ヤジ馬の日本史

日本の常識は世界の非常識?この国が体験してきたユニークな歴史《日本史》の不思議をヤジ馬しよう!

陰謀編35/宮中殺人コールド・ケース

偶然のことでしたが、かつて天皇の住む宮殿(皇居)において、未解決
(コールド・ケース)として扱われた殺人事件があったことを知りました。
非常に特殊な環境である宮中においてのコールド・ケース殺人事件というのですから、

少なからず関心が向いてしまいます。


残念なことですが、筆者自身は皇居に住んだ経験がありません。
ですから、以下は並の平民(つまり筆者)が抱いた感想・推察ということで
ご理解ください。
さて、まず思うことは、仮に宮中において殺人事件なんて大層な出来事が起こったと
したなら、たちまちに犯人は特定され逮捕されるのではないかという、
素朴もいい加減素朴な疑問です。


都会の雑踏のように不特定多数の人間がひしめき合って往来するような環境での
通り魔犯行というわけではありません。
また逆に人里離れて、とんと人目のないメッチャ寂しい場所での犯罪というわけ
でもないのです。


要するに、捜査はグッと狭い範囲に限られる上に、しかも関係者もまた身元が
確かな者に絞られるわけです。
ああそれなのに、コールド・ケース殺人事件だなんてイマイチしっくりきません。


そこで、少し深入りしてみることにした次第ですが、その事件の経緯はこんな案内に
なっていました。
~(883年)殿上の間で天皇に近侍していた官吏が、突然何者かに殴殺された~
そして、
~内裏での事件であったことから秘密にされ、部外者に詳細は伏せられた~
 

 第57代・陽成天皇


事件発生そのものが公にされなかったわけですが、まずはここに登場する人物を
追ってみることにしましょう。
被害者がいないことにはその事件そのものが成立しませんから、とりあえずは

「被害者」に目を向けることから始めてみます。


すると、「突然の殴殺」を喰らった者、つまり撲り殺されてしまったお気の毒な
被害者のことですが、こんな説明になっています。
源益(まさる/生年不詳-883年) 母は陽成天皇の乳母・紀全子。
 つまり、上の案内では「天皇に近侍していた官吏」とされる人物です。


そして、同じく「殿上の間にいた天皇」とされるのが、
○第57代・陽成(ようぜい)天皇(869-949年) ※事件当時15歳
 2歳で皇太子、8歳で即位、16歳で退位というやたら忙しい履歴の持ち主。


そして、その陽成天皇の乳母が被害者・源益の母ということですから、
被害者・源益とは「同じ釜の飯を食う」のではないけれど、「同じ胸の乳を飲む」
乳兄弟の関係になります。
ということは、生年不詳とされている源益より幾分年少だったことも考えられそうで、
学友、子守り、あるいは話し相手のような存在として源益を近侍させていたのかも
しれません。


二人の周辺環境にも目を向けてみましょう。
すると、いきなりのこと藤原一族が顔を出してきます。
なにしろ、まず第一に陽成天皇の母が藤原氏なのですから無理もありません。


藤原高子(842-910年) 藤原基経の妹。 ※事件当時42歳
 第56代・清和天皇の9歳年上の女御となり、陽成天皇の母となる。


だったら、陽成天皇の母の兄、つまり陽成の伯父にも触れておく必要がありそうです。
すると、この人物に行き当たります。
藤原基経(836-891年) ※事件当時48歳
 皇族ではない「人臣」の身分で最初の摂政となった藤原良房(804-872年)の
 養子となり、太政大臣に任ぜられた(880年)。
 また、天皇の廃位・擁立の深く関わり、いうなれば当時の政界のビッグ・ボスの
 立場にあり、自身もまた史上初の関白となった。


その言動の傍若無人ぶりも半端ではなかったようで、太政大臣になっても出仕しない
日も多かったとされているばかりか、上のように天皇の廃位や擁立にも深く関与して
いたようです。
というよりは、この当時の「天皇の任命権」?を基経が一手に握っていたと理解した
ほうが、話が早いのかもしれません。


そして、お話が多少横道に逸れるのかもしれませんが、陽成天皇の母・高子については
こんな案内もあることを添えておきます。
~藤原高子と在原業平(825-880年)との間には恋愛関係があった~


