ヤジ馬の日本史

日本の常識は世界の非常識?この国が体験してきたユニークな歴史《日本史》の不思議をヤジ馬しよう!

忘れ物編38/食べる物がなんにも無いッ!

メタボ系との噂が囁かれている(らしい)筆者の発言としては、まことにおこがましい
ものがありますが、現代日本人がすっかり失念していることの一つに、
「食べる物がなんにも無いッ!」という環境を挙げてもいいように思います。 


いささか品薄傾向に陥ることはあるにせよ、それでもスーパーの食料品の棚が
スッカラカンの空っぽの状況になることはまずありません。
つまり必要とする食料品はそれなりにきちんと供給されているというわけで、これは
メッチャ恵まれた食料境遇だと言っていいのでしょう。


~でも、この境遇を当たり前として受け止めていていいものか~
殊勝にもそんな気持ちを覚えたのは、実はとあるTV番組に遭遇したことが
キッカケでした。
~ここ(世界のとある地域)では今、深刻な「食料不足」が起きている~


もっとも、いくつかの料理が並んだ夕食の場で、その番組に接したのですから、
考えてみればメッチャ罰当たりで罪深く、矛盾を孕んだ光景でもあったわけです。
ひょっとしたら、筆者の死後に待っているのは地獄、ということなのかもしれません。


それはともかく、今回のお話に入る前に、その「食べる物がなんにも無いッ!」という
状況に関連したいくつかの用語を確認しておきましょう。
その系統の用語は、現代日本人の日常生活ではほぼほぼ「死語」の印象になっている
ことがその理由で、ここからは以降のお話についての誤解や錯誤を極力減らすためにも
必要な作業と受け止めてください。


飢餓/食物が不足して飢えること。 食欲の満たされない苦しみ。 空腹。
    長期間にわたり十分に食べられず、栄養不足となり、生存と社会的な生活が
    困難になっている状態。


飢饉/天候異変などで農作物の収穫が少なく、必要とする食糧が極端に欠乏すること。
    そうした要因によってその集落に住む住人が飢餓状態に陥ること。


   天明の大飢饉


いずれにしても、人間の生死に関わる根源的な課題です。
そして、日本の歴史を振り返ってみると、そうした「飢餓・飢饉」が、実は飽きること
なく繰り返されてきたことに気が付きます。


要因は様々でした。
例えば天候の異変、政策の失敗、あるいは騒乱の勃発など数多の出来事が引き金に
なったことも少なくありません。
要するに、昔の日本においては、規模の大小はともかくとしても、「飢餓・飢饉」は
割合に身近な出来事で、「忘れてしまわない」うちに繰り返し発生していたと
言っていいのかもしれません。


たとえば戦国時代の合戦における、いわゆる「籠城戦」でも、限定的で局地的では
あるものの、人為的な「飢餓」を引き起こしたこともありました。
籠城側の降伏、あるいは攻撃側の実力行使などが、何かの都合で上手く運ばなかった
場合に、実際に「飢餓」という極限状態を出現させてしまったのです。


それどころか、比較的強力で安定した政権が続いた「江戸時代」ですら
「飢餓/飢饉」はありました。
しかも繰り返し起き、そうした中で時に目立った惨状に対しては、後の時代になって
「江戸四大(三大)飢饉」なんて用語も作られたほどです。


折角の機会ですから、この際それらについてもざっとだけ再確認しておくことに
しましょう。
小腹が空いて冷蔵庫を漁ることよりは遥かに有意義な作業だと思うからです。


1>寛永の大飢饉(1640-1643年)
  慶長から元和の間(1596-1624年)の時期にもしばしば凶作から飢饉が発生して
  いますが、その内でも最大の飢饉とされています。


また、1640年には蝦夷駒ケ岳が噴火し、降灰の影響により陸奥国津軽地方などでは
凶作となり、翌1641年に入るや日照りによる旱魃の他にも、大雨、洪水、旱魃、霜、
虫害が発生するなど、全国的な異常気象による飢饉でした。


2>享保の大飢饉(1732年)
  1731年末から翌1732年には、雨や低温などの悪天候が続き、さらには大規模な
  害虫発生もありました。
  また、梅雨から長雨が続いて冷夏を招き、中国・四国・九州地方の西日本各地では
  凶作に見舞われました。


