トホホ編40/三八式歩兵銃の生涯現役
先日昼メシに入ったお店の屋号が誘い水となって、今回の話題をなんと
「三八式歩兵銃」にした次第です。
臨機応変というべきか行き当たりばったりというべきか、そのへんのところはよく
わからないのですが、まあ毎度のことでもありますので各位様におかれましては
今回も気持ちを強く持ってください。
さて、その「三八式歩兵銃」とは? ざっとこんな説明になっています。
~「三十年式歩兵銃」を改良して開発され、1905年(明治38年)に日本陸軍で
採用されたボルトアクション方式小銃である~
武器に詳しくない筆者なぞは、のっけの説明からしてよく理解できません。
~なんですか? その「ボルトアクション方式小銃」って?~という塩梅です。
仕方がありませんから、これも探ってみることにすると、
~ボルト(遊底)を手動で操作することで弾薬の装填、排出を行う機構を有する
銃の総称~
このように説明されていますから、早い話が、太平洋戦争などを描いた戦争映画に
登場する日本軍歩兵が使っている長い銃ということになるのでしょうか。
日本兵の装備
それにしても驚かされるのは、その名称になっている「三八式」の意味合いです。
これは~明治三十八年(1905年)に採用された~ことが由来とされていますから、
つまりは、開発・採用されてから三十数年経った時点でも、そのまま使い続けていた
ことになります。
なぜなら、もしその後に新しい歩兵銃が開発されたり、あるいは新しく採用されて
いたとしたら、当然その新型銃には「新しい名称」が付けられたに違いないからです。
そうした名称が登場しなかったという事実が、そうした新開発も、また大掛かりな
改良もなされなかったことを物語っています。
実は、昭和初期の日本は、すでに中国大陸へ武力行使する兆しを見せていました。
そしてその後に、なし崩しの恰好で、いわゆる「日中戦争」(1937-1945年)へと
雪崩れ込んでいったのです。
しかし、そういう流れにあったのであれば、当然のことながら「優れた性能の歩兵銃」
は、この時期にはすでに必須のアイテムになっていたはずです。
ところがギッチョン、事実として「新型銃」は登場しませんでした。
しかし、ではどうして改良なり新開発をしなかったのでしょうか?
戦争がすでに身近にあったことを思えば、不可解でありミステリーな経緯です。
そうした中で筆者がひょっこり思い出したのが、幕末期における薩摩藩のとある
エピソードです。
「黒船来航」(1853年)後の江戸幕府は、なにかにつけヨレヨレの体を露呈していました。
「太平の眠り」を貪って寝ぼけたままだったということです。
こうした状況を国家存亡の危機と強く認識したのが、この時期の薩摩藩主であった
島津斉彬(1809-1858年)でした。
斉彬は、当時の技術の粋を集めた最新銃を三千丁も整えたとされています。
その目的が、江戸幕府に活を入れるためだったのか、はたまた実際に武力行使に及ぶ
ためだったのかまでは知りませんが、ともかくこうした姿勢を見せることは
「日本の危機」に対する斉彬なりのひとつの行動だったようです。
しかし、実行直前にその斉彬はコロッと亡くなってしまいました。
前後の気配からしても、おそらくは藩内反対派による実力阻止行為「暗殺」だったと
思われます。
そして、その後の実質的な後継者(藩主ではない)には、異母弟である島津久光
(1817-1887年)が就きましたが、最初に行ったことは、驚くなかれ、
その「三千丁の最新銃」を廃棄することだったのです。
アッチャー! でも、そのココロは?
