ヤジ馬の日本史

日本の常識は世界の非常識?この国が体験してきたユニークな歴史《日本史》の不思議をヤジ馬しよう!

冗談?編23/神話と歴史のあしながおじさん

アメリカの女性作家ジーン・ウェブスター(1876-1916年)による児童文学に
「あしながおじさん」(Daddy-Long-Legs)という有名な作品があります。
大学進学のための資金を匿名の援助者から与えられることになった孤児院育ちの

少女を主人公とした物語です。


念のためですが、資金援助とは言っても、昨今流行の「援助交際」とか「パパ活」の
類ではありませんし、また物語の中にアナタのお好きであろう変質者や連続殺人鬼が
登場することもありません。 
なにしろ児童文学なのですから、その点は悪しからずご了承ください。


それはさておき、少女は毎月一回学業の様子を手紙で報告することを条件とした
資金援助を申し出た人の本当の名前も、またその素性もを知らないままに、こっそり
「あしながおじさん」と呼んでいたというわけです。
なぁるほど、アメリカを舞台としたお話ですから、「あしながおじさん」と呼んだ
ところで、さほどの違和感はありません。


ですが、これが仮に日本の児童文学ということだったらそうはいきません。
なにしろ、ほんのちょっと前までの「大和民族のオジサン」の最大の特徴といえば、
「顔はデカくて足短」だったのですから、それを「あしながおじさん」と呼ぼう
などは、さすがに暴挙です。


つまり、そういった一面を承知していた筆者は、長いこと「日本版・あしながおじさん」
などはあり得ない話だと思い込んでいたわけです。
ところがドッコイ、ひょんなことから、そうでもなさそうだと気が付いたのです。
その「あしながおじさん」は児童文学ではなく、日本神話に登場していました。


   あしながおじさん(Daddy-Long-Legs)


へぇ、神話のどこに登場?
~伝承上の人物で、神武天皇に抵抗した大和の指導者の一人~として登場しており、
その名を「長髄彦」(ながすねひこ)としています。


ただし、この名前が使われているのは「日本書紀」であり、「古事記」では別の名に
なっているとの説明です。
しかし、実はこの「長髄彦」という名が大変に重要で、因数分解してみるとこうなる
のです。 長=長い/髄(すね)=膝からくるぶしまで部分/彦=男子


ですから「長髄彦」とは、分かりやすい言葉ならモロに「あしながおじさん」という
ことになります。 
ただし、こちら神話の「あしながおじさん」はこう説明されています。
~神武東征の場面で、大和地方で東征に抵抗した豪族の長として描かれている人物で、
 神武天皇との戦いに敗れた~


ですから、「長髄彦」とは戦いに勝利した神武天皇側がそう呼んだというだけのことで、
それが本名だったとも言い切れません。
おそらく神武天皇軍側の目には、長髄彦軍の姿がこのように映っていということなの
でしょう。 「どいつもこいつも、えらく足の長いヤツらだなあ」
そこで、その長に「長髄彦」(あしながおじさん)の名を当てた。


ということなら、逆に言えば、神武天皇軍側の姿は、長髄彦軍の目にはこう映って
いたことになりそうです。
「どいつもこいつも、えらく足の短いヤツらだなあ」(そのくせ顔は人一倍デカいぞ)
ですから、戦闘はイヤでも必死にならざるを得ません。
なぜなら、うっかり負けるようなことがあれば、一族の女性全部が敵軍・神武天皇側に
略奪されるだけでなく、その胤まで仕込まれてしまうことも覚悟しなくてはならなく
なるからです。


そうなると、生まれてくるのは神武天皇民族のDNAを引いた「顔はデカくて足短」の
者ばかりということになります。
これでは、これまで営々として築き上げてきた「足が長い」という長髄彦民族としての
固有の文化・文明までをも滅亡させてしまうことになってしまいます。


じつは、こうしたことは決して思い過ごしではないのです。
なぜなら、ずっとのちの時代のことになりますが、スペイン人のフランシスコ・
ピサロ(1470頃-1541年)がペルーの南米のインカ帝国を征服し、その挙句に歴史ある
インカ文明を破壊し尽くしたという史実があるからです。
つまり、長髄彦民族が抱いた不安は、とても現実的なものだったことになります。


ですから、長髄彦軍側の神武天皇軍に対する抵抗も半端ではなく、いわゆる
「玉砕」覚悟の壮絶な戦闘を繰り返した違いありません。
だからこそ、「長髄彦」の尋常ならざる抵抗として、記録にも残されたのでしょう。


