ヤジ馬の日本史

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列伝編21/サムライ魂の幕末的風景

アメリカ・ペリー艦隊による、いわゆる「黒船来航」(1853年)から徳川幕府が政権
朝廷に委譲するにいたった、いわゆる「大政奉還」(1867年)までくらいの間を、
一般的には「幕末」と表現することが多いようですが、国家の歴史としてもこの間が
非常に特異な時期であったことは間違いないでしょう。


なにせ、それまで200年以上にわたって国家の基本政策としてきた「鎖国」を断念する
ことになったのですから、それだけでも大層な変わりようと言えます。
そうした劇的変化の影響が多方面にも及ぶことは当然で、たとえば政治面でいうなら、
「外交」もその例外ではありません。


武装「黒船」艦隊を引き連れた相手が「開国」を迫っているのですから、これまでの
ようなノラリクラリの姿勢を続けるわけにはいきません。
しかし、そうしたシビアな外交というものに経験の浅い幕府は、従来通りの方針以外に


有効な手立てを見出すことができませんでした。
そんな姑息な方法が続けられるはずもなく、結局のところ幕府は「チェンジ」する
ことを余儀なくされたのです。
 

   黒船来航


そうした「チェンジ」は外交のみならず、当然のこと、内政にも及びます。
そうしたことのきっかけの一つが、いわゆる
「文久三年八月十八日の政変」(1862年)
だったかもしれません。
それまで会津藩・薩摩藩との協同体勢で御所の警護に当たっていた長州藩がいきなり

そこから外された事件です。


幕府が従来通りに存続することを希望する第121代・孝明天皇が、自らに真摯に
接する会津藩に深い信頼を寄せていただけでなく、逆に何かにつけ幕府に突っかかる
長州藩に対して、少なからぬ嫌悪感を抱いていたことも影響したのかもしれません。
これ以降、幕府と長州藩の対立は次第に根深いものになっていきました。


その上に、その孝明天皇に拝謁するために幕府第14代将軍・徳川家茂が上洛(1863年)
するという出来事もありました。
なにせ、徳川将軍の上洛は第3代・家光以来、約230年ぶりのことですから、これも
内政の「大チェンジ」にほかなりません。


さて、そうなると上洛の道中の安全確保、つまり「将軍護衛」が大きな課題になって
きます。
なにせ平穏な時勢ではないので、テロリストの襲撃など不測の事態に対する警戒も怠る
わけにはいきません。


ところが、幕府に対してそうした指摘をした浪士が、ことのついでにその役目も
買って出たのです。
しかし、それまでであれば、そうした提案に対して幕府はこう答えたはずです。
~浪士の分際で何をたわけたことを申すかッ! 
 幕府にはもとより将軍をお守りする「旗本八万騎」がおるッ!~


ところが、こうは言わなかったのが幕末の史実なのです。
「なるほど、その提言はもっともである」ということで、なんと将軍警護のための
浪士隊が組織されました。
裏を返せば、この旗本八万騎だけではなく、この頃の武士全体が
「なまくら(鈍/だらしない)」状態にあったということになります。


無理もありません。
戦国時代は武装して戦に出ることで、自らの存在意義を示していた武士も永く平和が
続いた江戸期にあっては、すっかり官僚化していたのです。
つまり、その手に持つものも槍・刀から、筆・算盤とすっかり代わっていたという
ことですから、当然ながらテロリストから将軍を守るノウハウなんてものも持ち合わせ
るはずもありません。


そんな経緯から誕生した浪士隊の連中から、幾分の紆余曲折を経て組織されたのが
「新選組」(1863年)でした。
えぇ、近藤勇(1834-1868年)や土方歳三(1835-1869年)などがカッコよく指揮を
執る姿が、現在でもドラマなどでよく取り上げられるあの「新選組です。


同様に幕府の配下にあった「京都見廻組」が旗本や御家人などの幕臣によって構成
された正規組織であったのに対して、こちらの「新選組」はその多くが町人や
農民出身の浪士によって構成されたもので、しかも「会津藩預かり」という
非正規組織であったことが大きな違いでした。


ですから、正式な名乗りはとなると、このくらいにはなりそうです。
~京都守護職会津藩主松平容保御預新選組~
ただ、名刺の肩書としてはいささか長すぎて不向きだったかもしれません。


