ヤジ馬の日本史

日本の常識は世界の非常識?この国が体験してきたユニークな歴史《日本史》の不思議をヤジ馬しよう!

世界標準編29/八百万神の取扱説明書

たまたま手にした本のこんな一文が目に留まりました。
~ユダヤ教には『聖書(旧約聖書)』、キリスト教には『旧約聖書』と『新約聖書』、
 イスラム教には『コーラン』、仏教には各種の経典があるというように、

 宗教には聖典があります~
いかに宗教オンチの筆者でも、このくらいのことは辛うじて承知しています。


ところが、次には意表を突いたこんな問いかけが。
~神道にも聖典はあるのでしょうか~
うぅむ、筆者の知識レベルを見越したかのような、なんとも居心地の悪い流れです。
しかし、こうなってしまったのでは、知識に乏しい筆者には「急がば回れ」の
手順しか残されていないわけですから、そこで、まずは「神道(しんとう)」に
ついての説明を覗いてみたのです。


すると、 
~日本固有の民族宗教。
 日本人の信仰や思想に大きな影響を与えた仏教や儒教などに対して、
 それらが伝えられる前からあった土着の神観念にもとづく宗教的実践と、
 それを支えている生活習慣を、一般に神道ということばであらわしている~


   八百万神


言葉での説明となると何かしらややこしく、いかにも隔靴掻痒の感ありです。
しかし、深入りすればさらにややこしい講釈が並ぶことは必至ですから、ここは
いささか乱暴ではあるものの、以下の筆者なりの解釈を持ち出すことにしました。
なぁに、大層な意見はハナから持ち合わせていませんのでご安心ください。
~神道とは、尋常でないものにはみな神が宿っているとする素朴な信仰心~


この説明も分かりにくいでしょうから、例を挙げることにしましょう。
たとえば、メッチャ高い山、メッチャの清流、メッチャの静寂、メッチャデカいもの、
あるいはメッチャ不思議な現象などなどがそれで、これらは
~そうなっているのは神が宿っているせいである~と受け止める感情作用のことです。


その「尋常でないもの」は、実は森羅万象の全体にわたって存在しているわけです
から、ということは、そのそれぞれに「神が宿っている」という解釈になり、
当然ですが、神様は多数おられる理解になります。
その「多数」を意味した言葉が「八百万神(やおよろずのかみ)」ということです。


もっとも、この場合の「八百万」とは、もちろん実数を示しているわけではなく、
「多数/仰山」をデフォルメした言葉になっています。
早い話が、江戸「八百八町」とか大坂「八百八橋」とか、あるいはアナタが乱発する
「嘘八百」と同類のものということです。


しかしまあ、それはそれとして、「神が宿っている」という考え方を認めるという
ことなら、次には当然こんな思いも湧いてくることになります。
~こんなにも素直で素朴な感情に、「聖典」なんて「取扱説明書」もどきのものが
 本当に必要なのだろうか~


どうやら、これは割合に健全な反応ともいえるようで、それが証拠に、先の問いかけに
対しては、こう返されていたのです。
~実は、神道には決まった聖典はありません~


やっぱそうなのか、キリスト教やイスラム教のような「世界宗教」にはあっても、
割合限定的な「民族宗教」である神道に聖典は必要ないってことなのか。
うっかり、このセンで納得しそうでした。 


しかし、ちょっと待て。
ユダヤ教も神道と同じく「民族宗教」のはずだが、こちらは『聖書(旧約聖書)』
いう立派な聖典を備えているではないか。
だったら、「世界宗教/民族宗教」という区別が、聖典のあるなしを生んでいる
わけではなさそうだ。


そこで、さらに進んでみると、
~その代わり、神道には「神典」と呼ばれる書籍が伝わっています。(中略)
 神典のなかでもっとも重要なのは「記紀二典」ともいわれる『古事記』と

 『日本書紀』です~
なんだ、「聖典」「神典」だとぅ。
だったら、この両者にはどんな違いがあるというのじゃ。


疲れるお話ですが、こんな説明になっていました。
~聖典とは、神や神的存在、聖人の言行が書かれたもの、または教説がつづられた
 ものの内、それぞれの宗教内で、特に権威ある書物をいう。 

 教典、啓典ともいう。
 仏教においては特に「仏典」(仏教典籍)と呼び、神道においては「神典」と呼ぶ~


つまり、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教などの場合は「聖典」で、
仏教だと「仏典」、それが神道だと「神典」となるわけで、それぞれに呼び方に違いは
あるものの、要するに「それぞれの宗教内で特に権威ある書物」を指しているわけだ。


