ヤジ馬の日本史

日本の常識は世界の非常識?この国が体験してきたユニークな歴史《日本史》の不思議をヤジ馬しよう!

偶然編06/事典も街道も百の字づくし

住兵衛

たまたま数人が集まった折のこと、その中の一人からこんな質問が。
~ウィキペディア(Wikipedia)を日本語で言うと、どうなるんきゃあ?~
オジンギャグ好きな一人が咄嗟にこう返しました。 
~もんなもん、シンプルに「浮きペデ屋」でええんでにゃあの~
双方が尾張言葉だったのはモチのロンです。


すると、スマホ操作から離れた一人から「ネットの説明はこうなっている」との指摘です。
~ハワイ語のwikiwiki(速い)に由来する編集システム名Wikiと、encyclopedia(百科事典)
 とを合わせた造語。 インターネット上で利用できる百科事典~


迂闊なことでしたが、その「Wikipedia」のwikiがハワイ語由来であることは、
全員がこの時初めて知った次第です。
確かに「浮き浮き」(wikiwiki)気分の時は、素早い行動・動作が取れるものですから、
理屈に合ったハワイ語だと言えます。


しかし人間のアタマ数が多くなると、それなりに話題は右往左往してしまうもので、
このときの話題もいつの間にか、
~そういえば、昭和時代のその昔には日本で「百科事典」のブームがあったそうだゾ~
そこで、ネットの「Wikipedia」の話題から古式豊かな紙製本の「百科事典」へワープ。


すると、その言葉を受けた輩が、
~そう言われてみると、うすらボンヤリの記憶だが、ウチにも百科事典のセットが
 あったような気がせんでもにゃあな~
「気がする」程度ですから、本来的に「活用した」ことは皆無だったに違いありません。


それはともかく、「百科事典ブーム」なんてメッチャ知的に感じられる社会現象が
本当に起こったのかしらん?
後日になってその辺を探ってみると確かにあったようで、こんな案内を見つけました。
~日本経済が高度成長期にさしかかると、出版界にも大型出版の時代がやってきた。
 まずは1961年(昭和36)からの
百科事典ブームである~


   ウィキペディア(wikidepia)



ふえぇ、「百科事典ブーム」ってか。 案内はさらに踏み込んでいました。
~平凡社の『国民百科事典』(全7巻)は、セットで1万円という手ごろな価格で、
 たちまちベストセラーになった。
 (1962年)7月の完結時には50万部に達し、百科事典を大衆化した~


その「手ごろな価格」って?
チョイと気になって調べてみると、当時の初任給は15,000~16,000円程度だったらしい。
そういうことなら「初任給×2/3」程度の買い物になるわけで、だったら決して
「気楽な出費」ということでもなかったように思われます。


しかしブームというからには、なにも平凡社一社だけがと脚光を浴びたわけでも
ありますまい。 すると案の定、
~小学館も同(1962)年8月に『日本百科大事典』(全13巻)を刊行、
 予約部数は50万部を超えた。
 2つの百科事典がともにベストセラーになるというのは異例のケースだった~


「ベストセラー」という表現は、21世紀に入った現在でも概ね「10万部」以上を
目安にしているようです。 
それを思えば60年ほど以前の「50万部」ですからちょっとばかり凄い。
しかも安価な文庫本の体裁ではなく、豪華仕様のシッカリ高価格本なのですから、
このことにも驚かされます。


そこに、全7巻とか全13巻というボリュームで自分の知識欲求を満たそうとする
意識があったものとしたら、その積極性には圧倒され、また驚かされます。
ある機会に、そうした話を筆者が町内の長老にぶつけてみたところ、
~「百科事典ブーム」みたいな風潮は確かにあったナ~


そこで筆者も一言。
~ということは、この時代の日本は、国家としては「高度経済成長」を推進し、
 家庭や個人のレベルでは「高度知識成長」に取り組んでいたのですかねぇ~
筆者自身が言うのもなんですが、いたって純真素朴な心証です。


ところが町内の長老はそれとは違って、いたってさめた見方を披露してくれたのです。
~百科事典=知識欲とは、純真ではあるが真理を突いた見方ではない~
なにが言いたいのかしらん、この御老人は? すると、
~百科事典セットは「知識ツール」としてだけではなく、実は「インテリア」としての
 効果も少なからず歓迎されたのだ~


だから、決して無駄な投資にはならなかったという解説です。
なぁるほど、それまではお部屋の書棚に百科事典セットが揃っている景色なぞは、
ほとんどの人が見たことがないわけだから、そうした人たちにちょっとした驚きと
羨望を与える一種の「ステータス・シンボル」としての価値もあったってことかぁ。


