大雑把編09/神の姿カタチとその居場所
神サマ仏サマ、つまり神道と仏教のその双方を有難く信心するスタイルは、いわゆる
「神仏習合」と呼ばれ、仏教伝来以来の日本民族の信仰は、ほとんどの期間そうした
形式で行われてきました。
つまり、神道の神サマも仏教の仏サマを区別することなく、信仰の対象となっている
のですから、日本民族の信仰がいわゆる「一神教」ではないことは明らかです。
それどころか、神道には「八百万神」という概念があり、また仏教には、それを
もじった「八百万仏」?という見方もあるようですから、信仰の対象は「一神」
どころか、整理券を必要とするくらいの数多ぶりです。
もちろん、この「八百万」という数字は実数を指しているのではなく、言葉を換える
なら「メッチャ仰山の神様仏様たち」という意味になります。
例えば、神話「天の岩屋戸」に登場する主な神様だけでもこんな具合です。
~弟神・「建速太須佐之男命」(スサノオ/男)の度重なる乱暴狼藉ぶりに、
すっかり嫌気がさしてしまった太陽神・「天照大御神」(アマテラス/女)が
岩戸に隠れて、世界が暗闇になってしまった折、そのアマテラスを引っ張り出す
べく、岩戸の前では「天宇受賣命」(アメノウズメ/女)が神懸かりして踊り、
岩戸の脇には「天手力男神」(アメノタジカラオ/男)が隠れて立った~
この一節だけでも男の神・女の神、それぞれ複数が登場しているのです。
ちなみに、この時のアメノウズメの様子は、その手のお話がお好きな方はよくご存じの
通り、このように紹介されています。
~(アメノウズメは)岩戸の前に桶を伏せて踏み鳴らし、神憑りして胸をさらけ出し、
裳の紐を陰部までおし下げて踊った~
なんともエロっぽい神様です。 筆者も決して嫌いではありません。
さて、ここに登場している日本の神様全員は、例外なく人間と同様の姿カタチを有し、
また男女の別を示す性まで有しています。
ですから、はっきり「人格神」としていいのでしょう。
えぇッ、なんですか、その「人格神」って?
突然のことで申し訳ありませんでしたが、実はこんな説明になっています。
~単に人間の形をもっているだけでなく,固有の知性と意志をそなえ,独立した
個体的存在として考えられた神または神聖なるものをいう宗教学の用語~
具体的な例を挙げるなら、ユダヤ教における神(ヤハウェ)やイスラム教における
神(アッラー)もその典型であるとされています。
ふ~む、そういうことなのか。 だったら、「キリスト教」の場合は?
どうやら、こちらも「人格神」の例外ではなさそうです。
なぜなら、「キリスト教」はほとんどの場合、「三位一体説」を教義の骨格としている
からです。
そして、その「三位一体」を如実に表した~父と子と精霊の御名によって~との
祝詞?は、一般的に以下を意味しているとされているのです。
○父 → 創造主たる神
○子 → 子であるイエス
○聖霊 → 草木、動物、人、無生物、人工物などひとつひとつに宿っているとされる
超自然的な存在/万物の根源をなしているとされる不思議な気
つまり、キリスト教の神は、この「父/子/聖霊」の三つの位格が一体(三位一体)の
神ということになります。
正直なところ、少しばかりややこしくて分かりにくい気がするのですが、これが信仰の
真髄ということであるなら、筆者の如き異教徒がああじゃこうじゃと口を挟むことも
ありません。
こうなると、ここまで見てきた神道も仏教もユダヤ教もイスラム教も、また先に
挙げたキリスト教も、そのすべてがモロに「人格神」であることになります。
では、「人格神」には該当しない、まあ言葉にすれば「非人格神」?ほどの概念、
あるいは、そういった事実は存在するのでしょうか?
