ヤジ馬の日本史

日本の常識は世界の非常識?この国が体験してきたユニークな歴史《日本史》の不思議をヤジ馬しよう!

付録編20 この県名になったワケ

<お知らせ>2022・11・05(土)
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日本史と言うよりは、まあ神話に近いお話になるのでしょうが、
天皇の皇子であり、息子もまた天皇になったのに、自身は天皇に
なれなかった人物がいます。
どなたなの? 
日本武尊(やまとたけるのみこと)です。
えぇ、熊襲征討・東国征討を行ったとされる日本古代史上の伝説的英雄です。


父親が第12代景行天皇であり、また自身の息子が第14代仲哀天皇という血筋に
ありました。
だったら、当然のこと、自身も天皇になっていてもよさそうなものですが、
そうは運んでいません。 なんでぇ? その理由は?
 

    日本武尊(ヤカトタケルのミコト)


真相は分かりませんが、筆者はこんな捉え方をしています。
~人格に難があり、一口に言えば、結構「イヤな奴」だったのではないか~
なぜなら、その物語は、確かに勇猛果敢な人物としては評価しているものの、
反面、いささか乱暴・傲慢な性格であったこともまた匂わせているからです。


さて、その日本武尊は東国征討の後、尾張の地で結婚生活を送っていたのですが、
近くの伊吹山に悪神がいると聞き、その退治を決意し現場へ向かいました。
勇猛果敢な行動です。
ところが、その時、我が身を守るべき神剣「草薙剣」を携帯していなかったのです。
その前の東国征討を成功させていたことで、いささかの慢心もあったのかもしれません。


すっかり丸腰だったためボコボコにされた日本武尊はほうほうの体で現場を離れ、
大和を目指しましたが鈴鹿辺りで精根尽き果てます。
そして、力尽きる時には、こんな言葉まで吐いたとされています。
~わが足三重のまかりなして、いと疲れたり~
足が三つ重ねで折れてしまうほどに極限まで疲れてしまったわい、というほどの
意味なのでしょう。


普通、人間の足は膝部分で折れる(二重)ようになっていますが、それが
さらにもう一つ余分に折れた(三重)というのですから、とことんヨレヨレの
ヘロヘロに疲れ切ってしまったということです。
事実この時亡くなったとされています。


このお話を知った筆者の感想。
~へぇ、地名「三重」の由来はこんなだったのか~
後には、さらに他の由来説もあることを知りましたが、筆者的には日本武尊の
この奢った姿が、さもありなんという印象で妙に気に入ったのです。


そうなると、他の「県名」の由来についても知りたくなります。
もちろん、さほどに知りたいとは思わない方もおられましょうが、お話の
流れですから、悪しからずお付き合いくださいな。


しかし、全国を網羅するにはあまりにもその数が多すぎることに気が付いて
しまいました。
そこで、さしあたりは、筆者の生息地周辺である、いわゆる「東海三県」を
取り上げることにしました。
えぇ、愛知県/岐阜県/三重県がその「東海三県」です。


そして、そのうちの「三重県」は今済みましたので、今度は「岐阜県」です。
こんな説明を見つけました。
~岐阜の地は古く「井口(いのくち)」と呼ばれていたが、永禄10年(1567年)、
 当時「井口城」や「稲葉山城」と呼ばれていた城を織田信長が陥落し、
 「岐阜」に改称した~

これは、割合よく知られたところです。


では、その「岐阜」って、いったい何なの?
その由来についても諸説あるようですが、以下の説が有力とのことです。
~「周の文王が岐山より起こり、天下を定む」という中国の故事にちなみ「岐」を、
 「阜」は孔子の生誕地「曲阜」にちなんで、太平と学問の地となるようにという
 願いに由来する~


ところが、こんな補足も。
~命名者については、織田信長(1534-1582年)が命名したとする説と、
 織田信長の命により尾張の政秀寺の僧侶であった
沢彦宗恩(たくげんそうおん/
 生年不詳-1587年)が命名したとする説がある~


