ヤジ馬の日本史

日本の常識は世界の非常識?この国が体験してきたユニークな歴史《日本史》の不思議をヤジ馬しよう!

言葉編36/東西南北は歴史を飾る

方向方角を示す場合、一般的には「東西南北」を基準にするようです。
まあ、少なくともチョイ前まではそうだった気がします。
ところが、話は多少逸れますが、筆者なぞは実際にこんな光景を目撃したことが
ありましたから、最近ではそうでもないのかもしれません。


それは、どうやら待ち合わせの場所に一足早く到着したのであろうと思われる若者の
行動でした。 携帯していたスマホが鳴り、彼はそれに出ます。
話の内容は、待ち合わせ相手も既にすぐ近くまで到着したとのことようで、あとは
相手を見つけて合流するだけの様子です。


ところが、その若者は電話の相手に対し、こんな尋ね方をしたのです。
いいえ、聞き耳を立てていたわけではありませんが、その若者の大きな身振りもあった
せいか、聞くともなく聞こえてしまったんですねぇ、これが。
~お前はどっちから来るのだ? 右からか、左からか?~


尋ねた本人が、自分の身体の向きがしっかり一定方向を保っているならともかく、
相手を探しているせいか、本人自身はアチコチ向きを変えているのに、です。
思わず筆者は、こんなツッコミを入れてしまったものです。


~自分の身体の向きがクルクル変わっているのに、相手に右から来るのか、左から
 来るのかなんて質問は、バッカじゃなかろか。
 ここはやっぱり、固定された方角(東西南北)を問うべきだろう~

いえね、実際に声に出したわけではなく、もちろん筆者の心の声だったのですが。


 関西 / 関東


で、少しばかり強引なマクラになってしまいましたが、今回はその「東西南北」に
関連した話題としたわけです。
そのように方角を示す文字を含んだ用語では「関東/関西」という言葉を割合よく耳に

します。
一般のニュースでももちろんのこと、天気予報の場合などにもよく登場しています。


では、この「関東/関西」って、どこがその境界線なの?
実はそれを意識することはそんなに多くありません。
筆者自身もその通りで、大方の場合は関東=東京近辺、関西=大阪近辺、そのくらいの
非常に大雑把な捉え方で済ませています。


でもそれに決まりがあるものなら、非常に身近な話題でもあるので、ちょっと知って
みたい気分もしないではありません。
そこで、その説明をちょっとばかり探してみることにしたのです。


すると、
~「関」とは関所のことで、つまり関東は関所の東の地域、関西は関所の西の地域~
えぇッ、そんならその「関所」ってどこのことなの?


それについては、こんな説明です。
~平安時代は、「不破の関所」(岐阜県)、「鈴鹿の関所」(三重県)、
 「愛発の関所」(福井県)より東を「関東」としていた~

するっていと、筆者のような尾張人は「関東民族」だったことになりそうだ。


ところが、こんな説明も見つけてしまったのです。
~江戸時代の頃には、「箱根の関所」(神奈川と静岡の県境)、「小仏の関所」
 (神奈川と東京と山梨の県境)、「碓氷の関所」(群馬と長野の県境)の、
 各関所から見て東側にある地域を「関東」と呼ぶようになった~
つまり、歴史的には、「関東」に該当するエリアに、必ずしも厳密に固定された
境界線があったということでもないようで、言うならば筆者並みの大雑把加減です。


さてまた、「東軍/西軍」という用語も歴史にはよく登場している印象です。
その代表が、天下人・豊臣秀吉(1537-1598年)の死後の覇権を巡っての武力衝突、
いわゆる「関ケ原の戦い」(1600年)で、普通にはこんな程度の説明になっています。


~1600年(慶長5)9月、徳川家康(1543-1616年)の率いる「東軍」と、石田三成
 (1560-1600年)を中心とする「西軍」によって、美濃国関ケ原(岐阜県)
 行われた「天下分け目」の戦い~
えぇ、ここでは家康方を「東軍」、三成方を「西軍」と呼んでいますが、なんとなく
しっくりこない印象もあります。


