ヤジ馬の日本史

日本の常識は世界の非常識?この国が体験してきたユニークな歴史《日本史》の不思議をヤジ馬しよう!

ライバル編12/地方王権バトルロイヤル

「しきりに多くの悪行をなさって・・・」との、あまり芳しからぬ評判が伝わる
第25代・武烈天皇とその皇后である春日娘子の夫妻は、ともに「生没年不詳」と
されており、早い話が活動された正確な時期までは分かっていません。


また、この天皇皇后の夫妻には子女がないこと、さらには、皇后の父母共に
その出自が未詳とされて、父が未詳という皇后はこの春日娘子が史上ただ一人という
ことです。


さて、その第25代・武烈天皇が崩御されました。 それって、いつのこと?
先ほど示した通り「生没年不詳」とされているのですから、よくわかりません。
しかしそういうことなら、その血縁者などから候補を立て、素早く皇位継承をする
ところでしょうが、武烈天皇には子女がいなかったために、それもスムーズには
運びませんでした。


そこで、朝廷は遅らばせながらではあったものの、次期天皇候補者選びに
取り組みました。
その結果、白羽の矢が立てられたのが、越前出身の男大迹(ヲホド/450?-531年?)
という名の人物でした。 後の第26代・継体天皇です。


大昔のこととは言え、天皇になるためには皇族であることが鉄則でしたが、
武烈前天皇は子女を残さなかったこともあって、この「男大迹」なる人物は、
武烈の直接の血筋者ではありませんでした。


だったら、なんで次期天皇の候補に挙げられたのか?
武烈前天皇の血縁者ではなかったものの、九代ほど前(第15代)の天皇である
「応神天皇の五世の孫」の血統にあったからです。


    第26代・継体天皇


えぇっ、その「五世の孫」って、いったいどのくらいの血縁になるの?
折角ですから、ちょっと確認してみましょう。
この場合は「応神天皇」を基準にして、つまり「零世」として物申すカタチに

なりますから、「一世」が応神天皇の子、ということになります。


以下、順繰りにカウントしていくと、
二世→孫/三世→曽孫/四世→玄孫(曽孫の子)/五世→来孫(曽孫の孫)。
ですから、この「男大迹」なる人物、つまり第26代継体天皇の身分はこうなります。
~第15代・応神天皇の曽孫の孫~
うっへぇ、贔屓目に見ても、「こりゃまた随分と薄い血縁だなあ」という印象は
避けられないところです。


そうすると、こうも考えたくなります。
「ホントに、もっと濃い(五世孫より近い)血縁者(天皇有資格者)はいなかった
のかしらん?」
だって、「応神天皇の五世の孫(曽孫の孫)」なのですよ。


普通に考えれば、なにも九代も前の応神天皇まで遡らなくたって、もっと近い
時代の天皇の、なおかつ五世孫まで行かずとも、もっと近い血縁者はいたように
思えます。


確かに、歴史は最終的に、この「男大迹」を武烈前天皇の正当な後継者である
第26代・継体天皇としていますが、しかし、あちらこちらの地方に「自称大王(天皇)」
が登場していたとしても不思議ではありません。
何しろ「五世の孫」ですら次期天皇に指名されたくらいですから。


しかも、即位したとき(507年?)の年齢が58歳とされています。
おそらく当時の感覚なら、現代の「後期高齢者(75歳以上)」に当たっていた
ことでしょう。


ですから、こんな見方もあるようです。
~その即位事情は極めて異常で,実は、前王統とは血縁関係がなく、その人格、
 資質により大王となったと考えられる~

こうした解説もありますが、実は筆者はこれとは意見を異にしています。


実は、筆者の独断と偏見は次第にこんな空想?妄想?に捉われていくのです。
~武烈天皇崩御後は各地域にもいくつかの王朝が並び立ったのではないか?~
なにせ、武烈前天皇は自分の血筋を残すことなく、きれいさっぱり崩御して
しまったのですから、地方の実力者にとって名乗りを上げることに遠慮は不要です。


