ヤジ馬の日本史

日本の常識は世界の非常識?この国が体験してきたユニークな歴史《日本史》の不思議をヤジ馬しよう!

トンデモ編10/勇者の言動を現代の意識で

かなり大昔のこと、それは歴史と言うよりはむしろ伝説の範疇のものと捉えた方が
素直な気がしますが、第12代・
景行天皇は最初の妃との間に、長男・大碓命
次男・小碓命という名の双子の兄弟を儲けています。
ちなみに、景行天皇はかなりの「女好き」だったようで、この「最初の妃」以外にも
数多の妃を持ち、そればかりか、その間の子供の数もハンパではありませんでした。


その家庭環境をちょっと紹介すると、まあこんな按配です。
まず、父・景行天皇は素直な性格の長男・大碓命の方を愛し、幾分荒々しい性格を
持った次男・小碓命を煙たがる傾向があったようで、いうならば、その家庭環境も
なにかと微妙な雰囲気の中にありました。


    日本武尊(小碓命)


そうは言うものの、長男・大碓命もまた父・景行の見立て通りの従順ではなく、
言いつけをこっそり破ったりもしているのです。
その言いつけがこれ。
~美濃国にメッチャな美女がおるからして、お前が迎えに行ってくれ~


その命令には素直に従って迎えに行った長男・大碓命でしたが、迎えた娘のあまりの
美しさに思わずよろめいてしまい、ちゃっかり自分のものとし、父・景行には
別の美女を渡したのです。 
大碓命にすれば、そりゃあやっぱり気が引けますよねぇ。
そこで大碓命は、以来、父・景行と顔を合わせることを避け続けました。


会うことを避け続ける長男・大碓命の行動には、父・景行とて不快感を覚えます。
そこで、次男・小碓命にこう命じました。
~小碓よ、大碓を「ねぎし」してやってくれ~
父・景行の本心は「言って聞かせよ(諭せ」」ほどのものでしたが、次男・小碓は
これを「処刑せよ」との意味に取り、躊躇することなく兄貴の殺人に及んだのです。


「諭せ」と「処刑せよ」では、その意があまりに異なっていて、誤解の余地が無いよう
にも思えますが、そうした異なる意味合いを備えた言葉は現代にも少なからずあります。
例えば、「寝る」なんて言葉もそうかもしれません。


普通には「眠る」ことを意味しますが、場面によっては男女間のことも「寝る」と
表現することもあります。
まあ、オトナなら常識的にどちらの意味なのかは判断できますから、同じ語彙で
異なる意味を持っていても、目くじらを立てるほどには不便を感じません。
この「ねぎし」も、そういう類の言葉だったのでしょう。


しかし、次男・小碓命のまったく「想定外」の行動にすっかり肝を冷やしてしまった
のが父・景行で、このまま手元に置いておいたのでは自分の身も心配とばかりに、
さらにこう命じました。
~一旦は屈服させた九州の熊襲(クマソ)だったが、それがまた反乱を起こしたゾ。
 ついては次男・小碓よ、そのクマソを征伐せよ~


この熊襲征伐を成功させた折、敵・熊襲の首領が小碓命のことを
~あなたこそ、ホンマモンの「ヤマトのタケル(勇者)」だッ!~
と称えたことから、以後はその名を使うようになったようです。


しかしこれ以後の「ヤマトタケル」(日本武尊/小碓命)は、「いまだ服わぬ者」を
征伐するため、九州に限らずあちらこちらへの地方出張を余儀なくされました。
必死で抵抗する勢力をやっつけて鎮めるのですからメッチャ疲れる役目です。


しかし、なにせ天皇の命令ですから、辞退することも叶いません。
そして、日本武尊は筆者の生息地・尾張の地で結婚しました。
このあたりの唐突ぶりは、やはり伝説によるお話のせいもあるのでしょう。
ちなみに、この宮簀媛(みやずひめ)は生涯で最後の妻ということになります。
えぇ、これより少し後に亡くなっちゃうんです。


その尾張の西方にある伊吹山に、ちょいとばかり荒々しい神がいるとのことで、
日本武尊はその制圧にも向かいました。 多忙な身です。
ところが、今度ばかりは逆にボコボコにされ、ほうほうの体で命からがら逃げ帰る
羽目になったのです。
なぜなら、そのときには戦うための武器を携えていなかったからです。