そこで、ちょっと深追いしてみたところ、こんな説明に遭遇したのです。
~明治26年(1893)、当時の陸軍参謀本部の編纂によって、『日本戦史・関原役』と
 いう書物が刊行され、このなかで「東軍/西軍」という用語が使われた~


しかし、当時の意識からすれば、これはちょいとばかり違和感のある用語だとされて
いるのです。
~このような区分がなぜ採用されたのか判然としないが、おおむね東軍には
 徳川家康を中心とする東国大名が多く、西軍には毛利輝元・石田三成を中心と
 する西国大名が多かったからであろう~


筆者としては、イマイチ釈然としない気分も残るのですが、
~陸軍参謀本部が純粋な戦史研究として戦況分析をする場合、東軍・西軍という
 区分はわかりやすくて便利だったのかもしれない~
そう説明されれば引き下がるほかありません。


 

「応仁の乱」西軍勢力・東軍勢力 / 南北朝時代


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ということなら、「応仁の乱」(1467-1477年)における東軍・西軍もそういうこと
だったのかしらん。
すると、
細川勝元(1430-1473年)率いる「東軍」と、山名宗全(1404-1473年)率いる
 「西軍」が、現在の堀川通と小川通の周辺を境に対立した~


そして、この乱の折の経緯から、後に「西陣」(京都府京都市上京区から北区に
わたる地域)という名称も生まれています。
~「西陣」の名は、応仁の乱の際に西軍総大将である山名宗全らが、堀川よりも西の
 この土地に陣を構えたことに由来する~

そして、
~乱後には各地に離散していた織物職人が、その「西陣」の地に戻り、「西陣織」と
 呼ばれる織物を生産するようになった~


では、この際の「東陣」はどうだったの?
~一方、絹織物の一種である練貫の座の人々は、東陣の跡地に居を構え、白羽二重を
 生産するようになった~
ただ、残念ながら、「西陣織」に対抗する形での「東陣織」は残りませんでした。


こうした「東西」ばかりではなく、歴史には「南北」が付く用語も登場しています。
その代表的な例が「南北朝時代」かもしれません。
~皇統が南朝と北朝に分裂抗争した1336 年から、両朝が合一した1392年までの
 57年間をいう。
 (これに先行する「建武新政」(1333-1336年)の3年間を含める場合もある)~


じゃあ、その「南朝・北朝」って、一体全体どんなものなの?
ちょいとばかり、鬱陶しい感じが避けられませんが、ざっとこんな説明になる
のでしょうか?
~鎌倉幕府滅亡(1333年)後の、後醍醐天皇による親政は武士階級の反感を買い,
 衆望を集めた
足利尊氏は武家政権「室町幕府」を樹立(1336年)し、また
 朝敵の汚名を避けるため、
光明天皇を立てて後醍醐天皇に対抗した~


「万世一系」であるはずの皇統が分かれてしまい、この時期には二つの朝廷が
存在していたということです。
それで、吉野を本拠とした後醍醐天皇の皇統を「南朝」とし、京に張り付いた
光明天皇の側を「北朝」としました。
その「南北」の判定は、上の地図を参照していただければ一目瞭然です。


さて「南北」といえば、人名では歌舞伎狂言作者の鶴屋南北(4世/1755-1829年)
があります。
~歴代5代の「南北」のなかでもその業績が突出しているため、この四代目の
 ことを特に「大南北」(おおなんぼく)ともいう~


そして、
~その作風は、文化文政期(1804-1830年)の退廃した世相を反映した
 凄惨な殺しと濡れ場を魅力とするが、本領はおかしみの茶番にある~

詳しくは存知ませぬが、作品によく棺桶が登場するのが特色で、同時代の人から
「棺を持ちいたる狂言を見れば作者は南北なり」と書かれるほどだったそうです。
そういえば、『東海度四谷怪談』も、この「南北」により世に出されました。


また芝居と言えば、見物人を静めたり口上を述べたりする時の決まり文句に
「東西東西」がありますが、この『東海度四谷怪談』を上演する際には、
これを「南北南北」と言ったそうです。
ええ、でも、真に受けないでくださいね。
こんなもんは、駄ボラ好きの筆者のただの言葉遊びに過ぎませんからね。


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