ヤジ馬の日本史

日本の常識は世界の非常識?この国が体験してきたユニークな歴史《日本史》の不思議をヤジ馬しよう!

例外編09/趣味はLLサイズの寄進です

「本能寺の変」(1582年)が起きる二年ほど前のこと、主君・織田信長(1534-1582年)
から突如19ケ条にわたる折檻状を突きつけられて織田家を離れたという、いささか
気の毒にも感じられるエピソードを持つ織田家筆頭家老・佐久間信盛(1529-1582年)。


その信盛の従弟に当たり、同じく織田家家臣にあった佐久間盛次(生年不明-1568年)、
その四男として生まれたのが、今回お話に取り上げる佐久間勝之(1568-1634年)です。


さて、お話は少し込み入りますが、こうした信盛と勝之の血縁関係を表す言葉がある
ので、折角ですからご紹介しておきましょう。
従兄・信盛から見た従弟・盛次の子・勝之を「従甥/いとこおい」といい、逆に
勝之から親の従兄である信盛を見た場合には「従伯父/いとこおじ」ということに
なります。
もっとも、親戚同士に関りが昔ほど濃厚ではなくなった現代では、めったに使う機会
のない用語かもしれませんが。


ちなみに、その佐久間勝之の母親は、これまた信長家臣・柴田勝家(生年不詳-1583年)
の姉ということですから、勝之にとって勝家は「叔父」に当たります。
こちらは現代でも割合よく使われている言葉です。


それはさておき、この佐久間勝之は時代を反映したそれなりに複雑な経歴を踏んだ
人物でした。
まず、後に叔父・柴田勝家の養子、さらには冬の立山連峰の踏破、いわゆる
「さらさら越え」で有名な佐々成政(1536?-1588年)の養子になった時期もあり、
しかし、最終的には姓を元の佐久間に戻しています。


 

    江戸時代の熱田神宮


そればかりではありません。
戦国北条氏の第四代・北条氏政(1538?-1590年)や、いわゆる「キリシタン大名」の
一人とされる蒲生氏郷(1556-1595年)に仕えたという経歴も持っているのです。
なにせ乱世のただ中ですから、「平穏無事」べったりでは過ぎなかったということ
でしょう。


15歳の折の「高遠城攻め」(1582年)が初陣でした。
この初陣で早々に功名を挙げたとされていますし、また史実とまでは言い切れない
ようですが、現在の地名でいえば宮城県北部と岩手県南部に当たる地域で起きた
「葛西大崎一揆」(1590年)の際にも大きな働きを見せたとされています。


さて、天下人・豊臣秀吉(1537-1598年)が死去したのちの勝之は、新しく天下を
掌握した徳川家康(1543-1616年)から近江国山路に3,000石を与えられました。
そのこともあったのでしょう、「関ケ原の戦い」(1600年)では徳川方(東軍)に
属しています。


さらに、その家康によって江戸幕府が建てられた後の1607年には常陸国北条
3,000石を加増されて、ついに合計1万石を領する大名の身分になり、住まいも
江戸城内に移したようです、


勝之の立身出世はそこに留まるものではありませんでした。
さらに後の「大坂夏の陣」(1615年)では、敵軍の将らを討ち取る手柄を挙げたと
され、その戦功によりまたもや加増を得るや、ついには信濃長沼藩1万8,000石の
藩祖にまでなっています。


単に大名というだけでなく、藩祖というメッチャ大きなステータスも手に入れたわけ
ですから、その才覚が並みではなかったことは間違いありません。
もし、乱世が続いていたなら、ひょっとしたら、さらなる出世を手にしていたかも
しれません。


では、戦のない平和な世の中になると、それと同時にヤリ手・勝之の出番もなくなって
しまったのか? 実は、決してそんなことにはなりませんでした。
独自の茶の湯「織部流」を立てた古田織部(1543-1615年)に学んだ茶人としても
確かな存在感を示しているのです。
共に武士であったことでも、師匠・織部とはウマが合ったのかもしれません。


さて、「応仁の乱」(1467-1477年)における市街戦で伽藍をことごとく焼失して、
再建も思うにまかせず、長く失われていた京都南禅寺の三門が、築城名人としても
有名な外様大名・藤堂高虎(1556-1630年)の寄進により再建されたのが1628年の
ことでした。


