ヤジ馬の日本史

日本の常識は世界の非常識?この国が体験してきたユニークな歴史《日本史》の不思議をヤジ馬しよう!

信仰編17/列島民族は窮屈を嫌う

歴史風に大和民族というべきなのか、あるいは現代風に日本国民というべきなのか、
そのへんのことはよく分かりませんが、ともかくこの列島に棲む民族には、いわゆる
「窮屈」を無意識に敬遠する向き、あるいは、それらに対する「苦手意識」もどきの
感情があったように感じられます。


でもその「苦手意識」って、いったいなんのことですか?
ええ、言葉を換えるなら「なるべく敬遠して触れないように努める姿勢」です。
そして、そこに頑なな原理原則や規則、あるいはメッチャ不寛容な縛りや制約が存在
している場合が多いのです。


少し例を挙げてみましょう。
たとえば、民族にとって自らのアイデンティティである「神」の在り方もその通りと
感じられます。
そもそもが、この列島民族の神に対する意識は、「自然に神宿る」という単純明瞭、
素朴で大らかなものでした。


それに「自然」なんていう対象はそれこそメッチャ広範囲のものを指しますから、
「神サマはどこにでもいる」とする受け止めは、自分たちの自覚や意識はともかく
としても、客観的には「多神教」との位置付けになります。
いわゆる「八百万神」です。


そうした信仰心は後に「神道」と呼ばれますが、当時の人々にとっては、あまりに
身近なことのため、おそらくそれは「宗教」なんていう大上段に構えた意識では
なかったと思われます。
ところが後の時代になると、自分たちのそれとは明らかに異なる信仰「仏教」
(公伝/538年?)が伝えられたのです。


宗祖なし神典なしで素朴一辺倒の「神道」に比べ、こちらは釈迦(紀元前7-5世紀?)と
いう確たる宗祖も存在し、また教義理論もそれなりに備えた異教です。
その上に、「仏」という、また自分たちとは異なる信仰対象も明確に備えていました。
その意味では迫力も違います。


要するに、自分たちの感性とはひと味もふた味も違う窮屈さを備えた未知の信仰
だったわけです。 で、それがどうかしたの?
えぇ、異なる二つのもののうち、どちらを選ぶべきかという大きな問題に直面した
ということです。


そのことについては、確かに小さからぬ摩擦を演じました。
しかし、最終的には両者共存との結論を得ることができました。
要するに、どちらか一方を選び、もう一方を棄てるという方法は採らなかったと
いうことです。


それは、元々いる仰山の八百万神のメンバーが増えただけと受け止めれば、それで
いいじゃないか、という理屈でした。
これも理論理屈を徹底追及することの窮屈さを苦手とした状況証拠にはなりそうです。


しかし、こんな方法が採れたのは、信仰対象が唯一ではなく、数多の仏様が存在する
「仏教」だったことが理由の一つに挙げられるのかもしれません。
多少砕けて言うなら、神道の「八百万神」に対して、仏教も負けずに「八百万仏」
存在していたイメージになるのでしょうか。


    神仏習合

  (春日大社の拝殿前にお坊さんが集まり神前読経を行っている)


それどころか、後にはこんな解釈も生まれることになります。
出身地も人相風体もまるで異なる神サマと仏サマを、なんとまあ「その正体は同じ」
だとしたのです。 
~神は仏が世の人を救うために姿を変えてこの世に現われたものであり、神仏は
 同体なのである~ 「本地垂迹説」です。


しかし、仏教の仏サマたちは新加入した神サマの仲間という位置づけにしたのですから、
信仰対象を唯一絶対とするいわゆる「一神教」という考え方には否定的で、言葉を
換えるなら、窮屈な理論理屈が付きまとう「一神教」を敬遠、苦手とした証と見る
こともできそうです。


事実、その後の戦国時代において、ガチガチ教義を引っさげた一神教「キリスト教」
伝わった際(1549年)にも、そのような対応を見せています。
当初列島民族は仏教の場合と同様に、新たな神サマのお一人として迎えようとした
のですが、キリスト教の頑迷な教義はそれをはねつけます。
「キリスト教基準」以外は一切認めないぞ、という姿勢です。


その姿勢を思い知った列島民族は、途中からは弾圧・禁教にと切り替えました。
もちろん、その背景には政治経済的理由というものもあったのでしょうが、それ以上に
キリスト教について回る教義の強要、気配りなしの独善ぶりが、当時の列島民族には
鼻についた、という理由もあったに違いありません。


