ヤジ馬の日本史

日本の常識は世界の非常識?この国が体験してきたユニークな歴史《日本史》の不思議をヤジ馬しよう!

怪人編26/親政への執念と悪党の超戦術

日本史の「時代区分」をよくよく眺めて見ると、結構入り組んだ構成になっている
ことに気が付きます。
考えてみれば、社会の複雑な変遷や経緯をそれなりの根拠に基づいて括りまとめる
作業ですから、そこにデジタル的明確さを求めることは意外に困難なことなのかも
しれません。


Wikipedaで「室町時代」周辺の項目を眺めてみると、そのことがよく分かろうという
ものです。
一応の区分は以下のようになっていますが、全体的にはいわば複層構造で、しかも
示された年代の数字にはそれぞれには細かな注釈も付け加えられ、あたかも
ハレーションがかかったかのような印象になっています。


鎌倉時代  (1185年-1333年)
建武の新政(1334年-1335年)
室町時代 (1336年-1573年)
 その内にも、△南北朝時代 (1336年- 1392年)
        △戦国時代 (1493年-1590年)


ひとくちに「室町時代」とは言うものの、この表に倣うなら、そこに当てはまる期間
には大きな開きもあり、たとえばこんな具合。


           〇全期間の室町時代 (1336-1573年) 約238年
〇初期の南北朝時代の期間を除いた室町時代(1392-1573年)だと約182年
 〇後期の戦国時代の期間を除いた室町時代(1336-1493年)だと約158年
〇初期の南北朝時代の期間と後期の戦国時代の期間を除いた室町時代(1392-1493年)
                            だと約102年

   後醍醐天皇(建武の新政)


同じ「室町時代」という名称を使いながら、長い場合の約238年から短い場合の
約102年間を指すということですから、単純計算でも二倍以上の開きが出ています。
こうなると時代区分の括りって結構ユルユルなものにも思えてきますが、
ところが
ギッチョン、その期間が僅か3年ほどの超短期にも関わらずキッチリ独立している時代も
あるのです。 それが上表にもある「建武の新政」なのです。


平気で100年200年の誤差を認めている「室町時代」に比べたら、このキメ細かさは
いささか異様な印象です。 でも、どうしてそうなるの?
すごく短かい期間ではあったものの、その前後の時代とは明らかに異質な期間だった
との認識があってのことでしょう。


別の言葉に直せば、~山椒は小粒でもピリリと辛い~
あれれ、なんとなく微妙に違う気がしないでもありませんが、そこら辺は深く追及せずに
先に進むことにしましょう。


さて、「時代区分」とはいいながら、この「建武の新政」だけは実は他と同じような
「〇〇時代」という時代表現にはなっていません。
また、前の「鎌倉時代」も、そして後の「室町時代」も、時の政権が本拠を置いた
地名を冠した名称になっていることに比べた場合、この「建武の新政」だけは明らかに
異質な名称になっています。


その「建武」とは政権本拠地を指す言葉ではなく、なんと元号なのです。
~建武は、日本の元号の一つで1334年から1336年までの期間を指す~


また、その「新政」って?
~新しい政治のやり方。 また、政治の機構や政令などを新しく改めること~
こちらは文字通りの説明になっています。
ということで、今回はこの「建武の新政」という時代を覗いてみることにしました。
そのためには、どうやらまずは二人の人物に注目する必要がありそうです。


まずは、後醍醐天皇(第96代/1288-1339年)。
~王政復古を志して討幕を計画したが、正中の変(1324年)、元弘の変(1331年)
 の両度ともに失敗して隠岐に流された。
 後に(1333年)脱出して、鎌倉幕府が滅亡すると建武新政府を樹立した~

かなりエネルギッシュな人物像が浮かんできます。


ところがこれだけではなく、さらには、
~のち親政に失敗して足利尊氏(1305~1358年)と対立、吉野に移って南朝を開いた。
 第97代・
後村上天皇に譲位(1339年)し、翌日没した~


ちなみに、「新政」とたまたま同じ音韻になる、文中の「親政」とは、
~天皇が自ら政治を行うこと~と説明されていますから、一時期とはいえ権威だけでなく
権力も兼ね備えた天皇だったことになりそうです。


二人目は悪党(河内の土豪)・楠木正成(1294-1336年)。
~後醍醐天皇の鎌倉幕府討伐計画に応じ、幕府軍を相手に奮戦。
 建武の中興の功績者で、のち足利尊氏と摂津湊川で戦い敗死~

ゲッ、「悪党」ってか! さてはギャングもどきの暴力的犯罪者なのか?


