ヤジ馬の日本史

日本の常識は世界の非常識?この国が体験してきたユニークな歴史《日本史》の不思議をヤジ馬しよう!

例外編10/大名国替のトリビア抄

国替(くにがえ)/所替(ところがえ)/転封(てんぽう)/移封(いほう)/
などなど、多彩な言い方があるようですが、要するにどれもが、
~(主に)江戸時代、幕府が大名統制策として大名の領地を他に移し替えること~
を意味しています。


実際、史実としてもそうした「国替」は盛んに行われました。
しかし、そもそもその「国(領地)」って、諸大名各自の私有財産ではなかったの?
そういうことなら「国替」の、その正当性はどこにあるのさ。


ということで、そこいらへんを探るべくちょっとばかり徘徊をしてみたところ、
ひょっこり遭遇したのがこんな文言。
~太閤検地以降は大名の領土であっても、究極的土地所有権は天下人や征夷大将軍に
 あるとの観念の下に行われた~


ここにある「太閤検地」(1582-1598年)とは、文字通り、
豊臣秀吉(1537-1598年)が日本全土で行った検地(田畑の測量・収穫量の調査)~
のことであり、後段説明の「天下人」とは、その~秀吉本人~を指し、
続く「征夷大将軍」とは、
徳川家康(1543-1616年)を初代とする、江戸幕府歴代将軍~
を示しています。


もっとも、その家康自身が江戸に本拠を構えることになったのは、元を辿れば、
時の天下人・秀吉から三河から関東への転封を申し渡されたせいなのですが。


   豊臣秀吉と徳川家康


それはともかく、家康が征夷大将軍に就いた江戸時代になると、大名自らの領地で
あっても、「究極的土地所有権」は将軍(幕府)が有する、との観念が定着して
(させて?)いたことになります。


そういうことなら、ウン(承諾)と言わなければ、それは幕府に対する「謀反」と
いうことになってしまうので、つまり、諸大名としても「国替」の幕命には
従わざるを得ないわけです。


ではその「国替」は、いったいどんな基準で行われたのかしらん。
次に浮かぶこんな疑問にも、ちゃんと説明は用意されていました。
~江戸時代には幕府による国替(転封)が行われるが、その初期は外様大名の
 地方転出、その跡への徳川系大名(親藩・譜代)の進出を基軸として行われた~


早い話が、幕府の本拠である江戸の近隣地域に領地を持つ外様大名を追い出して、
そこに将軍家の親戚あるいは親しい関係にある大名を入れるということで、
その基本設計が謀反に対する幕府防衛網の構築にあったことは間違いなさそうです。


ちなみに、そうした江戸時代の「大名」そのものについても、こんな説明も見つけた
ので付記しておきましょう。
~一万石以上を領有する幕府直属の武士の称であり、将軍家との親疎関係から
 
親藩、譜代、外様に、また所領の規模から国主(国持)・准国主・城主・城主格・
 無城
などに区別された。
 三代将軍・家光(1604-1651年)以後、その数は260前後あり、もっとも多いのは
 五万石以下の譜代大名であった~


では、外様と譜代を入れ替えるという施策だけで一件落着したのか。
実はそうでもありませんでした。
~中期以降は外様大名の転封は極端に減少し、幕府役職就任に伴う徳川系大名の
 行政的転封が主流となる~

要するに、当初構想した「幕府防衛網の構築」に一応の目途がついて、次の段階として
「行政の最適化」を目指した、ということのようです。


しかし、国替の影響を被るのは、何も大名やその家臣団に限ったものではなく、
その土地に暮らす農民・町人など領民たちにも及ぶものです。
それまでの殿様が国替となっても、新しい土地へ移住していくのは、その大名と
家臣団であり、領民たちは従来の土地に残ってそのまま「新しい領主」を迎える
カタチになるからです。


迎える領民側は、当然このように考えます。
~新しい殿様が、我らに対してこれまでの殿様のように臨んでくれれば良いが、
 そうでない場合も無いとは言えない。
 だったら、そうした局面にもきっちり対応できるようにしておかなくっちゃ~


実際、こんな説明もあるのです。
~百姓等領民にとって転封は、領主の交替により、それまでに獲得してきた諸権利を
 否定される可能性もあるため、反対一揆を起こすこともあった~

えぇ、領民がそれまで築き上げてきた既得権を無視あるいはチャラにするような
姿勢を、新しい殿様が見せるのであれば、そこが断固戦い抜く心構えを明確に
示していたということです。


ですから、江戸中期の勘定奉行・神尾春央(1687-1753年)の言葉、
~胡麻の油と百姓は絞れば絞るほど出るものなり~
このような苛烈な年貢の取り立ては、そもそもが例外的なものだったと思われます。