でも「長髄彦」軍は負け、そして滅んでしまいました。 
相撲の勝負なら、足が長くては身体の重心が高くなって不利になったことも考えられ
ますが、しかし、武力闘争の場合ならそうでもなかったろうに。
筆者のこの素朴な疑問に対し、神話はその理由を丁寧に説明してくれていました。


~東征を進める(後の)神武天皇が長髄彦と戦っている際に、金色の霊鵄(金鵄)
 天皇の弓に止まると、その体から発する光で長髄彦の軍兵たちの目がくらみ、
 東征軍が勝利することができた~
『日本書紀』
要するに、長髄彦軍は神武天皇軍との真正面衝突の末に負けたわけではなく、
金鵄が放つ光にやられてしまったということのようです。


ですから、こんな説明も補足されていました。
~(金鵄は)日本建国に関わった霊鳥として、吉事や勝利あるいは建国の代名詞と
 して使われ、特に大日本帝国時代には金鵄勲章をはじめ、意匠や名称が多方面で
 採用された~


ただし、『記紀』のもう一方である『古事記』には、
~金鵄は登場せず、神武東征の際に熊野から大和へ東征軍を道案内した八咫烏と
 混同、あるいは同視されることが多い~


そこで、さらに深入りしてみると、平安時代から存続する賀茂神社においては、
~金鵄および八咫烏の二つを合わせて金鵄八咫烏と呼び祀っている~
このように説明されていました。

 

   長髄彦(左)と神武天皇  / 金鵄八咫烏


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ということなら、その「金鵄八咫烏」は、神武天皇軍にはなんらの悪影響を与える
ことなく、「長髄彦」族のみに大きなダメージを与えたことになります。
ですから、「長髄彦」族にとってはまったく「未知の新兵器」ともいうべきものだった

のでしょう。
しかし、とにもかくにもコテンパンにやられてしまったのですから、いまさら

ああじゃこうじゃとボヤいたところで始まりません。


ということなら、日本では「あしながおじさん」は神話にしか登場しない存在なのか?
言い換えれば、歴史にはとんと登場していないのか、という疑問です。
ちょっと見は確かにそのようにも感じられます。
しかし、神話に語られるほどのことなら、実際の歴史においても同様のことが
起こっていたとするのが素直な受け止め方でしょう。


そこで、筆者は日本の歴史の中における「あしながおじさん」を探索してみたわけです。
すると、割合に簡単に見つけ出すことができました。
時代で言うなら、鎌倉時代末期から建武新政を経て室町時代に至る時期。
実はこの頃の歴史には「あしながおじさん」が、と呼ぶべき存在が多数登場している
のですが、お気づきでしたでしょうか。


えぇ、なにせ奥ゆかしさがウリの大和民族の言動ですから、モロに
「私があしながおじさんである」なんて、名乗るような品のないことはしません。
ですから、分かりになりにくいことは事実です。
でも、こんなヒントを提供したら、分かっていただけるでしょう。
~室町幕府の歴代将軍の一族は皆、準「あしながおじさん」なのです~


念のためですが。室町幕府の歴代将軍とは、これらの方々です。
初代・尊氏/02代・義詮/03代・義満/04代・義持/05代・義量/06代・義教/
07代・義勝/08代・義政/09代・義尚/10代・義材/11代・義澄/12代・義晴/
13代・義輝/14代・義栄/15代・義昭/


えぇ、そして全員の本姓が「源」あることは当然ですが、その苗字については、
どなたもが「足利」(あしかが)を名乗っておられます。
しかし、普通は「利」を「かが」なんて読むことはありません。
実は、これこそが世間に対するカムフラージュなのです。
えぇ、つまり「足利」の名乗りこそは、実は「足長」を意味していたのです。


ですから、「足利(足長)一族の男子」は、言葉にすれば皆「あしながおじさん」、
もう少し控えめな表現を用いても「準・あしながおじさん」くらいにはなるのです。


もっとも、では彼らは実際に足の長い体型をしていたのかどうかという点については、
実はいささか怪しい面もあります。
なぜならば、「長髄彦」族が神話のなかで滅んでしまっている以上、彼ら
「足利一族」がその直系の末裔だとは考えにくく、そうなると、勝ち残った
「神武天皇」族の血統にあることになるからです。
つまり、「顔はデカくて足短」のDNAが幅を利かした体躯であった可能性が
限りなく高かったと判断されるわけです。


では、足が長い「長髄彦」族のDNAは、現代の日本民族にはまったく受け継がれる
ことはなく、完全に絶滅してしまったのか? 
ひょっとしたら、そうでも無いのかもしれません。
というのは、その体型からしても、筆者自身がその「長髄彦」族の末裔であるかも
しれないからです。



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