ヤジ馬の日本史

日本の常識は世界の非常識?この国が体験してきたユニークな歴史《日本史》の不思議をヤジ馬しよう!

発明発見編29/何物も使った分だけ減っていく

<お知らせ>2022・11・05(土)
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昔の人は、好むと好まざるにかかわらず、それを大切に使わざるを得ない
生活を営んでいました。
身近なところなら、味噌醤油などの食料品を初めとして、衣服や布団などの
生活用品、あるいは鍬鋤や荷車などの道具類、これらはすべてが例外なく
大切に扱われ、そして使われました。


~しかし、なんでまた、モノをそんなに大切に使ったの?~
「使い捨て」も珍しくないライフスタイルを味わっている現代人には、
いささか分かりにくい感覚かもしれませんが、こう受け止めていたからです。
~(モノは)使った分だけ確実に減っていく~


たとえば、味噌醤油などの食料品については、その減り具合によって、
ビジュアルに理解できます。
また、生活用品や道具類についても、使った分だけ確実に摩耗や劣化などが
進んでいくことを経験的に承知していました。


そうした生活を営んでいた昔の人にこんな信仰?が生まれたとしても、
それほど不思議なことではありません。
~何物も長持ちさせるためには、それを「使わない」ことが最も有効な方法である~


その延長線上で、昔の人はこうも考えたようです。
~身体を使うことは、すなわち寿命をすり減らすことで、長生きのためには
 芳しいことではない~


  楠木正成


えぇ、どうやらこうした感覚を昔の人は確かに持っていたように感じられます。
さほどに
「運動」を重視していたように見えないからです。
ただ、この印象には、こんな反論めいた指摘も予想されます。


~日頃から結構キツい肉体労働(農作業)に励む農民などについては、
 そのこと自体が「運動」になっていたと考えられるし、武士についても、
 武道の稽古・練習をすることが「運動」になっていたので、その上にわざわざ
 「運動」に取り組む必要はなかったのだ~


えぇしかし、口答えをするわけではありませんが、筆者はこう考えるのです。
~農民が身体を動かすのは生活のためであり、武士が稽古・練習に励むのは
 身体の鍛錬のためというよりは、むしろ「技の習得・上達」のためであり、
 両者ともに、そこに「身体の鍛錬」という概念は持ってはいなかった~


ところがギッチョン、驚くことに、歴史はこんなことも伝えているのです。
鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将・楠木正成(1294-1336年)が
「千早城の戦い」(1336年)において籠城したときのエピソードです。


その千早城の周囲2キロほどをコースとして、部下たちに10~15周の競走を
させ、しかも成績優良者には賞品まで出していた。
「尽度廻り」といったそうですが、これは明らかに「基礎体力向上」を目的
とした鍛錬だったと考えられます。
ということは、当時としては常識を突き抜けた発想だったことになりそうです。


しかしまあ、この時の戦いにおいては、弓を射掛けるなどの通常的戦闘だけで
なく、投石や落石をしかけたり、あるいは敵兵に熱湯を浴びせたり、挙句の果て
には、その頭を目掛けて糞尿を撒き散らすなど、なんでもありの尋常でない
戦いぶりまで実行した天才武将・楠木正成のアイデアであったとするなら、
それほど驚く必要もないのかもしれません。


しかし、こんな早い時代に「基礎体力向上」を目的とした運動が登場していたと
するなら、その後はなぜそれが広まっていかなかったのか。
おそらくは理由は簡単で、要はその楠木正成当人が負けちゃったからでしょう。
言い換えれば、~敗軍の将の薄っぺらな思い付きなんかマネできるかっ!~
という、当時としては、まあ至極妥当な気分だったのかもしれません。


さて、「走りっこ」(ランニング)という言葉で今ひょっこり思い出しましたが、
鹿児島県には「妙円寺詣り」という行事があるそうです。


もともとは、天下分け目の「関ケ原の合戦」(1600年)において、西軍側に
ついた薩摩・島津義弘(1535-1619年)が、本人の意に沿わない不本意な扱いを
受けたことですっかりヘソを曲げてしまい、戦場においてはとんと動かず、しかも
撤退の際に至っては敵の反対側ではなくわざわざ敵中突破したという、いわゆる
「島津の退き口」という出来事にありました。


        

島津の退き口(関ケ原の戦い)/ 徳川家康(趣味・鷹狩り)


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その先人たちの壮絶な行動を忘れないための心掛けという意味から、甲冑に身を
固めた鹿児島城下の武士たちが、鹿児島城下から妙円寺(伊集院郷徳重村)までの
往復40キロの距離を夜を徹して歩きぬいて参拝するものでした。
40キロを歩くというのですから、仮に時速8キロとして、暗算が間違っていなかった