こうした故事に強いのは、やはり沢彦の方でしょう。
しかし、元来朝廷の特権である「地名」の管理を、一介の僧侶が担ったとは考えにくい。
ということは、沢彦がその学識から候補名を挙げるなどの作業はしたにせよ、
最終的な決定者は、やはり信長だと考えた方が自然であるような気がします。


ただし、モロに和風の音韻からなる「いのくち」とか「いなばやま」から、いきなりの
こと「ぎふ」なんて、いささか日本離れした聞きなれない響きに代わったのですから、
当時としては、いささか過激な「地名変更」だったかもしれません。


   

 織田信長(岐阜の命名者)/ 阿由知(あゆち)


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この「井口→岐阜」の地名改称がきっかけとなって、この時代の武将たちの間には
一種の「地名変更」ブーム?が起きました。 
少しだけ例を挙げればこうなります。


羽柴秀吉(1537-1598年) 今浜→長浜(滋賀県)
徳川家康(1543-1616年) 引馬→浜松(静岡県)
蒲生氏郷(1556-1595年) 黒川→若松(福島県)
加藤清正(1562-1611年) 隈本→熊本(熊本県)
黒田長政(1568-1623年) 福崎→福岡(福岡県)


これを眺めると、信長に倣っての「地名変更」だったのに、他の武将は誰一人、
そこまでの気遣いができなかったのに、秀吉だけは主君・信長の「長」の字を
使うなど、人間的な抜け目のなさが現れていて、ちょっと面白い。
「人たらし」の面目躍如と言っていいのかもしれません。


それはさておき、では「東海三県」で最後にも残った、筆者の生息地
「愛知」はどんな按配だったのか?
それについての説明を探してみると、あぁ、ありました。
~「愛知(あいち)」は、古名の「あゆち(年魚市または吾湯市などと表記)」が
 転化したもの~


もう少し追ってみると、
~平安時代以前には、「あゆち潟」という干潟が、現名古屋市の南部~南東部
 一帯から知多にかけて広がっていた~

そういえば、名古屋市には「阿由知通」(あゆちどおり)という地名が、
現在も昭和区に残っているなぁ。


それはそれとして、だったら、そもそもその「あゆち」ってなんのこっちゃ?
そう思うのは人情です。
この「あゆち」の由来・語源については、実際のところ諸説あるようです。


○「あゆ」とは、湧き出る、を意味する古語。
 →湧き水が多い地で旅人の喉を潤したと、万葉集にもある。
○「あゆ」とは、東風を意味する。
 →東風を古代は「こち」と呼び、中部や北陸では「あゆ」と呼んだ。


○「あゆ」とは、「足結」と書き、東へ向かう旅仕度を意味する。
 →この地で、さらに東への旅の仕度をする人も多かったということでしょうか。
○「あゆ」とは、(魚の)「鮎」を意味する。
 →古名「年魚市」の「年魚」は、鮎の異名でもある。
○「あゆ」とは、「豊漁」を意味する。
→実際に耳にしたことはないものの、古語ならあり得るのかも?


いずれの根拠が正解かは別にせよ、
~「あいち」は、古名の「あゆち」が転化したもの~
であることは動かないようです。


そこで、もう一歩突っ込んでみたところ、こんな文章にもぶつかりました。
~一般的に「哲学」ほどの意味合いで用いられている「philosophia」という単語の
 原義は「知恵を愛すること」である~

おっ、「知」を「愛」するってか。 そういうことならモロに「愛知」ではないか。


なるほどそういうことだったのか、それで合点がいったぞ。
これまで、愛知県にはなにかしら思慮深そうな人が多い印象がしていたが、
そもそも「哲学(愛知)の地」に住んでいるのだから、当然かもしれない。
えぇ、そういう感想を漏らしている筆者も、じつはまた「哲学(愛知)の地」の
住民なのです。 
ひょっとして、こういうのを「我田引水」って言うのかしらん?


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