ヤジ馬の日本史

日本の常識は世界の非常識?この国が体験してきたユニークな歴史《日本史》の不思議をヤジ馬しよう!

忘れ物編34/元々の姿はちょい違っていた

先日、年配の方(いわゆるオジサン)からこんな話を振られました。
~「電話」という言葉を聞いても、今ではスマホが標準になった感があり、
 そのオリジナルである、いわゆる「有線電話」を即座にイメージする人は
 とんと少なくなってしまった~


ある種の嘆きなのでしょうが、お話は続いて次には、
~時計も同様で、数字で表示する「デジタル」式がどーんと増えて、針で表示する
 タイプのいわゆる「アナログ」式は肩身の狭い思いをしている~


そこまでだったらこちらも助かるのですが、そうは問屋が卸しません。
~そして、時刻を針の位置で表すのではなく、文字数字で出すから「出字たる」、
 つまり「デジタル」と呼ぶのだ~

なんだ、このオジンギャグが言いたかったがために話を振ってきたのか。
真面目に付き合って損こいた気分だ。


    

       デジタル時計 / アナログ時計


それはともかく、先の話題の電話や時計に限らず、時を経た現代のイメージと、
それが誕生した当時の姿との間に大きなギャップがある物は少なからずありそうです。
言葉を換えるなら、
「元々の姿はちょい違っていた」


たとえば、「古墳」なぞはそうしたものの典型なのかもしれません。
なぜなら、「古墳」のイメージを尋ねれば、まあ大抵の場合はこんなくらいの
答えが返ってきそうだからです。
~こんもりとした小山の形をしていて、そこには樹木がうっそうと繁っている~


ちなみに、古墳の風景を確かめてみると、その規模の大小を問わず確かに、
ほぼほぼ「樹木がうっそう」の状態になっています。
現代人は、そうした古墳の現地や、あるいは同様の写真ばかりを見ているという
刷り込みもありますから、ついつい元々の古墳の姿もそうだったと思い込んで
しまうのでしょう。


ところがギッチョン、事実はそうではないようなのです。
なぜなら、元々の古墳の姿についてはこんな説明がされているからです。
~(多くの場合、古墳は)土盛りの上に石を敷きつめた状態で、埴輪などが
 並べられていたらしい~
つまり、そこ小山の表面は「石張り」された状態だったわけですから、そこには
「樹木は生えていなかった」ことになります。


そんあ仕様にした理由は実は単純かつ明快で、お墓である古墳に樹木があっては、
その根っこの成長次第で、古墳土中の石櫃を痛めてしまう恐れがあるからです。
折角丁寧な埋葬をしたのに、そんな「大事故」を招いてしまったのでは、
死者も安らかに眠ることができません。
これでは、死者に対するメッチャな冒涜です。


ですから、やはり建設当時から「樹木がうっそう」状態の古墳は、一般的には
やはりそうそうはなかったと考えていいのかもしれません。
しかし、そうしたことが分かっているのであれば、死者を冒涜しないためにも、その
「うっそうたる樹木」を早々に伐採して原型復旧に努めなきゃいかんのではないか。
誰しも考えそうなことですが、ところが実際にはそう簡単な話でもなさそうです。


こんな仕組みになっているからです。
~天皇・皇后・皇太后が埋葬されている御陵と皇族の埋葬されている御墓
 合わせた
陵墓と、陵墓の参考地は、現在では区内庁が管理下に置いている。
 そして、管理下になる陵墓について、学術調査を含む一切の立ち入りを厳しく

 制限しており、学術団体の調査要求であっても基本的に拒否の方針を執ってきた~


また、宮内庁管轄以外の諸古墳についても、その管理者はやはり「宮内庁に倣え」
もどきの対応を示して、文化財に指定するなどして、そうした調査に一定の制約を
かけているケースも少なくないようです。


つまり、学術的な調査ですら簡単には許可はされないということですから、樹木伐採が
そうそう容易く許可されるはずもありません。
古墳全体の風景まですっかり変えてしまうことになるからです。


ところが、こんな事例もあるようです。
~箸墓古墳(奈良県)も、今はこんもり木が繁っているが、1876(明治9)年に撮影
 された写真にはほとんど草木の生えていない様子が写っている~
えぇ、邪馬台国の卑弥呼の墓ではないかとの見方もある、あの「箸墓古墳」のことです。