ら楽に5時間はかかります。


関ヶ原における先人の壮絶な体験を見習って、平和な時にあっても、その心構え
だけは忘れずにおこうとする、気分的には「リメンバー関ケ原ッ!」もどきの
高揚感をみなぎらせたものでした。


とはいうものの、この「妙円寺詣り」も、そのこと自体は確かに身体の鍛錬になる
ことは間違いないのですが、真の目的はそれではなく、むしろ壮絶な「島津の退き口」
を実行した先人たちの行動を称える、いわば顕彰行為にあったような気がするのです。 


なぜ?
~身体を使う(この場合は酷使する)ことは、すなわち寿命をすり減らすことで、
 長生きのためには芳しいことではない~

当時の人たちは、こう考えていたはずだからです。


そうした意識は上流社会の人間ほど強く持っていたのかもしれません。
たとえば、お国は違うものの、昔の中国の貴人などは、自らの身体を極力動かさない
ことがステータスとされていました。
えぇ、自分が座る椅子ひとつも自らが手を出すことはしなかったのです。


そんなことは身分卑しい者がすることで、他者にやらせることが貴人の務めなのです。
これなども、「身体を動かした分だけ残りの寿命が減っていく」という感覚が
あってのことでしょう。
つまり、身分卑し者どもの寿命はどうでもよいが、貴人たる私の寿命を縮めることは
メッチャ道理に合わないということなのかもしれません。


そういえば、日本でも国家のトップであった徳川将軍などは、日常雑事にはその
係の者が付いていたようです。
日に何度かの着替えなども、ほとんどは担当の女中の仕事で、将軍自身は、
マネキン人形の如く突っ立っているだけ。
上流社会の人間は、自分の身体を使ってやっては「はしたない」のです。


着替えだけならまだしも、トイレの用を足したあとお尻を拭くのも、係の者の
任務だったようですから、身分高き将軍たちは「自分の身体は使わない」ことを
徹底していたように見えます。


そりゃあ、建前上は軍事政権の最高司令官ということになりますから、確かに
弓や剣の稽古にも励んだのでしょうが、これも先と同様に、
~「技の習得・上達」が主たる目的であり、「身体の鍛錬」にはしたくなかった~
こんな気分だったような気がします。
その分、寿命が減るのは辛いですからねぇ。


ところが、同じ徳川将軍でも、初代・徳川家康(1543-1616年)は子孫の将軍たち
とはひと味違う姿を見せているのです。
食べ物に気を配っただけでなく、薬の調剤なども自分で行ったといわれる、この
「健康オタク」は、身体を酷使する「鷹狩り」がメッチャ好きでした、


ちなみに、その「鷹狩り」とは、こんな説明になっています。
~飼いならした鷹を山野に放って行う狩猟の一種で、タカ科のイヌワシ、オオタカ、
 ハイタカ、およびハヤブサ科のハヤブサ等を訓練し、鳥類や哺乳類(兎・狼・狐など)
 を捕らえさせ、餌とすりかえる~


弓などで「「鷹を狩る」のではなく、「鷹で(獲物を)狩る」という意味ですから
ご留意ください。
蛇足ですが、「ネズミ捕り」というと、こちらは「ネズミで獲物を捕る」のではなく、
「ネズミ(そのものを)捕獲する」ことですから日本語は難しい。


その「鷹狩り」を家康は生涯で千回以上行ったそうです。
単純計算しても1,000÷73で一年あたり14回近く、赤ん坊時代や人質の頃、はたまた
戦の時期などを外して計算するなら、もっともっと頻繁に行っていたことになります。


では家康は獲物取りが面白くて「鷹狩り」を繰り返していたのかというと、そこが
「健康オタク」の真骨頂で、こんな言葉を残しているのです。


~鷹狩はレジャーのためだけではないのだ。
 山野を走り身体を使うことは、戦にもメッチャ役立つのだぞ~

そう、ひょっとしたら、「身体の鍛錬」の意義を初めて認めた日本人こそは、
実はこの徳川家康だったかもしれません。


天才武将・楠木正成もおそらくは経験からそのことには気が付いていたのでしょうが、
家康のように言葉に残すまでの寿命はありませんでした。
いえね、こちらは体を使かったために早く寿命がきてしまったということではなく、
「湊川の戦い」(1336年)に敗北し、弟の正季と刺し違えて最期を遂げたものですがね。



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