ところが、そうではなく、
~(悪党とは)鎌倉時代の中・末期から南北朝内乱期にかけて、
 反幕府・反荘園体制的行動をとった在地領主・新興商人・有力農民らの集団をいう~

とされています。
要するに「幕府システム」に関りを持たない、あるいは与しない勢力のことを
言うようです。


さて、その悪党・楠木正成ですが、
~後醍醐天皇の鎌倉幕府討伐計画に参加。河内赤坂城、のち千早城に拠り、巧みな
 兵法と知略で幕府の大軍を防ぐ。
 建武の新政府が成立すると、中央政界でも活躍した~

とされていますから、一口に言うなら後醍醐天皇の軍事面を背負い仕切った人物だった
ようです。


   

     楠木正成 / 千早城の戦い(1333年)


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しかしまぁ、至高の存在である天皇と一介の悪党風情の間に、一体どんな結びつきが
あったのものか、考えて見ればとても不思議なことです。
確かに、お話としてはこんな経緯が語られています。


~後醍醐天皇が、大きな木に座っていたら南の方に武士がいたという夢を見た。
 そこで、「木の南というのなら楠木だ、この近くに楠木というものはおらぬか」と
 聞いたところ河内の豪族・楠木正成に行き当たった~


しかし、こんなミエミエのこじつけ話を持ち出さなければならなかったのは、
当時の人々も、天皇と悪党の結び付きにメッチャ大きな違和感を抱いていたという
ことなのでしょう。
しかし、「親政への執念」を隠さない後醍醐天皇と、軍事的天才である楠木正成、
この二人のタッグが時代を大きく動かしたことは間違いありません。
何しろ「鎌倉幕府滅亡」という事実に直結していったのですから。


しかし、その後に成った「建武の新政」、言い換えれば「後醍醐天皇の親政」ですが、
これは自らの思い通りの政治運営とはなりませんでした。
そりゃあそうでしょう、自らの権力欲むき出しで、
~ああじゃこうじゃと言うな! 何事も朕が言う通りにすればよいのじゃ!~
この手の押し付けばかりでは、ついて行く者もさすがにシンドイですからねぇ。


一方の正成についてはこんな説明も見られます
~南北朝時代・戦国時代・江戸時代を通じて日本史上最大の軍事的天才との評価を
 一貫して受け、「三徳兼備」(三徳=儒学でいう智・仁・勇の徳目)、
 「多聞天王の化生」(四天王の一尊に数えられる武神・毘沙門天のこと)、
 「日本開闢以来の名将」(究極の軍人)、などと称された~


こうした評価になるのは、幕府軍を相手にした「千早城の戦い」(1333年)で
繰り広げた戦術があまりにも鮮やかで強烈な印象を残したせいかもしれません。
~下赤坂城・上赤坂城が落城し、千早城に攻めてきた鎌倉幕府の大軍に対して
 1000人ほどの城兵が種々の奇策を用いた戦法で翻弄し、大軍を足止めさせ、
 建武新政の大きな原動力となった~


この時の彼我の兵力差が100対1ほどだったことを考えあわせれば、
「三徳兼備/多聞天王の化生/日本開闢以来の名将」などの称賛になるのも
納得がいくところです。 そして、これは歴史上の事実ですが、
~鎌倉幕府が滅亡したのは、千早城の戦いが終了した12日後のことであった~


折角ですから、この楠木正成にはこんな評価もあることも記しておきます。
~また、これは知らない人が多いのだが、ひょっとしたら正成は
 「日本マラソンランナーの祖」かもしれない。
 武士たちは様々な方法で体を鍛えていたが、ランニングというトレーニングの

 方法は知らなかった。 なぜなら彼らは馬に乗っているからである。 
 (中略)
 ところが正成だくは部下の兵士を集め、夜な夜な赤坂城の周りを何周も走って
 いたというのだ。 『太平記評判理尽鈔』という室町時代に成立した

 古典『太平記』の注釈書に載っているエピソードである。
 だから幕府軍は数に物を言わせてようやく千早城を落としたが、正成一党には
 まんまと逃げられてしまった~

 出典:井沢元彦著「動乱の日本史 南北朝対立と戦国への道」角川文庫


ちなみに、その『太平記』のタイトルは後醍醐天皇の最期のこの言葉からきています。
~朕の妄執(持ち続けている執念)とは、朝敵をことごとく滅ぼして天下を
 太平ならしめることだ。
 (中略)
 朕の子孫がわが命に従わないのなら、それは決して正当な天皇ではないし、
 仕える臣も忠臣ではない~


う~ん、徹頭徹尾とことんジコチューな御仁だったようです。



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