そんなことを想っていたら、何気に頭に浮かんだのがこの言葉でした。
「山川草木悉皆成仏」(さんせん/そうもく/しっかい/じょうぶつ)、または、
「草木国土悉皆成仏」(そうもく/こくど/しっかい/じょうぶつ)。
これは、
~山も川も草も木も皆ことごと(悉)く仏に成る~という意味で、山や川や草や木など
のように心を持っていない、つまり自らの意思で修行できない存在であっても、
ちゃんと仏に成れるぞヨ、という心強い?思想です。
ただし、本来の仏教には無かった考え方のようです。
もともとインドの大乗仏教では、成仏できるのは「有情」あるいは「衆生」と呼ばれる
「心を持った生き物」、すなわち人間と動物に限るとされていたからです。
ところが六世紀頃、中国仏教のなかにこうした思想が見出され、その後になって、
日本で受け入れられました。
ひょっとしたら、日本では、とってもトレンディで最新科学という受け止めだったかも
しれません。
ちなみに、日本で最初に受け入れたのは真言密教の空海(弘法大師/774-835年)と
いわれています。
次いでは、天台宗の円珍(814―891年)や安然(841?-915年)らによって、
さらには鎌倉時代になっては浄土真宗・親鸞(1173-1263年)、曹洞宗・道元
(1200-1253年)、日蓮宗・日蓮(1222-1282年)らによって主張されたとされて
いるようです。
イエス・キリストの像 / 哲学者・スピノザ
しかし、仏教の発祥地・インドにはなく、中国仏教のなかに見出され、日本で流行した
というのには、それなりの理由があってのことだったに違いありません。
筆者の独断と偏見によれば、それは日本の神道との相性の良さにあったと思われます。
確かに、ここに名が挙げられているのは仏僧に限られていますが、それは他方の
神道は本来的に誰がどうしたなどということを、いちいち手柄めいて大袈裟に捉える
ことをしないからです。
なにせ「神道」についての説明は、こんな風になることが多いくらいのものなのです。
~教典や具体的な教えはなく、開祖もいない。 神話、八百万の神、自然や自然現象
などにもとづくアミニズム的、祖霊崇拝的な民族宗教である~
ですから、元々から良く言えば「メッチャ大らか」、良くなく言うなら「かなり大雑把」
な信仰ということになります。
おっと、では、その「アニミズム」って?
~生物・無機質を問わないすべてのものの中に霊魂、もしくは霊が宿っているという
考え方で、自然と神とは一体として認識される~
ですから言葉を換えれば、この地には既に、神道流「山川草木悉皆成神」?的な
信仰土壌が育っていたことになりますから、そこに仏教の「山川草木悉皆成仏」という
思想が入ってきても、すんなり馴染んだとも考えられるわけです。
えぇ、それまでも「神仏習合」という環境で、ずっと長い間、共存共栄してきた
仲ですからねぇ。
では、キリスト教には「人格神」とする以外の思想は育たなかったのか?
実は、ちゃんとあったようです。
それが、オランダ生まれのユダヤ人哲学者・スピノザ(1632-1677年)の主張です。
スピノザの思想的立場はこのように説明されています。
~神を擬人化した「人格神」を認めず、一切全てを神と同一視し、創造者(神的存在)
と被造物(世界や自然)とに断絶を置かない立場~
ですから、このようにも、
~彼の汎神論は、神の人格を徹底的に棄却し、理性の検証に耐えうる合理的な自然論と
して与えられている~
うへっ、すっかり茶ノ木畑へ迷い込んでしまった感じ。
しかも追い打ちとして、さらにこんな説明も。
~スピノザは無神論者では決してなく、むしろ理神論者として、神をより理性的に
論じ、人格神については、これを民衆の理解力に適合した人間的話法の所産であると
している~
ということは、スピノザ自身はこう言っていたことになりますか?
~「人格神」とは(真理ではなく)、「方便」(真の教えに導くための仮の手段)に
過ぎない~
神サマ仏サマを話題に取り上げると、大方の場合うるさい講釈が付きまとい、最後には
クシャクシャになってしまいやすいのですが、その意味では今回も、その轍をバッチリ
踏んでしまったようです。
悪しからず、ご容赦くださいませ。
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