事実、その神尾の死後のことになりますが、江戸後期の経世家・本多利明
(1743-1821年)なぞは、神尾のこの言葉を取り上げて、
~大いなる不忠であるばかりか、もはや罪人の仕業である~「西域物語」(1790年)
とまで言い切り、メッチャ痛烈な批判を加えています。


 

        松平直矩 / 姫路城


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さてそうした国替については、いくつか面白いお話も伝わっています。
通常は、幕府から辞令?を受けた大名が新たな土地へ移り、その元の土地へ別の大名が
移り住むスタイルで行われますが、中には
「三方領地替え」という転封手法もあったとか。


それは、こんなやり方のことで、実際江戸時代を通じて何回か行われたようです。
例)~ 領地aを持っている大名A家を領地bへ、
    領地bを持っている大名B家を領地cへ、
    領地cを持っている大名C家を領地aへ、それぞれ同時に転封する~


そうした「三方領知替え」の中でも、失敗例として最も有名なものの一つが、
天保11年(1840年)のそれで、
〇武蔵国川越藩Aを → 出羽国庄内Bへ。 
〇出羽国庄内藩Bを → 越後国長岡Cへ。
〇越後国長岡藩Cを → 武蔵国川越Aへ。


三藩それぞれの間で転封を計ったものでしたが、その発端が川越Aの藩主が、
実高が多く裕福な庄内藩領地Bを狙って幕閣に働きかけたものだったこともあって、
士民を挙げた庄内藩の猛烈な抵抗に遭ったのです。


そればかりか、翌年に第11代将軍・徳川家斉(1773-1841年)が没すると、その経緯が
イマイチ不透明なこともあって、この問題には諸大名の間でも不満が高まり、ついには
第12代将軍・徳川家慶(1793-1853年)も追い込まれ、遂には「天意人望」に従うとの
決断し、結果として「沙汰やみ」になりました。 


つまり、幕府が画策した「三方領知替え」が取り消しになったということです
このことで幕府はその権威を大きく失墜させ、この二十数年後には、なんと
「幕府滅亡」にまで至っています。


へぇ、「三角トレード」?なんて国替もあったのか。
そんな感心をしていたら、実はなんと「四角トレード」?つまり「四方領地替え」
あったとのことです。


〇貞享2年(1685年)の事例
 下野国宇都宮藩(ア)を → 大和国 郡山(イ)へ。
 大和国 郡山藩(イ)を → 下総国 古河(ウ)へ。
 下総国 古河藩(ウ)を → 出羽国 山形(エ)へ。
 出羽国 山形藩(エ)を → 下野国宇都宮(ア)へ。


それだけでなく、こちらも「四方領地替え」の例として挙げられています。
〇正徳2年(1712年)
 下総国古河藩(カ)を → 三河国吉田(キ)へ。
 三河国吉田藩(キ)を → 日向国延岡(ク)へ。
 日向国延岡藩(ク)を → 三河国刈谷(ケ)へ。
 三河国刈谷藩(ケ)を → 下総国古河(カ)へ。


お話がコロッと変わりますが、「松平直矩」(1642-1695年)という大名を
御存知でしょうか。
誰もが知っている、いわゆる「歴史有名人」ということでもないのですが、
こと「国替」に関してはちょっと有名な殿様と言えるのかもしれません。
ええ、その「国替」を何度も経験しているからです。


~松平直矩は越前国大野藩主の松平直基の子として生まれ、父が姫路への国替えの
 途上で死去したため、幼少の身で
姫路藩主となるが、翌年越後国村上藩に
 国替えとなる。
 成人後に再び
姫路藩主となるが、その後、豊後国日田藩、出羽国山形藩、
 陸奥国白河藩と、幕府から何度も国替を命じられた~


この福井県生まれの殿様の、藩主としての足跡を現代の地名で追ってみるとこうなります。
〇 兵庫県(姫路) → 新潟県(村上) → 兵庫県(姫路)
 →大分県(日田) → 山形県(山形) → 福島県(白河)


つまり、家督を継いだ5歳から享年54までの約50年の間に、北は東北・山形県、
南は九州・大分県まで、のべつ本拠を移動させられた実在の人物という特異さが
注目されたものか、小説にも取り上げられています。


〇杉本苑子『引越し大名の笑い』講談社文庫、1991年
〇土橋章宏『引っ越し大名三千里』角川春樹事務所時代小説文庫、2016年。
→2019年映画化『引っ越し大名!』(監督;犬童一心/主演:星野源)


筆者の目からすれば、この映画作品については、お世辞込みでもスカタンの
出来栄えと評価せざるを得ませんでしたが、ただ、「引っ越し大名・松平直矩」の
存在を知るきっかけになったのも事実です。
ですから、あまり四角張ったことを言うのもオトナ気が無いことかもしれません。


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