パクリ編19/景勝や偉人その日本版
ネット徘徊していた折に、下の一文にひょいと目が留まりました。
~「日本アルプス」とは、そこから見える山脈及びその周辺含めて、本家アルプスに
似た風景を備えていたので、とあるイギリス人がこれを「日本のアルプス」と
紹介したのが、その名称の由来~ そんなこと、筆者は知らなんだゾ。
それで思い出したのですが、そういえば、筆者の生息地・愛知県には
「日本のデンマーク」と呼ばれる(呼ばれた?)安城市もあります。
これもまた、本家農業先進国・デンマークから拝借した愛称?ということのようです。
そういう運びであるならば、オリジナル「世界の偉人」をなぞった「日本の〇〇氏」と
いう表現もあるだろうと見当をつけ、再びのネット徘徊で最初に遭遇したのが
「日本のシェークスピア」でした。
蛇足ですが、日本では漢字の場合、「沙吉比亜」と記すそうです。
そのオリジナルのほうの劇作家ウィリアム・シェークスピア(1564―1616年)に
ついては、ざっとこんな案内になっています。
~イギリス・ルネッサンス演劇を代表する人物で、卓越した人間観察眼からなる
内面の心理描写により、もっとも優れた英文学の作家とも言われている。
ローマ史から取材した悲劇『ジュリアス・シーザー』(1599)の後、
『ハムレット』(1601)、『オセロ』(1604)、『リア王』(1605)、
『マクベス』(1606)と続いたいわゆる四大悲劇はこの時期に集中している~
これも蛇足になりますが、シェークスピアは江戸幕府の創立者である徳川家康
(1543-1616年)と同じ没年になっていて、このことが筆者にとっては、とんと
意外な事実でした。
というのは、家康よりシェークスピアの方がずっと若いと思い込んでいたからです。
ところが時系列を眺めてみると、シェークスピアが四代悲劇を発表した頃の日本は、
あの出雲阿国の目新しいかぶき踊りが大きな評判を呼び、演劇が大衆化の端緒に
ついた時期にあたっているのです。
演劇の成熟度と言う点でも、この時期の日本とイギリスでは大きな開きがあったと
いうことのようです。
ウィリアム・シェークスピア / 近松門左衛門
それはさておき、では「日本のシュークスピア」になぞらえられる、その人物とは?
それは、江戸前期の浄瑠璃・歌舞伎狂言作者であった近松門左衛門(1653〜1724年)
だと紹介されています。
ただ、その時代を比べてみると、近松自身はシェークスピアより90年ほども後世の
人物ということになります。
その近松門左衛門こんな紹介になっています。
~歌舞伎でもほぼ10年間、坂田藤十郎のために作品を書いて上方歌舞伎の基礎を
作った。 後にまた人形浄瑠璃に戻り、『曾根崎心中』(1703年)が大ヒット、
その他にも、『冥途の飛脚』(1711年)、『国姓爺合戦』(1715年)、
『心中天網島』(1720年)、『女殺油地獄』(1721年)など~
なるほど、両者にはその時代その国における最高峰の劇作家という共通点があった
わけです。
ただ、「日本のシェークスピア」という表現は言外に、
~(日本の)近松よりは(本家の)シェークスピアの方が上~というニュアンスが
漂っていることも事実です。
もし、逆の評価だったなら、おそらくはシェークスピアの方が
「イギリスの近松門左衛門」と言われただろうからです。
その意味では、「日本アルプス」も「日本のデンマーク」も、おそらくそこには、
~素晴らしいが、所詮、本家・本場のレベルよりは一段格下~
という判定があっての表現なのでしょう。
このほかには、「日本のダ・ヴィンチ」と評される人物もみつけました。
ちなみに、オリジナルの「ダ・ヴィンチ」とは勿論レオナルド・ダ・ヴィンチ
(1452-1519年)のことです。
~イタリア・ルネッサンス期の画家、彫刻家、また科学者、技術者、哲学者。
そのため、ルネサンスにおける典型的な「万能の人」と目されている~
そして、その「日本のダ・ヴィンチ」とされるのが平賀源内(1728-1780年)のようで、
そのプロフィールを覗いてみると、こうなっています。
~江戸時代の本草学者(ほんぞうがくしゃ)、戯作者 (げさくしゃ)。
高松藩主にみいだされ長崎に遊学、藩の薬園の仕事にも携わるようになったが、
江戸に出て、本格的に本草学を学んだ~
聞いたことがありませんが、その「本草学」って、いったい何のことですか?