~なるほど、そうした理由がないことには、今どきでさえ10万部で「ベストセラー」
 とされているに、60年も前に「50万部」はさすがに売れないよなぁ~


   日本百科大事典

   百鬼夜行


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「Wikipedia」から「百科事典」に流れていったお話は、これで一応の終止符を
打ちました。 ところが、はからずも偶然が重なったというところでしょうか。
その後になって、頭に「百」の字が付いた「百〇〇〇」という四文字用語に、
割合頻繁に遭遇するようになったのです。


折角ですから、その一部も白状しておくことにしますが、たとえば、
「百戦錬磨」(ひゃくせんれんま)/数多くの戦闘や経験を積んだことを指す。
 →これは、戦国武将について使われていました。
  たとえば、甲斐・武田信玄(1521-1573年)、越後・上杉謙信(1530-1578年)
  などは、確かにそんな雰囲気を備えています。


「百花繚乱」(ひゃっかりょうらん)/多くの花が美しく咲き乱れるさまを形容する言葉。
 →文化文政時代(1804-1830年)の、いわゆる「化政文化」の担い手となった方々の
  紹介の段に使われていた記憶です。


絵師なら、たとえば喜多川歌麿(1773-1806年)、謎の絵師?東洲斎写楽
     葛飾北斎(1760-1849年)、歌川広重(1797-1858年)。
俳諧なら、たとえば与謝蕪村(1716-1784年)、小林一茶(1763-1828年)。
その他にも、戯作者の十返舎一九(1765-1831年)、
あるいは、いわゆる「川柳」の創始者・柄井川柳(1718-1790年)等々、枚挙に暇が
なくまさに「百花繚乱」の顔ぶれです。


「百鬼夜行」(ひゃっきやこう/ひゃっきやぎょう)/日本の説話などに登場する、
       深夜に徘徊をする鬼や妖怪の群れ、および彼らの行進。


ちなみに、アナタは妖怪と幽霊との区別ができますか?
民俗学者・柳田國男(1875-1962年)の場合だと、こんな説明になります。
~幽霊は死んだ人が生きていた時の姿で現れたもので、
 妖怪は人間の心の中で描いたイメージが具現化したもの~

なるほど、なんとなく得心がいく定義?です。


さて、ここまでの「頭に百の字が付く四文字用語」は、多くの方が昔の昔から
承知しているものでしょう。
ところが次に挙げた「百〇〇〇」はあまりにローカルな話題ということもあって、
ほとんどの方には「初耳」になりそうです。


お話の都合上、前もって筆者の現在の生息地が「名古屋市熱田区」であることを
お伝えておく必要がありそうですが、さて、地元に生息中でありながら
筆者の記憶にもない「頭に百の字が付く四文字用語」。 
えぇ、それっていったい何ですか? 
実はそれが「百曲街道」(ひゃくまがり・かいどう)だったのです。


その「百曲街道」の説明です。
~百曲街道は、江戸時代初期の熱田新田開拓に伴い、その北側に既にすでに
 干拓されていた中野外新田・中島新田の干拓堤防の上にできた道筋で、
 多くの屈曲があったのでこう呼ばれた~

土地勘にない方には分かりにくい内容だとは思いますが、要するにいずれの新田も
近接していて、いわば「干拓地帯」を構成していたと思ってください。


そして、そのうちの「熱田新田」についての補足説明はこうなっています。
~年貢米の増収のために尾張藩が実施した最大の新田開発が「熱田新田」で
 初代尾張藩主・
徳川義直(1601-1650年/家康・九男)の命により、
 正保4(1647)年から5年の歳月をかけて開拓され「御新田」と呼ばれていました~


これも地元生息民族にしか分からない地理案内ということになりそうですが、
念のためにその「百曲街道」のコースにも触れておきます。
1879(明治12)年の県内幹線道路の表によれば、
~始点は名古屋城下の南の門前町(中区)で、終点は今の国道一号線・明徳橋(港区) ~


さらに申し添えておけば、熱田区内では、現在でもこの「百曲街道」の一部がコースに
加えられたウォーキング・イベントもあります。
それなりの「見どころ」があることがその理由ですが、それについてのご案内は
またの機会に譲ることにしましょう。


さて、以上のように偶然にも「百〇〇〇」との遭遇が重なった最近の筆者は、
こんな抱負を語るようになりました。
~宝クジを「百発百中」させて、つまり「百戦百勝」の末に「百万長者」になるつもり
 ですッ!~ 残念ながら、まだ実現できてはいないのですが・・・


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