ヤジ馬の日本史

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迷宮入り編21/奥州黄金その後の行方

よく知られた史実であっても、よく眺めてみるとその中には何かしら忘れ物をした
ように感じられる出来事もないではありません。
たとえて言うなら、「AとBが・・・」で始まった説明が、その部分で途切れて
しまって、この後がどうなのかの説明がないままの状態です。


一体どうしたのだ! 人によっては、「ええッ、転んだのか?」あるいは
「なんだとぁ、不味い豆腐でも食わされたのか?」
実際、こんなツッコミを入れたくなることもないではありません。


筆者なぞは「奥州黄金のその後」に関して、モロにそんな印象を持っています。
要するに、「あの黄金はいったいどこへ行ってまったんだぁ?」と叫びたくなって
しまうワケです。
尾張者の普段使いの言葉は、やはり尾張言葉なんですねぇ、これが。
悪しからずご理解ください。


それはさておくとして、その「その後の奥州黄金」について少し整理してみましょう。
まず、奥州藤原氏についてはこのようになります。
初代・藤原清衡 (1056-1128年)
二代・藤原基衡 (1105-1157年)
三代・藤原秀衡(1122?-1187年)
四代・藤原泰衡(1155?-1189年)


あの有名な「中尊寺・金色堂」は、初代・清衡によって1124年に建立されたとされて
いますから、その頃の「奥州黄金」は間違いなく健在だったことになりそうです。


 (平泉)中尊寺金色堂


そればかりか、それ以後も、「平泉は京に肩を並べるほど繁栄していた」とか、
あるいは「四代・百年に渡っての栄華が続いた」と説明されていることからしても、
滅亡の直前まで、その繁栄に翳りはなかったと見てよさそうです。
つまり、その時点でも「奥州黄金は健在」だったとの解釈が妥当だということです。


さてこうした状況のもと、兄・源頼朝(1147-1199年)に追われた弟・義経
(1159-1189年)が、三代・秀衡を頼ってこの地・平泉に落ち延びてきます。
兄・頼朝に対抗できるだけの力がある。
要するに義経は、奥州藤原氏つまり三代・秀衡に対しては、このような思いを抱いて
いたということです。


ところが、奥州藤原氏の総帥であったその秀衡がまもなく死んでしまいます。
平家を滅ぼした軍事天才・義経を折角手中に収めたのに、リーダーを失ってしまった
のですから奥州藤原氏にとっては大打撃です。


一方、奥州藤原氏に自らの保護者役を期待した義経にとってもその通りでした。
義経からすれば、秀衡に比べた子・泰衡の実力には、いささかの疑問符がついたから
です。
偶然の出来事ではなく、誰ゾが手を回したものではないかと疑いたくなるほどに
秀衡の死は、まったく不運なタイミングだったのです。


そうした流れを経て、頼朝側の攻撃によって結局のところ、義経と四代・泰衡は
死に、百年の栄華を誇った奥州藤原氏は滅亡するに至りました。


さて、筆者が抜け落ちた印象がするというのは、実はこのあたりのことなのです。
ええ、その後の「奥州黄金」についての説明が、一般的にはいささか希薄に過ぎる
感じがするのです。


勝利者・頼朝にすれば、この「奥州黄金」も戦利品のひとつとして自分の懐にして
しまうことも容易にできたはずです。
しかし、その種のエピソードはあまり豊富とは感じられません。


確かに、その頼朝自身は母親の実家・名古屋で生まれた「田舎っぺ」だったかも
知れませんが、それにしたところで、その後の幼少期少年期はちゃんと都での生活も
経験しています。
つまり、頼朝は「奥州黄金」の話をいずれかの時点では確実に耳にしていたはずなのです。


もしそうなら、奥州攻撃に際して、頼朝なりの「奥州黄金」活用プランも持っていた
はずです。
でも実際には、ああだったげな、こうだったげなとのウワサも立っていません。


では、この「奥州黄金」の利権?を継承したのは頼朝ではなかったのか?
つまり、奥州黄金を懐にしたのが、頼朝以外の誰ゾだったとしたらどうでしょうか。
しかし、それに関するエピソードもまた豊富とはいえない印象です。


それに第一、そもそも「奥州黄金は健在」だったのか、それともすでに掘り尽くされて
「枯渇」していたものなのか、このことすらハッキリしません。
言葉を換えれば、「皆がダンマリ」を決め込んでいる感じです。