調べてみるとこんな説明になっていました。
~中国の薬物学で、薬用とする植物、動物、鉱物につき、その形態、産地、効能などを
研究するもの。 薬用に用いるのは植物が中心で、本草という名称も「草を本とす」
ということに由来するという~
レオナルド・ダヴィンチ / 平賀源内
源内については、
~1757年、師と共に江戸で物産会を開き、以後6年間に物産会を5回開催~
これらの活躍が評価され、殖産興業、蘭癖の時流にのって多彩な活動を続けたと
されています。
耳慣れない言葉「物産会」(ぶっさんえ)については、こんな説明を見つけました。
~江戸時代後期に行われた自然物展示会~
さて、そうした勢いある活動のもと、源内はさらに、
~火浣布(かかんぷ/石綿などでつくった不燃布)を製作、また平線儀(水準儀)、
タルモメイトル(温度計)などの理化学的な奇器の製作で人々の目をひき、
紀伊・伊豆・秩父などでの薬物採集や鉱物などの物産調査など、幕府や高松藩の
殖産策に尽力した~
ところが、こうした学者・技術者としての活動だけではなかったのです。
~一方、談義本(小説の類)の世界に進み、よどんだ封建社会を風刺し、
新作浄瑠璃も上演(1770年)され、この面でも好評を得た。
やがて老中・田沼意次(1719-1788年)の知遇を得て二度目の長崎遊学をなし、
殖産興業(彼のいう国益)のための陶器や織物の考案、それに鉱山関係の事業と、
いっそう活動の場を広めていった~
こんな経緯があったようです。
~秋田藩は物産学者の平賀源内を江戸から招き(1773年)、領内の鉱山の技術改良と
産額増大を図った~
その折に、
~源内は銅山に赴く途中、絵の巧みな武士・小野田直武(1749-1780年)に出会い、
陰影法や透視遠近法などの知識を与え、西洋画法を研究するように勧め、直武は
源内から得た知識を、同じく絵の巧みな仲間に伝え、互いに協力して
新しい画法(秋田蘭画)の習得に着手した~
ちなみにその秋田蘭画とは、
~当時の言葉でオランダ絵、つまり洋風画を意味し、江戸時代後期に秋田地方で
興った洋風画派とその作品~
また出版面での活躍も伝わっています。
~とくに1762年の物産会には全国30余国から1300余点に上る展示物を集め、
盛況であった。 翌1763年に、源内はこの物産会の出品物のなかから重要なもの
360種を選んで分類、解説した著書(6巻)まで出版した~
ですから、その守備範囲の広さ、つまり「万能の人」ぶりはダ・ヴィンチに負けず
劣らずのものがあったようですが、ただ、両人の最期には決定的な違いがありました。
弟子に看取られて67歳の生涯を閉じたダ・ヴィンチに対して、源内はその晩年に
殺人を犯して獄中死(52歳)しているのです。
しかも、
~蘭学医・杉田玄白( 1733-1817年)らの手により葬儀が行われたが、幕府の許可が
下りず、墓碑もなく遺体もないままの葬儀となった~
このような悲劇もありましたから、平賀源内のことを「日本のダ・ヴィンチ」と
評することはあっても、逆にダ・ヴィンチのことを「イタリアの平賀源内」とは
言わないのは、ある意味当然なのかもしれませんねぇ。
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