えぇ、六歌仙の一人に数えられ絶世の美男子といわれた、あの業平のことです。
ただ、このことについては、単なる「恋愛関係」ではなく、その背景には複雑な
政治的思惑が絡み合っていたと見る向きもあるようですが。


 


史上初の関白・藤原基経(兄)/(妹)陽成帝母・藤原高子(と在原業平)


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要するに、この頃の朝廷はひとり藤原基経に牛耳られていたといってもいいのでしょう。
だって、こんな言動を示していたのですよ。
○太政大臣となっても、その職責を平気で無視する。
○第56代・清和天皇を強引に退位(27歳)させ、次代・陽成天皇を即位(8歳)させて

 いる。


そればかりではありません。
○その陽成天皇を若くして退位(16歳)させるや、その後釜には 第58代・光孝天皇
 (830-887年)を即位(55歳)させている。
つまり、若い天皇を排除し高齢天皇を引っ張り出すなんて荒業も、ためらわず
実行できてしまうだけの傲慢不遜ぶりを備えた人物だったわけです。


ということは、このコールド・ケース「宮中殺人事件」の真相について、基経が
知らないわけがない、ということになります。
なにせ、朝廷のスミからスミまで総てを牛耳り、天皇の首だって自由自在に挿げ替え
られるほどの人物ですからねぇ。


ところが、こんな説明がされているのです。
~内裏での事件であったことから秘密にされ、部外者に詳細は伏せられた~
どう見たって、これは隠蔽工作であり、そしてそれは基経の主導によるものだったに
違いありません。
つまり、基経は「真犯人」を知っていたということになります。


ということであれば、「真犯人」は否応なく陽成天皇その人ということに落ち着き
そうです。
その真犯人・陽成天皇と被害者・源益との間にどんなトラブルが生じたのか、
それはよく分かりません。


しかし、天皇が15歳、また詳しい年齢は分からないにせよ、源益は多分それより
少し上の、いわゆるティーンエイジャーだったことを思えば、両人の間に起きた
何か些細なことが原因で、その結果に「キレた天皇が手を挙げ」ちゃったとしても、
それほどに不思議なことでもないような気がします。


たとえば、他愛もないじゃれ合いがひょっこりもつれて、片方が手を出てしまった。
そうこうするうちに互いに高揚し、その挙句に一方がキレて、ひどい暴力に及んで
しまったとしても、まぁ鼻血を出すくらいのところでストップがかかればよかった
のでしょうが、エスカレートしてしまい、ついには「撲殺」という悲惨な結果まで
招くことになった。
真相はまったくの不明ですが、こうした経緯があったとしても不思議ではありません。


ところが、「部外者に詳細は伏せられた」にも拘わらず、
~陽成天皇がメッチャ怪しいゾ~ こうした印象を当時の多くの人も抱いたようです。
というのは、事件よりずっと後の時代になりますが、公家・九条兼実(1149-1207年)
の日記『玉葉』に、~陽成天皇が事件に関与していたとの風聞があった~
ちゃんと記されているからです。


もっとも、筆者がその『玉葉』を読んで、そこに「記されている」に気が付いたわけ
ではなく、Wikipediaの記事を信用しての断定なのですが。


そうした風聞の背景には、ひょっとしたら、藤原基経と高子の兄妹仲が芳しいもの
ではなかったという認識もあったのかもしれません。
世間から見れば、妹・高子の息子・陽成を年若くして退位させたのは、高子の兄、
つまり陽成の伯父・基経その人であったことになるからです。


この兄妹双方の並でない権力志向の強さを承知している世間は
~息子(陽成)をクビにされた高子は、さぞや面白くなかったことだろうなぁ~
となり、それが、
~兄妹仲はメッチャ悪かったに違いない~と受け止めるからです。


その意味では、この「宮中暗殺事件」は、そうした当時の朝廷状況が作り出した、
非常に人為的な「コールド・ケース」だったと言えるのかもしれません。


もう一つ、どうでもいいことを挙げるなら、この日記『玉葉』です、
その記事は、実は1164年-1200年の37年間にも及んでいるとのことで、
これには、何事も三日坊主のアナタはもちろんのこと、自称二日坊主の筆者も、
まさに超人的な根気良さだと、ビックリこかないわけにはいきませんでぇ。


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