足が三重に折れたようという極限状況の敗走中にまで追い込まれ、ついには絶命に
至りました。
余談ですが、地名の「三重」はここからきているとされているようです。


さて、ここまでが真の勇者とされた人物の伝説ですが、筆者の注意を引いた事柄が
いくつかあります。 並べてみると、こんな按配になります。
<1> 日常において、父親との愛情交流は必ずしも正常に機能していなかった。
<2> 父親の言いつけを正しく理解できず、すっかり誤解した行動に走った。
<3> 相手と戦うことが分かっているのに、武器の携帯をウッカリ忘れた。


           「発達障害」の概念


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ところがある日のこと、筆者はひょっこり「発達障害」という言葉に遭遇したのです。
これまで何度か耳にしたような気もしましたが、その折はとんと無関心・無頓着で
スルーを続けていたために、詳しい内容は承知していません。


そこで今回の遭遇に際し、その「発達障害」についての説明にも触れてみることに
したのですが、すると、こんな説明になっています。
~発達期に明らかとなる脳機能不全に起因して発生する障害の総称であり、
 相応の支援が必要であって、それは一生涯続く~


しかも、一口に「発達障害」としているものの、その内容はさらに三つに細分化
されているようです。
ここまで求められるとすると、さすがに深入りし過ぎの感じがあって、正直鬱陶しい
気分にもなりますが、まあ運が悪かったと諦めて今日のところは腹をくくって
くださいね。


その「三つに細分化」とは、こんな具合になっています。
<A> 自閉症スペクトラム障害/ADS(英名:Autism Spectrum Disorder)
  →コミュニケーションの場面で、言葉や視線、表情、身振りなどを用いて
   相互的にやりとりをしたり、自分の気持ちを伝えたり、相手の気持ちを
   読み取ったりすることが苦手で、また特定のことに強い関心をもっていたり、
   こだわりが強かったりする。


<B> 学習障害/LD(英名:Learning Disabilities)
  →全般的な知的発達には問題がないのに、聞く、話す、読む、計算・推論する
   など特定の学習のみに困難が認められる状態。


 注意欠如・多動症/ADHD(英名:Attention deficit hyper activity disorder)
  →発達年齢に比べて落ち着きがない、待てない、注意が持続しにくい、
   作業にミスが多い(不注意)など。


そして、この伝説の勇者こと日本武尊の、上に挙げた<1>~<3>の言動と、
現代になって認識された「発達障害」の定義<A>~<C>を見比べてみて、
こんなことに気が付いたのです。
~<1>≒<A>、<2>≒、<3>≒
という具合にほぼほぼ合致しているので、つまり、日本武尊は現代で言う
「発達障害」にあったのではないか、ということです。


父・景行とは心の行き来にシックリしないものがあったことは、日本武尊だけの責任
では無いにしても、別の表現を借りるなら本人もまた「コミュニケーション下手」
だったことは間違いないでしょう。 ですから、<1>≒<A>です。


また、父・景行から言いつけられた「ねぎし」という言葉を聞いて、「諭す」とは
受け取らず、やにわに「処刑」に走ったことも、まさしく「言葉の意味の推論」
いう特定の学習面での、「困難が認められる状態」と言えそうな気がします。 
このこととて、<2>≒です。


また、荒々しい神と戦うために伊吹山へ足を運んだのに、その場に武器を持って
いかなかったことは、「注意が持続しにくく作業にミスが多い(不注意)」、という
症状にモロに該当しています。
つまり、<3>≒も認められそうということです。


かくして「勇者(日本武尊)の言動」は、「現代の(発達障害という)意識」
先取りした寓話、あるいは予言だったかもしれないと考えているのが昨今の筆者と
いうことになりそうです。


なにッ、筆者の話の運びが大袈裟過ぎるってか。
そういうことなら、筆者自身にも「発達障害」の傾向があるのかもしれません。
えぇ、~話す、推論するなど特定の学習のみに困難を抱える~と説明されている、
いわゆる「学習障害」(LD)の面ですねぇ。


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