人間、急に無口になる時は怪しい。
昔からそういう見方があることは、筆者はよく知っています。
そして、こうした場合の大方は「腹の中」にケシカラヌことを溜め込んでいるものです。 


なぜ分かるかと言えば、それは筆者自身の体験からも、間違いなく自覚できることだ
からです。
そんな意味からすれば、この場面はそのセオリー通りの運びになっていると断言しても
いい。


「奥州黄金」はその時までに堀り尽くされてしまって、もう産出できるような
レベルにはなかったとする見方も、確かにあるにはあるようです。
もしそういうことだったなら、その後の話題に挙がらなかったことも不思議ではない
のですが、一方では、それとはウラハラな説明が存在していることもまた事実なのです。


 

     奥州藤原三代 / 武蔵坊弁慶(立ち往生)


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そうした流れもあって、念のために、今流行りのチャットGPTにもお尋ねをして
みました。 すると、その問答は、こんな按配になりました。


問:奥州藤原氏のもとで産出されていた奥州黄金は、その奥州藤原氏が滅亡した後は、
  どうなったのでしょうか?


答:奥州藤原氏の時代、奥州地方(現在の日本の東北地方)で産出されていた
  奥州黄金は、主に鉱山からの採掘や水中での採取などを通じて手に入れられて
  いました。
  奥州藤原氏は、この黄金を利用して政治的な権威や富を築いていました。
  しかし、奥州藤原氏が滅亡した後、その後の奥州黄金についての詳細な情報は
  あまりありません。(中略)
  総じて言えることは、奥州藤原氏の滅亡後、奥州黄金の重要性や産出量が減少した
  とされることですが、具体的な詳細については歴史資料が限られているため、
  詳細な経緯は確定されていない部分もあります。


どうやら、チャットGPTもよくは分からんということのようです。
ところが、「チャット」ではなく、「ちょっと」調べてみると、ず~っと後のことに
なりますが、17世紀には「奥州で結構な量の金を産出した」とする記録も残されている
とのことです。


そればかりか、20世紀に入ってからは、こんな事実があったとも紹介されていました。
~明治政府が「奥州の金山」を担保として欧米から「借金」をした~
ホンマかいな!


この記録が正しいとしたら、その「奥州の金山」に対して、欧米は担保に見合う価値を
認めていたということになります。
言葉を換えれば、20世紀まで「奥州の金山」は「健在」だった。
つまり「金の産出」能力を維持できていたことにもなりそうです。 


う~む、こうなるともうワケがわからんワイ!
そこで、ワケがわからんお話はそのまま捨て置くことにして、以降は空想話に
ひとっ飛びです。 こんなことが頭に浮かんだのです。
~奥州藤原氏滅亡直後のドサクサに誰ゾが上手いこと「ネコババ」したのかもしれん~


もし、そういうことだったなら、当人たちだっておそらくは厳しく「緘口令」も布いた
でしょうし、徹底した「情報管理」を行ったハズです。
詳しいコトが今に伝わっていないのはそのせいかもしれん!


このような仮説が絶対に成り立たないとも言い切れないと思いましたが、しかし、
周りの人たちからはこう一蹴されてしまいました。
~そんなもん、単に面倒がり屋の短絡的で都合の良すぎる仮説に過ぎぬ~


ひどく尻すぼみのお話になってしまったので、その詫びの印に余談をひとつ。
昔の「金」の採集道具の一つに、網目を備えた「ねこがき」というものがあったそうです。
そして、この網目にくっ付いた砂金を丁寧に集める作業を、当時は若い女性が担当した
とされています。


その若い女性たちの作業ぶりを見守るのは先輩女性たちの役割。
監視役と言っていいのかもしれません。
ところが、こちらの監視役の方はどうもチョクチョクくすねることもしていたようなの
です。
なぜなら、なんにせよ作業の慣れは、大胆な行動を生み出すものだからです。


そこで「コッソリくすねる」ことは「ねこがきの先輩女性(婆)」がよくやること。
という意味から「ネコババ」という言葉が生まれたようですヨ。 
ただし、これがホントの話なのか、あるいはヨタ話なのかは筆者には判断が付きません。
ということで、どうもお退屈さまでしたッ!



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