地元編01/灯台下暗しの悪七兵衛
今までそのすぐ目の前を割合よく往き来していたのに、これまでとんと無関心で
無頓着にやり過ごしていた場所が、なんと「史跡」とされていることを知って
ちょいとばかり驚いた次第です。
~へぇ、こんな狭っ苦しい場所が史跡だってか~
さて、その場所は、国道一号線を跨いで熱田神宮の南西に位置した、その距離も
セカセカ歩いて五分ほどのごく近いところで、そこには「景清社」との
標札(名古屋市教育委員会)も立てられています。
ざっと眺めた感じでは、その場所は道路に面した間口が6Mちょっとくらい?で、
奥行きはざっとその2倍?ほど。
その数字で計算するなら、面積はざっと90M2?程度の広さになるのでしょうか。
要するに、メッチャ地味で狭小な場所ということです。
そういうことから、目を留めるのは、まあ、せいぜい町内の人か、あるいは
よほど関心を持つ人に限られるように思われます。
現に、地元生息者の一人である筆者ですら、長い間とんとシカト状態だったわけ
ですからねぇ。
ところが、ひょんなことからこの「景清社」にチョロッとした関わりめいたことが
できて、早い話が「まったく知りません」ではいささか拙い、という状況に
はまり込んでしまったわけです。
そこで、シブシブながらも少しは探偵をしてみることに。
そこで、まずは推理の第一歩。
~「景清社」とされている以上、祀られているのは「〇〇景清」なる人物であろう~
そりゃあ、そうでしょう。
この「景清社」に祀られているのが、郷土の人物とはいえ加藤清正ということでは
さすがに成り行きが拙いですものね。
では、その「景清」って?
現場の標札には「藤原景清」と記されています。
聞いたことのない名前だなあ。
そこで、まずWikipediaに走ってみたところ、こんな人物像が紹介されていました。
~藤原景清(生年不詳-1196年?)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の武士。
(中略)平家に仕えて戦い、都落ちに従ったため俗に平姓で平景清とも呼ばれた~
続いて、こんな紹介も。
~「悪七兵衛」(あくしちびょうえ)の異名を持つほど勇猛であった~
要するに、いわゆる源平の時代に平家側に立って敗れた人物ということのようです。
そこで、筆者などはつい考えてしまいます。
~異名がなんと「悪七兵衛」ってか。 だったら景清のどこが「悪」だったのだろう?~
「顔」が悪かったのか? 「頭」が悪かったのか?
それとも「性格」が悪かった、ということなのかしらん?
なんのことはない。 これもきちんと説明されています。
~「悪七兵衛」の「悪」は悪人という意味ではなく、「悪党」と同様に勇猛さを
指すものとされる~
そこで、ひょっこり思い出したことがありました。
~そう言えば、日本史上屈指の忠臣として名高い楠木正成も、
確かその「悪党」と呼ばれた人物だったはずだゾ~
えぇ、こうなると念のためにその「悪党」にも寄り道する必要がありそうです。
~楠木正成(1294?-1336年)鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将。
元弘の乱(1331 - 1333年)で後醍醐天皇を奉じ、千早城の戦いで大規模な
幕軍を千早城に引きつけて日本全土で反乱を誘発させることによって、
鎌倉幕府打倒に貢献した~
このような、大功労者がなんで「悪党」なのだ?
ところがギッチョン。
~(「悪党」の)この意味における「悪」とは、命令や規則に従わないもの」に
対する価値評価を指す。
なお、この場合、悪人やならず者というニュアンスは伴わず、社会の上流階級で
あっても悪党に含まれ得る~
要するに、犯罪者とか不道徳者というような、現代人がイメージする「悪党」とは
ひと味違うということのようです。
ですから、景清の異名「悪七兵衛」も、決して「顔が悪い/頭が悪い/性格が悪い」
というものではなく、今風に言うなら、「勇猛な奴/スゲェ奴」ほどの意味合いに
なるのでしょう。
それはいいとしても、~平家に仕えて戦い、都落ちに従った~とされています。
そこで、併せてそこらへんも探ってみると、
~壇ノ浦の戦いは、平安時代の末期の1185年に、長門国赤間関壇ノ浦
(現在の山口県下関市)で行われた戦闘。
栄華を誇った平家が滅亡に至った治承・寿永の乱の最後の戦いである~
藤原景清 / 歌舞伎「景清」
そして、景清の没年を再度確認してみると、「?マーク」付きながらも「1196年」と
されています。
それからすれば、要するに、自らが加わった平家が滅亡してしまった後も十年ほどは
まだ生き延びていたことになるわけです。
そして、その十年ほどの間は「落ち武者/落人(おちうど)」ほどの立場にあった
ことになりそうです。
平家に味方した武将を、勝者である源氏側がそのまま黙って放っておいたとは
考えにくいからです。
ということは、平家滅亡後の景清は、今風の言い方なら「全国指名手配」もどきの
立場になっていたことにもなりそうです。
ええ、一種の「逃亡者」というわけですね。
さあ、そういうことなら、少しでも見つかりにくいところへ身を隠さなくては
なりません。 見つかれば、まず間違いなく殺されてしまうだろうからです。
ところが、非常にぼかした言い方にはなっているものの、地元の専らの見解では
~平家滅亡後、縁あって熱田の地に隠れ住んだ~とされているのです。
だからこそ、その景清を祀る「景清社」がこの地にあるということなのでしょうが、
しかし、ちょっと待て。
そうした切迫した状況下にある景清が、熱田神宮のように多くの人々が行き交う
土地に身を置いていたなんて、いかにも変ではないか。
なぜなら、それでは「隠れ住む」ことにはならないからです。
もっとも、「木を隠すなら森の中」という逆説的な言葉があるように、
「人間が隠れるのなら人混みの中」の方が却って見つかりにくいと考えたのかも
しれません。
そういうことなら、多くの人が参拝に訪れるこの熱田神宮の、すぐ足元のこの地は、
ある種の盲点とも言え、ある意味で絶好の隠れ地だったかもしれません。
言葉にするなら、いわゆる「灯台下暗し」です。
という経緯をオチとして締めくくろうと思っていたのですが、不幸なことに
ここに至ってこんな文言を見つけてしまったのです。
~実在したとはいえ、生涯に謎の多い人物であるため、各地に様々な伝説が
残されている~
えっ、「各地」ってなんのこっちゃ?
この「熱田」もその「各地」の一つに過ぎないって、言っているのかぁ!
あぁ、不幸にもその通りのようです。
それが証拠に、「各地の景清伝説」との項目には、北は新潟県から南は鹿児島県まで、
総数30以上の」伝説地」が一覧になっています。
もちろん、その中には今取り上げている熱田の「景清社」も、バッチリ仲間入りは
しているのですが。
「謎多き実在人物」は、史実がハッキリしていないぶん物語にしやすいということも
あるのか、筆者はそうした知識を備えていませんでしたが、この藤原景清の名を冠した
「景清物」という言葉さえあるようです。
~古典芸能において、「景清」または「何某誰々実ハ景清」が登場する作品を、
一括して景清物(かげきよもの)と呼ぶ~
歌舞伎ファンなどにとっては常識なのかもしれません。
その意味では、結構な「有名人」ということになりそうですが、筆者はこれまで
てんで知りませなんだ。
ですから、今度は筆者にとっての「灯台下暗し」だったことにもなりそうです。
ということも重なって、今回のタイトルを「灯台下暗しの悪七兵衛」にした次第です。
へえ、お粗末様。
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