ヤジ馬の日本史

日本の常識は世界の非常識?この国が体験してきたユニークな歴史《日本史》の不思議をヤジ馬しよう!

冗談?編22/先人の感覚は変体列島図から

現代人に「世界」というもののイメージを尋ねたら、多種多様な回答がある
のでしょうが、その中には、地球儀とか世界地図などを思い描くと答える人も
少なからずいそうです。
なぜそう言えるかといえば、平均的日本人として定評のある筆者自身がその通り

だからに他なりませぬ。


しかし、同じ問いを少し(随分?)昔の江戸時代の先人たちに投げかけたなら、
おそらくはこれとは違う答えが返ってくるのでしょう。
もちろん、中には桁外れの情報通やインテリもいたでしょうから、十把一絡げには
できないものの、まあ無責任に想像を膨らませるなら、当時のいわゆる「一般人」の
多くは、おそらくは現に自分たちが生活している国土の全体こそが「全世界」という
イメージだったのではないでしょうか。


もちろん、自分たちが住む土地が海に囲まれていることや、その海の向こうにも、
自分たちが見たこともない「異国」があることは知識として承知していたかも
しれませんが、しかしそれは実感が伴うものでは無かったと思われます。
なぜなら、その江戸時代とは、いわゆる「鎖国」政策を取ることで、一般人の異国を
肌で感じる機会を奪い、とことんの「一国平和主義」に徹していた時代だからです。


また、この江戸時代が始まった頃は、全国版地図としては浮世絵師・石川流宣
(生没年不詳)による、いわゆる「流宣図」(日本海山潮陸図/1691年)が
用いられていました。
つまり、この地図に描かれた「六十余州」こそが、当時の先人たちにとっての
「全世界」だったことになります。


もっとも江戸後期ともなれば、長久保赤水(1717-1801年)による「赤水図」
(改正日本輿地路程全図/1779年刊行)とか、あるいは伊能忠敬(1745-1818年)に
よる「伊能図」(大日本沿海輿地全図/1821年完成)など、かなり精緻な地図
(国土図)も登場しますが、ところが、それらが登場するまでの約90年にわたる
期間は、この「流宣図」が再版され続けていたようです。


   日本海山潮陸図

     石川流宣作/1691年


というマクラで、今回は江戸先人たちが抱いていたであろう地理的というか空間的と
いうか、要するにそれらもどきの感覚を想像してみることにしたのです。
ただ、筆者の急遽な思い付きで進めることですから、そこにはお遊び的な要素も
少なくありません。
そのため、特に性格が生真面目傾向にある方なぞは、どうか腹を立てないよう、
気長なお付き合いを予めお願いしておきます。


さて、江戸時代の日本における移動手段(交通手段)といえば、まあ基本的には
「徒歩」だけでした。
なぜなら、自動車が誕生したのは18世紀の1769年のこととされていますし、飛行機に
至っては、なんと20世紀に入った1903年のことだからです。


さらには、そのスピードやスタミナの面では人間の徒歩よりは遥かに優れている
はずの、割合身近な動物である馬を、江戸時代日本は交通手段として積極的に
採用することはなかったのです。 なんで?
どうやら、幕府が、馬に人を乗せる場合もその馬を人間が曳くようにとの規制を
かけていたようなのです。


そういうことなら、馬を疾走させて移動を急ぐことは、モロに法律違反となって
しまいます。
ですから、あの元禄赤穂事件(1701年)の折、浅野内匠頭刃傷を伝える赤穂藩の
使者も、使ったのは早馬ならぬ早駕籠で、江戸から赤穂までの全行程 620kmを
なんと4日半(108時間)で、命懸けの走破を果たしています。


ちなみに、普通の駕籠は前後二人で担ぎますが、これが早駕籠仕様の場合には、
こんな人員構成になったそうです。
~四人が担ぎ、その前後に押し引きの要員が一人づつの計六人で一チーム~


そこで筆者は、こんなことに拘ってしまったのです。
~六十余州を全世界と受け止めていた江戸時代の先人たちが、江戸から赤穂まで
 移動することの思いは、地球全体を全世界と受け止めている現代人の、一体

 どれほどの感覚に当てはまるのだろうかしらん?~
ややこしい言い回しでまことに恐縮なのですが、ちょっくらちょいでは頭から
離れないのが「拘り」という厄介ものなのです。