   

        日傘効果 / お救い小屋(天保の大飢饉)


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3>天明の大飢饉(1782-1788年)
  東北地方では、すでに1770年代から悪天候や冷害によって、農作物の収穫が
  激減していた上に、さらに1782年から翌1783年にかけての冬には異常に暖かい日が
  続いて道も田畑も乾き切って、そんななかで1783年には岩木山が、それに続いて

  浅間山までもが噴火し、周辺各地に大量の火山灰を降らせました。


火山の噴火は、それによる直接的な被害に留まるものではありません。
成層圏に達した火山噴出物が陽光を遮ることで日射量低下を招き、それがまた冷害を
さらに悪化させたのです。


農作物に壊滅的な被害が出たことで、飢えに苦しむ人々は、生き延びるために、
馬や犬猫はもちろんのこと、遂には死んだ人の肉までも草木を混ぜて口にしたという
状況もあったようです。
その窮状はまさに「日本の近世では最大の飢饉」dした。


4>天保の大飢饉(1833-1839年)/
  19世紀前半は太陽活動が低調だったとされていますが、これに加えて、日本から
  見てほぼ地球の反対側にある中米ニカラグアにあるコシグイナ火山の大噴火に
  よって日傘効果を呈し、冷害をさらに悪化させたようです。


ちなみに、この「日傘効果」とはこんな説明になっています。
~火山の噴火などによって大気中に浮遊した微粒子が、本来なら地表に達するはずの
 日射量を妨げて減らし、気温を低下させること~


それにしても、この「コシグイナ火山大噴火」による環境への影響は、おそらくは
日本だけではなかったはずですから、「地球規模の気象変動・大災害」だったと
言っていいのかもしれません。


ちなみに、以上の1>から4>までの四つの飢饉を「江戸四大飢饉」と呼びます。
ただ、最初の「寛永の大飢饉」を外した「江戸三大飢饉」という表現もあるようです
ので、いささか横道に逸れますが、その点もちょっと覗いてみることにしました。


~「寛永の大飢饉」は「江戸四大飢饉」には入るものの、「江戸三大飢饉」になると
 外されるのは、なぜだろう~

お遊び半分で、その点を例の「チャットGPT」に尋ねてみたのです。


すると、こんな風ないくつかの回答を貰うことになりました。
1/一時的な飢饉であった可能性があること。
2/その時代の資料や詳細な記録が少なく、その内容が明確に把握されていないこと。
3/(省略) 4/(省略)・・・


まあしかし、いずれの場合も「大飢饉」なのですから、幕府にせよあるいは藩にせよ
それなりの記録は残したはずです。
ところが、そうした「記録」は、こんな背景・事情なども反映しているようですから、
その内容についての受け止め方も慎重にならざるを得ません。


たとえば、
~藩から幕府への「飢饉犠牲者数」の報告は、意識的に「調整」(過少報告)したものが
 少なくなかった~


「大飢饉」で藩内全体がテンヤワンヤしているのに、その上に幕府から叱責される
なんてことでは、それこそ踏んだり蹴ったりです。
そこで、藩の責任を問われないように、幕府へ向けて「過小報告」することは、
いわば「大人の知恵」ということだったのかもしれません。


そこで、またまた町内長老のご登場です。
~えぇか、人の命の価値・重みには、本来それなりに差があるものなのだ~
こりゃまた「人命の尊重、平等」を当たり前とするイマドキの発言としては、過激で
大胆極まりありません。


そんなところへ追い打ちをかけるように、
~早い話が、死んだら、ワシの命は軽くて、キミのは重い~
それは、命の重みではなく体重のお話でしょうに!


ともあれ、こうしたジョークを飛ばせるなんてことは、まことに不遜なお話ではある
のですが、裏を返せば、かつては身近にあった「飢餓・飢饉」にリアル感が持てなく
なって、すっかり「忘れ物」になっている証拠だと断言していいのかもしれません。


だって、そうでしょ。
早い話がアナタの場合なぞは、ちょっと小腹が空いた程度のことで、迷わず冷蔵庫の
中を漁りまくっているではありませんか。


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