それに「歴代天皇の五世の孫」でさえ有資格者ということなら、そんな程度の
「血縁関係」なら、そうした実力者たちならお茶の子サイサイで、なんとでも
工作できます。
えぇ、ですから、そうした地方王朝?について、筆者はこんな過激な空想をしている
わけです。


現に越前に「次期大王(天皇)」が登場したのであれば、たとえば飛騨にも美濃にも、
もちろん筆者の生息地・尾張にも、はたまた、備前や安芸や伊予にも、それぞれに
「次期大王(天皇)」、つまりその地方独自の王権が登場していたとしても、なんら
不思議なことではないという理屈です。


つまり、武烈前天皇の崩御後の国家状況は、プロレスで言うならあたかも
「バトルロイヤル」の様子を呈していたのではないか?
あぁ、この「バトルロイヤル」という言葉の説明が必要かもしれません。


プロレスに関心のない方には幾分分かりづらいかもしれませんが、こんな説明に
なっています。
~多数の対戦者が同時に戦うプロレスリングの試合方法の一つ。
 数人から十人前後のレスラーが全員一度にリングに上がって行なう勝ち抜き戦で、
 各対戦者にとって他の対戦者はすべて敵となる~


 

   プロレス・バトルロイヤル / 継体天皇とその皇后


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そのように、つまり当時の権力構造が「地方王権バトルロイヤル」状況にあったと
捉えると、下記の説明にも納得がいきます。
~継体天皇は即位から20年目(78歳)でようやく大和へ入る~


エッ、20年間も?
えぇ、なにせ各地方に王権が立ち、継体天皇の周りはみんな敵だらけという環境
なのですから、それほど奇異な経緯でもありません。
ですから、そうした「地方王権バトルロイヤル」に最終的な決着をつけるのには
20年もの時間が必要だったという解釈です。


しかし、また別の問題もありそうです。
継体天皇自身は「前王統とは血縁関係がない」という事実は、天皇家の憲法?で
ある「万世一系」に明確に違反しているのではないか?
実は、その点も微妙な形ではあるものの、クリアはしているようです。


こういうことです。
武烈前天皇には子女がいませんでしたし、また継体天皇自身も武烈の血統を受け
継いでいないわけですから、男系としての皇統はここで途絶えたことになります。
しかし、女系においてはうまく継承できたことになるのです。
何を面倒臭いことを言っているの?


実は、系図が確かな史実を表しているとするなら、こういう解釈になるのです。
~武烈前天皇の実姉(妹?/手白香皇女)が継体天皇の皇后となり、その間に
 生まれたのが、後の第29代・欽明天皇(509?-571年?)~


早い話が(ちっとも早くありませんが)、この第29代・欽明天皇は、第25代・
武烈天皇の「血縁ある実の甥っ子」ですから、「万世一系」は女系において、
キッチリ遵守されたということになるのです。
やれ、めでたし、めでたし。


しかし、そのことについて、さらに念を押しているのが「継体」という諡名で、
その意味はなんと、「国家の正当な後継者」なのです。
歴代天皇なら皆例外なく「国家の正統な後継者」であったはずなのに、それを
敢えて強調、主張しているのですから、なんとも意味深な諡名だとも言えなくは
ありません。


ひょっとしたら、朝廷自身が「応神天皇五世の孫」という血筋の薄い人物を皇位に
付けたことに幾分の引け目を感じて、敢えてこの諡名を採用したのかもしれません。


蛇足ですが、継体自身を含めたこの「地方王権バトルロイヤル」は、継体天皇即位の
22年後、つまり大和入りから数えれば2年後に筑紫で起きた「磐井の乱」(528年)を
最後として決着を見ます。
そして、その僅か四年後に継体天皇崩御。
ですから、なんとも波乱づくめの後半生だったことになりそうです。


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