~御先祖様が作られた物に対して、イチャモンのような改良を加えるなんてことは
御先祖様の顔を潰すことであり、断じて認めるわけにはいかん!~
久光は「朱子学」の熱心な信奉者、というよりこの時代に多く登場した
「朱子学真理教?信者」の一人でした。
朱子学は「(親)孝行」を最大の徳としていますから、こうした行為は久光にとって
「最高の善」(親孝行・御先祖孝行)だったわけです。
こうした出来事を眺めて見ると、こんなことも言えそうです。
~そういうことなら、「三八式歩兵銃」に、その後長く改良が加えられなかったことは、
朱子学のせいだったのかも?~
ええ、朱子学的な見方をするなら、既にある「三八式歩兵銃」に改良や改善を加える
ことは、こういう受け止めにもなるからです。
~この銃の欠点や未熟点を指摘し、それを解消・改良することは、これを製作した
御先祖様や先輩たちの未熟さを指摘することになり、結果として、その顔に
泥を塗ることになる~
こうした考え方に陥ってしまっては、何事にせよ改良・改善することはできません。
結局のところ、「先輩・先人を軽視・無視した」ことと同じ意味合いになってしまう
からです。
そこで、「何事にせよ、従来のままが一番よろしい」となり、この態度を言い表すなら
「祖法大事」ということになります。
江戸幕府の創立者である徳川家康(1543-1616年)が幕府の公式学問として、
儒教のうちでもいささか過激な「朱子学」と定めたことで、江戸時代の、殊に武家社会
では、この「祖法大事」が常識となったばかりか、その人物の人格の指標もどきの
ものにもなっていたのです。
三八式歩兵銃 / 司馬遼太郎
ですから、何事にせよ「改良・改善」することには、常にマイナス・イメージが働いて
しまうことになります。
「御先祖様の実績にケチをつけた」こんな解釈に流れやすいからです。
しかし「三八式歩兵銃」が開発・採用されたのは、朱子学一辺倒の江戸幕府が終焉し、
明治新政府が成ってからでも「三十八年」もの長い月日が経っているのです。
だったら、もっと熱心に改良改善が為されていてもよさそうなものですが、
そのようには運んでいません。
一度身に沁み込んだ思想というものは、そうそう簡単に消えて無くなる、というもの
でもないようです。
そのことは、こんな説明からも裏付けされます。
~三八式歩兵銃は1942年(昭和17年)3月をもって生産を終了したが、
時局の不都合や国力の限界から完全には(三八式から九九式へと)更新することが
できなかったため、第二次世界大戦(太平洋戦争/大東亜戦争)においても
九九式短小銃とともに日本軍主力小銃として使用された~
言葉を換えるなら、「三八式歩兵銃」はさしたる改良・改善が加えられないまま、
名称にある「三八」(1905年)から「終戦」(1945年)までの間、バリバリの
現役であり続け、さらには「最新歩兵銃」であり続け、生涯現役?であったことに
なります。
もっと強調した言い方なら、
~この歩兵銃は1905年から1945年までの約40年間、さしたるバージョンアップも
ないままに使われ続けた~
こういうことになりますから、いかにのんびり屋の筆者でも、さすがに驚きを
禁じ得ません。
それでひょっこり、こんなお話を思い出しました。
後に国民的作家となった司馬遼太郎(1923-1996年)の述懐です。
1939年のこと、当時中学生だった司馬遼太郎が学校教練を受けた折のお話です。
日本軍の主力小銃である「三八式歩兵銃」について、この時の配属将校は、
このように説明したそうです。
~よその国の小銃は機関銃のように連発式になっているが、日本軍の三八式歩兵銃は
ボルトアクション式のライフルであり、一発ずつしか撃てない。
しかし、よその国はバラバラと撃てるが、これでは心が入らない。
わが国のほうが心に念じ一発必中になって狙えるからいいのだ~
モロに精神主義のお話であり、筆者などはこうした説明を受けざるを得なかった
司馬遼太郎より、それこそ「遼」(はるか)に遅く生まれたことを感謝する次第です。
しかし、終戦を迎えた途端にこうした狂信はたちまちに霧散しました。
そりゃあそうでしょう。
戦場においては、自分の命を守るため、あるいは敵兵を倒すためには、誰だって、
心に念じる「単発銃」より、とにかく素早く沢山撃てる「連発銃」を持ちたいのは
当然のことだからです。
ということでお話が、昼メシから兵士が携帯する武器へ、そして祖法大事という
思想へ、さらには精神主義へと、時空をワープしてしまいましたが、考えてみれば
毎度のことでもありますから、正直なところ心苦しく思っています。
ちょっとだけのことですがね。
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