ちなみに、こんな説明になっています。
~南禅寺の三門は方丈、法堂、勅使門を結んだ一直線上にある、五間三戸高さ22Mも
 ある荘厳な構えの門で、別名「天下龍門」と呼ばれている~


この南禅寺三門再建に際して、実は佐久間勝之も大きな寄進をしていたのです。
再建の翌(1629)年のことで、それはたくさんの黄金と、並びに高さ6M余にも及ぶ
石灯篭でした。
その灯篭の銘は臨済宗の僧・以心崇伝(1569-1633年)によるものとされています。


蛇足ですが、この僧は字(あざな)が以心で法名が崇伝と名乗ったとのことで、
ええ、南禅寺金地院に住んでいたことから、金地院崇伝(こんちいん すうでん)の
別名でも知られている、その僧です。
崇伝の名は、徳川家康のもとで江戸幕府の法律の立案・外交・宗教統制を一手に
引き受けたとされることでもよく知られています。


その南禅寺寄進から少し後のことになりますが、勝之は海難に遭遇(1630年)しました。
それは、どうやら落命を覚悟するほどの状況だったようですが、幸いにしてその危機を
脱することができました。
~このメッチャな幸運はひとえに尾張熱田神宮の加護によるもの~
勝之本人はそのように受け止めたようです。


そこで勝之は、「命の恩人」?この熱田神宮にも大灯篭を寄進することにしたのです。
大灯篭の寄進は昨年も南禅寺で経験済みですから、何かと取り組みやすかったのかも
しれません。
その高さは、先の南禅寺の石灯篭よりもさらにビッグサイズの8Mほど。
熱田神宮に現存し、これは現在「佐久間灯篭」と呼ばれています。


    

       熱田神宮の「佐久間灯籠」とその案内


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灯篭とは、本来は暗い夜道を迷わないための照明器具のひとつですから、
現代なら「街路灯」ほどのイメージになるのかもしれません。
また、基本的には各パーツを積み重ねる構造になっていますから、地震大国日本に
おいては、石灯篭は高ければ高いほど倒壊のリスクが大きくなってしまいます。


実際、熱田神宮の「佐久間灯篭」は過去の地震で崩れています。 しかも3回も。
1/宝永四年(1707年) 宝永大地震
2/明治弐年(1891年) 濃尾大地震
3/昭和19年(1944年)  東南海地震


もちろん、現存しているということは、倒壊の後に修復をしたということです。
もし熱田神宮へお立ち寄りの機会がありましたら、その節には、ひょいとその
「佐久間灯篭」の西側にも目をやってください。


同じようなサイズの「スーパー石灯籠」?がそびえたっているはずです。
こちらは、この「佐久間灯灯籠」と一対にするために、地元財界人などの寄付によって、
後(1896年/明治29年)に建立されたものです。


さてその熱田神宮に寄進した翌年のこと、今度は東京・上野東照宮です。
徳川御三家など諸大名から奉納された48基の銅灯籠(国の重要文化財)が有名
ですが、その中でもひときわデカく、高さ6.M余を誇るのが、通称「お化け灯籠」で、
実は、こちらも佐久間勝之の奉納なのです。


サイズが最初の南禅寺並みに戻されたのは、熱田神宮の高さ8M級では、さすがに
デカ過ぎると、寄進者の勝之自身が感じたということなのかも


そして、これら京都・南禅寺、名古屋・熱田神宮、東京・上野東照宮の大灯籠を
合わせて「日本三大灯籠」と呼んでいるそうですから、その三大の全てが佐久間勝之に
よっての三年連続の寄進ということになります。


ということは、戦国時代にはバリバリの武将だった佐久間勝之は、平和な江戸時代に
なると、茶の道や灯篭建立に励み、文化人としてもその存在感を示したということに
なりそうです。


ただ「日本三大灯篭」なんて、あまりメジャーでもない「日本三大」を言い出したのは、
やっぱり、そのすべてを建立した佐久間勝之の子孫あたりではないかと、いささか性根の
卑しい筆者ひそかに疑心しているところです。


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