なるほど、その神道における神典のなかでも、殊に『古事記』『日本書紀』
格段に権威があると言っているわけか。
ということなら、当然ながら、『古事記』と『日本書紀』の以外にも神典は存在する
ことになりそうだ。

 聖書(バイブル) / 天壌無窮の神勅(神話)


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そのことについては、こんな説明が続きました。
~神典にはどのようなものがふくまれるかということを知る上で参考になるのが、
 『神典』(大倉精神文化研究所編・昭和11年刊)です。
 この本によりますと、神典として『古事記』『日本書紀』はもちろん、

 『古語拾遺』『宣名』『令義解』『延喜式』などのほか、
 『万葉集』や『古風土記』なども収録されています~


ふえぇ、とんと知らなかったけれど、「神典」とされるものとして、思いがけなく
盛り沢山の書名が挙がっているなあ。
そこで、全部とはいきませんでしたが、そのうちのいくつかについて整理をしてみる
ことにしたのです。


すると、こんな具合になりそうです。
 『古事記』→712年成立/序文および全3巻/発起人・天武天皇/
       ※現存する最古の歴史書。
『日本書紀』→720年成立/全30巻・系図1巻/発起人・天武天皇/
       ※日本初の正史(国家が編纂)。


 『万葉集』→759-780年以降?成立/発起人・不明/全20巻
       ※現存する最古の和歌集。
『古風土記』→713年の勅命により始まる/発起人・元明天皇/
       ※地方誌的文書で現存は出雲・播磨・日立・豊後・肥前の五つ。


残念なことに、筆者の生息地を記した「尾張風土記」は現存しないようです。
それはともかく、これらの歴史書あるいは神典に関わるすべての作業が「八世紀」に
入って急ピッチで進められたことがわかります。
つまり、この時代は、同族・異族の区分など、民族としての仲間意識が芽生え始め、
またそれを整備していった時期といっていいのでしょう。


そうした行動のキッカケは、やはり「中国」という存在だったに違いありません。
なぜなら、付き合いを通じて彼我を見比べてみると、地理な場所も、使う言葉も、
奉る王も、接する神々もその全部が違っているからです。


ですから、逆に言えば、
~大陸にいる民族と我らは明らかに異なる存在であり、いわば「列島民族」とも
 いうべき独自の集団である~


そういうことであれば、「自前の歴史」や「自前の神々」をも明らかにしておく
必要があります。
それが明瞭に示されてこそのアイデンティティですものねぇ。
この時期に立て続けに歴史書や神典が成立をみたのには、こうした背景・事情が
あってのことだったでしょう。


以下は余談になってしまいますが、上の書物のそれぞれのタイトルの読み方は、
現代に一般的とされている読み方で本当に正しいのでしょうか。
つまり、こういう読み方のことです。
『古事記』(こじき)/『日本書紀』(にほんしょき)/『万葉集』(まんようしゅう)


正直なところ、筆者などには幾分の違和感があります。
~あまりにも現代風な語感で、趣に欠ける印象だなあ~
要するに、全部が漢文読みになっているために、そこに大和言葉らしい風情が
感じられないわけです。


そこで、ついでのことに、ちょっくら探ってみると、案の定、別の読み方を主張する
「異説」?もどきの解釈もあるようで、こう記されていました。
 古事記/こじき、ふることふみ、ふることぶみ/
日本書紀/にほんしょき、やまとぶみ、やまとふみ/
 万葉集/まんようしゅう、まんにょうしゅう/


そういうことなら、まことに勝手ながら、筆者的には「古事記/ふることふみ」、
日本書紀/やまとふみ」を支持したいところです。


なお、申し遅れましたが、冒頭に挙げた「たまたま手にした本」とは
「図解 池上彰の 世界の宗教 が面白いほどわかる本」 中経の文庫 2013年発行
であったことをご報告しておきます。


しかし、十年も以前の本が、どういう顛末で筆者の目に触れることになったのか、
それが不思議でした。 しかし、それも家族の一言でそれもたちまちに氷解。
~そんなもん、日頃から整理整頓ができとらんだけの話だがねぇ~
えぇ、この際ですから自白しておきましょう。
実は、筆者も家族も出先ではひた隠しにしていますが、自宅においては実は
尾張言葉の常習犯なのです。


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