社の本地仏(本来の仏)が定められるほど盛んとなった~
小難しい説明ですが、メッチャ乱暴になら、こんな言い方もできそうです。
~何を隠そう、日本古来の神サマのその正体は、衆生教化の目的を達成するために
現われた海外生まれの仏サマに他ならないのだゾ~
しかしまあ、一旦神サマに化けるなんて、なんでまた仏サマはそんな七面倒な
現れ方をしたの? 実はここが仏教のウイークポイントでした。
~生まれも育ちも異国の仏サマが、素のまま姿で風土も文化も違う日本に現れたと
したら、衆生はそのあまりに異様に感じられる人相・服装・風体にビックリこいて、
恐れ慄いてしまうかもしれん~
こんな配慮もあって、まずはその露払いとして、仏サマは衆生が見慣れた人相・服装・
風体の神サマに変装して登場した、という説明です。
つまり、ここでは仏教側の「衆生には馴染みが薄い」というウイーク・ポイントを
神道側が一歩譲る形でうまくサポートしたことになりそうです。
しかし、仏教側が一方的に得するそんな企てに、なぜ神道側はおとなしく乗ったのか?
神道の方が古参であり、仏教の方が新参なのですから、普通に考えれば神道側は
仏教側に対して遠慮要らずの我が物顔に振舞えたはずですから、不思議と言えば
不思議な対応です。
(神と仏は同じ存在)神仏習合 / 廃仏毀釈(仏教は邪だ)
さて、ここからは、そのあたりに対する筆者独自のメルヘンですから、そのお積りで
お付き合いくださいね。
えぇ、筆者に言わせれば、実は神道側も大きなウイークポイントを抱えていたのです。
それは神話にも登場しているくらいですから、まあ「手の打ちようがないほどの弱み」
と言っていいのかもしれません。
それは、「死穢」(死のけがれ)への対応です。
その厄介さは、神話でもしっかり語られているほどのもので、
~死んだ妻イザナミを取り戻そうと「黄泉の国」(死者の世界)へ踏み込んだ
夫イザナギは、すでに身体中にウジがたかっているイザナミの姿に凍り付き、
一目散に逃げ出した。
ほうほうの体で地上の世界に戻った夫イザナギは、早速に水辺で禊(みそぎ)を
行って、死穢にまみれたその身を清めた~
そして、そうした「死穢」は貴人ほど強く放つと信じられていたようです。
そのことは、死穢が決して漏れ出すことのないよう遺体を納めた石棺の上に
どっちゃりと土を盛り上げ、さらにはその周囲を水壕で囲んみ、死んだ人間の死穢の
世界と、生きた人間が住む清浄な世界との結界(ゾーン線引き)を設けた大王クラスの
墓「古墳」の構造からも窺い知ることができそうです。
しかし、神道の課題は「死穢」だけではありませんでした。
イザナミのような神サマですら、死んだら「黄泉の国」へ行かなければならないのです。
これも、またまた「本当に辛抱たまらんこと」です。
しかしながら、こうした神道のウイークポイントに対する解決策を、舶来の「仏教」は
備えていたのです。
ただ、そのお話はとっても長くなりそうですから、エイヤァとばかりにメッチャ
中略して結論だけを並べるなら、こんな按配になりそうです。
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(神道の弱点)↓ ↓(仏教での方策)
死穢という課題 → 火葬という弔い方法
黄泉の国へ行く宿命 → 仏サマによる救済
--------------------------
つまり、神サマと仏サマの間では、以下のような補完関係が成り立ちそうだと
考えたのでしょう。
〇神サマは仮の御姿であり、その正体は仏サマであると説明(本地垂迹説)できそうだ。
〇また神道が最も苦手とする「死穢」の問題も、仏教の火葬で解決できそうだ。
〇さらには、絶対絶望の世界「黄泉の国」へ行かねばならない神道での宿命も、
仏教なら仏サマの慈悲にすがることで救いを得られそうだ。
だったら、異教だというだけのことで両者が睨み合うなんてことは「愚の骨頂」という
ことにもなりそうですし、歴史も実際その方向へ進みました。
神道信仰と仏教信仰とが融合調和した「神仏習合」がそれで、
~「習合」とは、本来相異なる教義・教理を結合また折衷すること~
賢くも日本の歴史は、その通りの状況を生み出し、そしてまたその状態を長く
保ったのです。
ただし、こんな出来事があったことも注記しておかなくてはなりません。
「廃仏毀釈」です。
~廃仏思想が表面化してくるのは江戸時代末期、神道、儒教の学者が神国思想を
鼓吹するようになってからで、寺院や仏像の破壊が行われた。
特に明治維新後政府によって神仏分離の政策がとられると、各地で寺院施設、
仏像、経巻、仏具の焼却や除去を行なうなど、激化していった~
確かにそうした歴史も体験しましたが、現代では「習合」とまでは言えないものの、
また神サマ仏サマそれぞれが御健勝にて我々衆生の信仰を集めていることは、
皆様ご存知の通りです。
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