それはともかく、前身である「壬生浪士組」24名から発足したこの「新選組」は
最盛時には隊員数200名を超えたとされています。
主な役目は京都においての攘夷派の弾圧でしたが、商家から強引に資金を提供
させたりなど、いささか横道にも踏み込んでいたようです。


 

 「新選組」近藤勇・土方歳三 / 長州藩・来島又兵衛


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少し皮肉な言い方になるのかもしれませんが、それよりなりよりこの「新選組」が
最も熱心に取り組んだのは、隊の規則違反者を次々に粛清することでした。
本来なら、そうしたパワーは外に向けて発揮するべきなのに、それが内部に
向けられ、そして大方の場合、その罪状は
「士道不覚悟」でした。


平たくいえば、武士としての矜持・心構えが欠如・不足していることを理由に
糾弾・粛清したということです。
~でも「次々に粛清」って、いったいどのくらいの人数なの?~
30人を下らない人数で、wikipediaにも「新選組隊内において粛清された隊士」
という項目が設けられているほどです。


なぜ、そこまで「士道」に拘ったのか?
元町人や元農民だった者が「武士」になった「新選組」には、元から武士という
存在に対して一種のコンプレックスめいた感情があったのかもしれません。
そのために、必要以上に肩肘張った「武士感」に染まっていったということも
できそうです。


さて、結成の翌年のこと、その新選組は、御所に向けて幕府に対する反乱を起こした
長州藩士の鎮圧にも出動しました。 「禁門の変」(1864年/元治元年)です。
ちなみに、この変は「蛤御門の変」とか、元号から「元治の変」とも呼ばれますが、
門自体の本来の正式名称は「新在家御門(しんざいけごもん)」となるそうですから、
ちょっとばかり話がややこしい。


そこらあたりの経緯を少し遡ってみると、こんな按配になっています。
前にも挙げた「文久三年八月十八日の政変」(1862年)以来、薩摩藩に京都を追われた
長州藩は失脚した状況にあり、それに対する一発大逆転を狙って起こしたのが、
この「禁門の変」でした。


この際に出動した新選組も、前にも述べた通りの肩肘張った「武士感」に染まって
いましたが、ここで激突した相手・長州藩兵の中にもまた半端でない「武士感」の
持ち主がいました。
藩の要職を担っていた来島又兵衛(1817-1864年)がその人です。


~又兵衛は風折烏帽子に先祖伝来の甲冑と陣羽織をまとい、自ら遊撃隊600名の兵を
 率いて激戦を繰り広げた~

折角丁寧に描写されているものの、残念ながら筆者にはその具体的な姿カタチが
イメージできません。


そこで、面倒臭い思いを押し殺して少し突っ込んでみると、こんな説明です。
 風折烏帽子→頂辺部分を斜めに折った(風で吹き折られた形の)烏帽子
    甲冑→戦闘の際に着用する武具(兜・鎧・小具足)のこと
   陣羽折→戦国時代に武将が具足(武具)の上に羽織った衣服、


とは言ってもなかなかイメージしづらいでしょうから、参考までに上欄にその
来島又兵衛の絵も挙げておきました。
しかし、「陣羽織」の説明にはちょっと引っ掛かりを覚えるところです。
なぜなら「(メッチャ遠い昔の)戦国時代の武将が着た」とされているからです。


ということは、この「幕末」にはすっかりレトロな代物になっていたわけで、言葉を
換えれば「大昔の武士の戦場における晴れ姿」ともいうべき出で立ちを敢えて選んだ
ことになります。


ですから、こんな見方もできそうです。
~槍刀を持つべき武士に筆や算盤を持たせるようにしてしまった徳川幕府に
 向かって、来島又兵衛は命を賭して「武士本来の姿」を見せつけた~


しかし、この戦場で銃弾を喰らった又兵衛は、ついには自害という最期に及びました。
えぇ、武士感覚では、
~武士の魂を持たない足軽風情が使う飛び道具~ということになる、その鉄砲に
倒れたわけです。


ということを眺めてみると、幕府側の新選組にせよ、はたまた長州側の来島又兵衛
せよ、平穏泰平の世にあった江戸期の武士の姿には大きな不満を抱いていたという
ことになるのかもしれませんねぇ。


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