~そんなものは、人間の感覚の問題だから比較のしようもないぞ~
筆者の周りにいる常識人たちが口を揃えてこう言いました。
確かにその通りなのでしょう。
ところが、その中に一人の非常識人?が紛れ込んでいたらしく、こんなことを言い
放ったのです。
~そうした感覚がビジュアルで分かりやすい、ちょっとしたアイテムがあるゾ~


そんなものは一非常識人?による偏見に過ぎないのでは。
その程度にしか受け止められなかった筆者ですが、話の成り行きから、その
一非常識人?の意見に耳を傾けるハメに陥ってしまったのです。
そういえば、新聞の今日の運勢欄では、筆者の干支は「思わぬ災難あり」とされて
いましたっけ。


しかし、ここまで来たらもうジタバタもできませんから、腹をくくらなくては
なりませぬ。
そして、その一非常識人?の説明はこんな具合だったのです。
~江戸時代の「流宣図」も、その後の「赤水図」も「伊能図」も、はたまた現在
 使われている精緻窮まる日本地図でも、そうした先人たちの感覚については
 とんと分かるものではないが、ところがダ、この地図を眺めるなら、

 それが一目瞭然なのだ~


さらに、そこで示されたのが下の図でした。
えぇ、どんな名称なのかは、その一非常識人?当人も承知していませんでしたが、
一般的な世界地図に描かれた大陸や島々を、自由にまるで日本列島の地形に
配置換えした、いわば「変体列島図」?だったのです。
念のためですが、「変体」であって「変態」ではありません。


 世界の陸地がマンモス日本列島に変身 <変体列島図>?


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そして、その一非常識人?は一言。
~さっきも言った通り、江戸先人たちにとっての江戸から赤穂までの移動が、
 現代人にとってはどのくらいの感覚になるかは、この地図が示している!~

そして、この「変体列島図」における、赤穂に当たる位置を探し始めたのです。


~えぇとだな、ざっくりヨーロッパのイタリアあたりの位置になるなぁ。
 と言うことはダ、と意地の赤穂藩使者の地理感覚は、現代人がほぼほぼイタリア

 まで行ったくらいの感覚になる、ということだ~
何かしら胡散臭い説明にも感じられましたが、しかしちょいとばかり面白くも
感じたので、その場ではそれ以上のツッコミは止めておきました。


しかし、必ずしも緻密ではないにせよ、この「変体列島図」を利用することで、
当時の江戸先人たちの行動感覚を現代人のそれに焼き直してみることもできそうな
気がしてきました。
そこで、ちょいと江戸時代当時の人気旅行だった「伊勢参り」(お蔭参り)で
試してみました。


江戸時代には、以下の前後三度の「伊勢参り」フィーバーがあったとされています。
① 1705年/②1771年/③1830年
この内でも最も多くの参拝者が訪れたのが1830年だったようです。


その参拝者数は500万人前後と推定され、仮に当時の日本人口が約3,000万人と
仮定すると、なんと国民約6人に1人が参拝したことになるそうで、こんな説明も
加わっています。


~江戸からは片道15日間、大坂からでも5日間、名古屋からでも3日間、
 東北地方からも九州からも参宮者は歩いて参拝した~

当時は原則徒歩以外には交通手段がないのですから、最後部分は屋上屋の説明ですが。


それはさておき、折角ですから江戸先人たちの「伊勢参り」を上の「変体列島図」に
落としてみると、現代人なら、東京からインドの東端地域あたりまで足を運んだ
感覚に近いものになりそうです。


ちなみに、筆者の生息地・尾張(愛知県)から「伊勢参り」をする場合だと、
伊勢国の東隣が尾張国ですから、「変体列島図」でもインドの東端地域の
すぐ東隣、そう、バンクラデシュあたりということになりそうですから、やっぱり
近くてさほどの矛盾は感じられません。


そこで、1803年の「伊勢参り」ブームを現代感覚に調整してみると、
~現代日本人の約6人に1人が、インド東端地域まで参拝しに行った~
ことになるわけです。
あっちゃー、ホントに凄いったらありゃしない。


そうした先人たちの感覚を推し量れそうという面では、一非常識人?が指摘して
いるように、この「変体列島図」は、案外便利なアイテムということなのかも
しれませぬ。



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