つまり、このことも言葉にすれば、理論理屈の煩わしい「一神教」(キリスト教)を
苦手としたことになりそうです。


さて、異教の列島上陸ということなら、「仏教公伝」よりは少し早い時代のようですが、
「儒教伝来」(5世紀)という事実もあります。
~(儒教とは)、孔子(前552/前551―前479年)の教説を中心として成立した
 儒家の実践的倫理思想とその教学の総称。
 漢の董仲舒(とうちゅうじょ/前176?‐前104?)の献策によって国教となって以来、
 中国の代表的な思想で、朝鮮・日本にも大きな影響を与え続けた~


この説明にもある通り、その後列島でも数多くの儒学者が誕生しました。
列島民族は「儒教」自体は歓迎したということです。
ところが不思議なことに、儒教とセットもどきの「科挙」には見向きもしませんでした。


~(科挙)とは、中国漢代に起源をもち、隋・唐代から始まって清末まで続いた、
 官吏登用試験~

このように説明されていますから、まあ現代なら「国家公務員選抜試験」ほどの感覚に
なるのかもしれません。


この「科挙」が、またハンパなく難しい試験だったようです。
とにかく、一生をその受験勉強に費やしてもなお合格が叶わず、見果てぬ夢を抱いたまま
失意のうちに生涯を終えた人たちも結構多くいたとされているほどです。
二浪・三浪ところか「一生浪人」を続けても結果はペケの連続・・・


「儒教」は大いなる歓迎をした列島民族でしたが、こうした極限までの過当競争には
敬遠の態度を示しました。
「科挙」に飛びつくどころか、逆に毛嫌いした印象です。


 

      科挙の様子 / 旗本・勝海舟(曽祖父は農民)


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~そんなにめったやたらと難しい試験に一生を費やすなんてことは、まったく
 ナンセンスで、選抜が必要というのなら、試験ではなく、血統・家柄・身分
 基準にすればいいだけこと~
こんな風に考えたのかどうかは分かりませんが、ただ「科挙」については、とうとう
最後まで採用することがなかったのは事実です。


~合格するまでの期間はひたすら受験勉強だけ~
こうした極端な窮屈さが「苦手・敬遠意識」の芽生えだったのかもしれません。
しかし、モトからそうした「窮屈さ」を苦手としている列島民族ですから、
血統・家柄・身分による選抜方式も完璧なシステムとはいえないものでした。


言葉を換えるなら、その血統・家柄・身分だって永久固定とはなっていなかった
ということです。
早い話が「養子」だとか「入り婿」だとか、いろいろな逃げ道もハナから用意されて
いたのです。
ええ、言葉を換えるなら、列島民族は身分でさえも「がんじがらめの窮屈」には
しなかったということです。


その分かりやすい例が、江戸時代にはよくあった、いわゆる「旗本株を買う」という
行動かもしれません。
それは、たとえば、跡取りのいない武士身分の者の家へ、商人の子が大枚の持参金を
携えて跡取り養子として入る方法です。


こうした運びで、その武家には跡取り息子と同時に老後資金も確保でき、片や商人の子は
正々堂々、憧れの武士身分になることができるわけです。
いわば、ウィンウィンの関係です。
その良い例が、幕末に大きな役割を果たした勝海舟(1823-1899年)の家系です。


~(海舟の)曽祖父は視覚障害を持ち新潟の農民に生まれ、江戸に出て
 
米山検校(1702-1772年)となる~
そして、その海舟の曽祖父・米山検校は、
~1769年に旗本男谷家の株を買い、その六男・信連が水戸藩士(200石)となり、
 九男・信陵が
旗本(100石)となった~
ええ、一農民の子が藩士、旗本など士分を合法的に獲得しているのです。


ちなみに、その家系はこう続きました。
~この信陵の三男が小吉であり、これも勝家の株を買って同家を継承した。
 その旗本小普請組・勝小吉の子が
勝海舟である~


江戸時代には「士農工商」というテッパン的身分制度が布かれていたと思っている人も
決して少なくないようですが、勝海舟の家系をちょっと辿っただけでも、それが
誤解であることが分かろうというものです。


えぇ、こうしたことが半ば大っぴらに行われていたのですから、逆に言うなら、
~列島民族は窮屈な縛りや制約の存在を、モトから苦手と歓迎することは無かった~
このことの物的証拠?とすることができるのかもしれません。


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