どうやら、こちらは明治20年代に植樹されたらしいとのことで、実はほかにも明治時代に
植樹をしたり、立入禁止にされた陵墓は少なくないとされているようです。
ですから、こうした古墳についても「元々の姿はちょい違っていた」と言えなくは
ありません。


   

  元々の古墳(石張り構造) / 元々の奈良大仏(金ピカ)


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もう一つ例を挙げるなら、「奈良の大仏」様もその「元々の姿はちょい違っていた」に
当てはまるのかもしれません。
えぇ、別名なら
「東大寺盧舎那仏像」のことで、その経歴をザッと辿ってみると、
こんな紹介になっています。


〇 572年 開眼供養会
〇 855年 地震で被災し、首が落ちた。
〇 1180年 東大寺と興福寺の僧兵集団と平重衡(清盛五男)との戦いの兵火により
      焼損を受ける。(1185年/大仏再興開眼供養)
〇 1567年 松永久秀(弾正)と対立関係にあった東大寺にあえて布陣した
      三好三人衆(三好長逸/三好宗宗渭/岩成友通)軍の戦いで焼失。
      大仏の頭部は銅板で仮復旧されたままで、数十年雨ざらしの状態。
〇 1691年 再興が完成し、翌(1692)年に開眼供養。


早い話が、こうして損傷を受けるたびに修復を繰り返してきたのが、現存している
大仏様ということになりますから、「元々の姿はちょい違っていた」のは当然なの
かもしれません。
しかし、実はもっと決定的に「元々の姿はちょい違っていた」部分があるのです。


その点については、こんな説明になっています。
~752年の開眼供養の時点で、大仏の仕上げはまだ完了していなかった。
 開眼供養前の750年に始まった「鋳造補整作業」は755年まで掛かった~

では、これで「ほんとの完成」になったのかと言えば、そんなに甘いものでは
ありませんでした。


~(鋳造補整作業によって)こうして仕上げが終わり、表面をやすりで平滑にした
 ところで、初めて鍍金(金メッキ)の作業に入る~
こうした手順を踏んでの鍍金工程は開眼会直前の752年に開始され、757年に完了した
と記録されていますから、開眼会の時点では鍍金(金メッキ)は未完成だったことに
なります。


えぇツ、なにッ、大仏様が金メッキ・・・つまりキンキラキンだったってか!
ハナから現在のような渋いお姿をされていたと思い込んでいたぞよ

こんな感想を漏らす現代人も少なくないのかもしれません。


ところが史実は、現在のような「渋いお姿」ではなく、
~その姿は現在見られるものとは対照的に、眩いばかりの黄金の輝きを放っていた~
というのですから、これもまた「元々の姿はちょい違っていた」に当てはまりそうです。


しかし、仏様ともあろう者をなんでまた、そんなド派手に飾り立てたの?
信仰の世界のことですから、これには深い意味があるのです。
大仏様の正式な御名前「盧舎那仏」(るしゃなぶつ)は、宇宙の真理を体得された
釈迦如来の別名であり、それは世界を照らす光り輝く仏という意味を持つそうです。
つまり、その意味からも全身全体が金で覆われていることが必要だったのです。


ところがダ、アナタのように疑り深い人間は、こんな主張をするかもしれません。
~全身に金メッキを施したなんて、そんなことは当時の人たちの見栄・駄ボラの類
 じゃないのかえ?~ 実をいえば、そうでもないようなのです。
というのは、こんな説明もあるからです。


~この時のメッキ法は、水銀と金との合金を鋳造像(大仏様)の表面に塗り、
 これを加熱して水銀を蒸発させ、表面に金を残す方法であった~

そして、
~このとき蒸発させた水銀蒸気により,多数の職人が水銀中毒にかかった~
このように説明されているからには、大仏様は間違いなくキンキラキンのお姿に
なったのでしょう。


ですから、現在の大仏様について言うなら、これも「元々の姿はちょい違っていた」
と言えそうです。


ちなみに、「鎌倉の大仏」(高徳院)様についてもこんな案内を見つけました。
~よく観察すると、ところどころにわずかに金箔が残っていることが確認でき、
 造られた当時には、この金箔が大仏様のすべてに施されていたようだ~


ですから、「鎌倉の大仏」様もキンキラキンだったようで、こちらもまた
「元々の姿はちょい違っていた」に当てはまっているのかもしれません。



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