数字編17/チョンマゲ頭が鉄道を敷く
ひょんなことから、鉄道のことが話題になりました。
「日本初は、いつ、どこだったか」ということです。
しかしまあ、江戸幕府の時代に開通していたとは思えませんから、普通に考えれば
「明治時代」ということになるでしょう。
そしてまたその場所も、おそらくは鉄道唱歌にも歌われているように
「新橋(東京)」だったということでしょう。
とはいうものの、生半可の知識しか持たない者同士が、ああじゃこうじゃと
当てずっぽうの推論を重ねたところで埒があくほど世の中は甘くありません。
そこで仕方なく、政権が江戸幕府から明治政府に移行した、いわゆる「明治維新」に
ついての確認から始めることにしました。
後世の人は一般的に「明治維新」と呼ぶようになりましたが、当時の人はこのことを
「御一新」と表現したようです。
さて、この政治的、経済的、社会的大改革を起こしたその起点を、いわゆる
「黒船来航」(1853年)という出来事に置くのは、それほど不自然でもないでしょう。
なぜなら、当時の日本国政府すなわち江戸幕府は、「鎖国」(泰平の眠り)こそ
祖法であり、また是としていたのですからねぇ。
ですから「黒船来航」と呼ばれるこの出来事が起こっていなかったとしたら、
当然その後の「御一新」など、一連の動きも登場しなかったと考えられます。
念のためですから、そこらあたりのこともちょいと覗いておくことにしましょう。
それまで265年にわたり徳川家が担当してきた政権運営を、江戸幕府最後の将軍と
なった第15代徳川慶喜(1837-1913年)が朝廷にお返しした、いわゆる
「大政奉還」が行われたのは、じつは前出の「黒船来航」より14年も後の1867年の
ことでした。
「黒船大ショック」だったといいながら、ここにいたるまでには、それなりに結構な
時間がかかっています。
しかし、そうした幕府から政権の奉還を受けた朝廷としても、体制づくりを
急がなくてはなりませんでした。
まともな政権担当能力を発揮できなければ、それこそ文字通りに「無政府状態」に
陥ってしまうわけですから当然です。
そうした形で政権運営者が幕府から天皇に移行した、いわゆる「王政復古」もまた
同じく1867年のことでした。
しかし、復古させたその「王政」、つまり朝廷政権は、歴史的に見ても長い長い
ブランク(休養?休業?)期間がありました。
振り返ってみれば、後醍醐天皇による「建武の新政」(1333-1336年)以来、
ざっと数えても約530年ぶりのことになるのです。
このことだけでも大変なハンディですが、それだけではなく新政府には、
諸外国に対してもその姿勢を明瞭に示す必要がありました。
これまで続けていた鎖国を止めることにした政権ですから、諸外国への挨拶が
必要なのは当然です。
そこで、明治新政府は自らの基本方針を「五箇条の御誓文」の形で示すことにしました。 翌1868年のことです。
政府としての機能もまだまだ不十分で、肝心の国家憲法も整っていなかった
のですから、とりあえず「御誓文」という形での表明を選択したものでしょう。
ちなみに、明治政府による「大日本帝国憲法」が整い施行されたのは
1890(明治23)年ですから、なんとこの時期より22年も後もことになります。
さすがにそれまでの期間を、外国に待ちぼうけを喰らわしておくわけにもいかなかった、
ということなのでしょう。
しかし、筆者を含めて現代人の多くにとっては、なにぶんにも150余年も前のことに
なりますから、その基本理念などについてよく知りません。
そこでこの時代の憲法代わりでもあったという意味合いからも、その「五箇条の御誓文」
の内容を念のために列記しておきましょう。
一、 広ク会議ヲ興シ、万機公論ニ決スヘシ。
一、 上下心ヲ一ニシテ、盛ニ経綸ヲ行フヘシ。
一、 官武一途庶民ニ至ル迄、各其志ヲ遂、人心ヲシテ倦マサラシメン事ヲ要ス。
一、 旧来ノ陋習ヲ破リ、天地ノ公道ニ基クヘシ。
一、 知識ヲ世界ニ求メ、大ニ皇基ヲ振起スヘシ。
今風の言葉に比べたら、やたら固い言葉が並んでいる印象になりますが、要するに
~明治新政府は、それまでの江戸幕府が後生大事にしていた「御政道」というやり方とは
まったくと違う政治体制で臨むのだッ!~
その気概を述べている、素直にこう解釈してもいいのでしょう。
えぇ、幕府時代の「御政道に口を出すな」とする意識が、コロッと「広ク会議ヲ興シ」に
変わり、「鎖国は祖法」とする考え方が、これまた「知識ヲ世界ニ求メ」になっている
のですから、掛け値なしの方針大転換だと言ってもよさそうです。
五箇条の御誓文 / 鉄道開通
こうした政治形態の流れを知ってみると、経済的な大改革にはさらに時間を必要と
したであろうと想像されるところです。
ですから、インフラ整備などの社会的な大改革などは、ずっとずっと後回しにされた
ようにも思えます。
ましてや、鉄道を設けることともなれば、その事業規模を考慮しただけでも、
その思いはなおさら強くなるところです。
なにせ、当時の鉄道はハイテク技術の先端にあったものですからねぇ。
そこで、鉄道史を紐解くことにしてみたわけです。
えぇ、無知な者同士の会話では、話がとんと先へ進みませんから順当な手順と
言えましょう。
すると、概ねのところこんな説明が見つかりました。
~日本初の鉄道路線である新橋駅(のちの汐留駅)~横浜駅(現桜木町駅)間が、
1872年(明治5年)10月14日に正式開業を迎えた~
ところが、尾張田舎人の筆者には、その「新橋~横浜」の間の距離感が、
実感できません。
そこで、そこらあたりを再追跡していると、それ以外にこんな情報も入ってきたのです。
〇距離/29.0 km 新橋~横浜間
〇頻度/1日9往復
〇所要時間/53分
〇速度/32.8km 時速
〇運賃/上等 1円12銭5厘、中等 75銭、下等 37銭5厘
なかなかに立派なインフラ整備ぶりですが、驚くべきはやはり開業時期です。
「大政奉還/王政復古」により政権が徳川幕府から朝廷に移った1867年から
わずか5年後の出来事なのです。
ということなら、その鉄道の準備はいつから始まっていたの?
すると、こんな説明にもぶつかりました。
~1870年(明治3年)、鉄道敷設のための測量が開始され、同年中には着工された~
う~む、先の「大政奉還/王政復古」からたったの3年後には、鉄道敷設のための
調査が始められていたってか。 いささか異様にも映るスピードです。
そこでもう少し遡って、鉄道計画自体のその開始点も探してみることにました。
えぇ、クドイのは承知ですが「毒を食らわば皿まで」です。
・・・ちょっと言葉の使い方が正しくないのかもしれん。
それはさておき、始まりのそのまた始まりはどうだったのか。
~鉄道の敷設計画は、幕末にはすでに薩摩藩や佐賀藩、江戸幕府などを
中心にいくらか出てきていた~
ええぇ、鉄道計画自体は、幕府時代に既に浮上していたってか。
とは言うものの、実際の鉄道建設とのなると、各方面から多彩な意見が噴出し
なかなか一本化するには至らなかったようです。
そこで、続く説明はこんな風になっています。
~実際に鉄道を見ないうちは建設が進まないと考えて、とりあえずモデルケースになる
区間として、首都東京と港がある横浜の間、29kmの敷設を行うことに
1869年(明治2年)に決定した~
そして、前述のように、
~1872年(明治5年)10月14日に正式開業を迎えた~のです。
という経緯を知って、尾張田舎者(えぇ、筆者のことです)が鋭く連想した
光景がこれ。
~鉄道敷設という時代の先端ハイテク事業の現場で実際に働いていた労働者は、
実は丁髷(チョンマゲ)頭だった~
えぇ、男子の結髪の廃止を自由にした、いわゆる「断髪令」が発布されたのは
1871年(明治4年)のことですから、それまでは丁髷頭男子が圧倒的に
多数派だったハズだからです。
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