付録編27/風神雷神はあちこちに
つい最近のことですか、美術に(も)疎い筆者はこんな恥っかきをしてしまいました。
たまたま数人で雑談していた折のこと、なにがキッッカだったのか、ともかく話題が
「風神雷神」に及んだのです。
ええ、その時にお互いが揃ってイメージしたのは、いわゆる「風神雷神図」と呼ばれる
絵に描かれた姿でした。
ええ、風袋から風を吹き出し風雨をもたらす風神と、太鼓を叩いて雷鳴と稲妻をおこす
雷神です。
さて、ここまでは、お話がスムーズに行き交っていたのです。
ところが、その後の話が噛み合いません。
その原因が筆者にこんな思い込みによるものだったことが、後になって判明しました。
~「風神雷神図」は国宝になっている作品が唯一のもので、それ以外にはない~
ところがこれが、とことんの大間違いだったのです。
なぜなら、こんな状況だったからです。
~「風神雷神図」は、多くの画家によって模作や模写が多数制作された~
ということは、筆者たち共通のイメージになっていた国宝作品以外にも、それこそ
数多の「風神雷神図」が存在していたことになります。
なるほど、これではお話が噛み合わないのも道理です。
そこで、今回の恥っかきを頂門の一針とすべく、その点を少しばかり追ってみる
ことにしたのです。
さて数多あるとされる風神雷神図ですが、そんな中でもとりわけ以下の三つの作品が
よく知られているようです。
「よく知られている」のに、その存在すら知らなかったのですから、筆者はまさに
筋金入りの「美術オンチ」というべきでしょうね。
さて、その作品はいずれも屏風絵で、こんな紹介になっています。
1>俵屋宗達/国宝/寛永年間(1624-1644)頃/二曲一双/
2>尾形光琳/重文/宝永末年(1711年)頃? /二曲一双/
3>酒井抱一/ /文政4年(1821年)頃? /二曲一双/
そして、面白いことにこのデータは、その制作時期がほぼ100年間隔で、
それぞれが江戸時代の前期・中期・後期に当たっていることを示しています。
そしてそこには、様々なエピソードが語られていました。
国宝「風神雷神図」俵屋宗達
そこで今回は、作者各位に触れることから始めてみたのですが、
1> 俵屋宗達(1570年前後?-1643年)
/京都で「俵屋」という、当時「絵屋」と呼ばれた絵画工房を率い、扇絵を中心とした
屏風絵や料紙の下絵など、紙製品全般の装飾を制作していたらしい。
2> 尾形光琳(1658〉- 1716年)
/画家であり工芸家で、宗達の画「風神雷神図」を忠実にトレースした。
1701年(44歳)には「法橋」の位を得ていることからすれば、光琳の画才は
当時から高く評価されていたのでしょう。
その「法橋」とは、本来は高僧に与えられる僧位で、後に絵師、仏師などにも
与えられるようになったとされているからです。
3> 酒井抱一(1761-1829年)
/宗達の画「風神雷神図」を模写(トレース)したものが、光琳の画「風神雷神図」
であることを知らず独自に描かれたものとして、光琳の模写をさらに模したらしい。
つまり、この三人の関連性を示すと、こんな按配になるとの説明です。
~江戸時代前期の俵屋宗達は、江戸時代中期の尾形光琳に影響を与えた芸術家であり、
その光琳は、江戸時代後期の酒井抱一に影響を与えた芸術家である~
もっと直截な言い方なら、
~宗達の画を複写した作品が光琳の画で、そのことを知らないまま、
さらに複写した作品が抱一の画~ という関係性になりそうです。
しかし、この宗達・光琳・抱一に限らず、それこそ数多の画家の制作意欲・模写意欲を
刺激し続けた「風神雷神」って、そもそもどんな存在なの?
そんなこと訊かれたって、信仰オンチで美術オンチの筆者が知っているはずもありません。
そこで、話のついでということで、ちょっとその辺も覗いてみたのです。
すると、様々な見方や説明に拡がって、これがまたそれなりに面白いのです。
たとえば、描かれている「風神」そのものについては、こんな按配です。
~風の神であり、台風のような風災を起こす存在として人々の間で伝承され、
農作物に多大な被害を及ぼすような暴風を鎮めるために、風神を祀るように
なったと言われている~
なるほど、農耕を主なる生業とする民族にとって農作物の「風害」は、
生きるか死ぬかの大問題です。
ということなら、「風の神」を丁寧に祀り上げることは、民族全体にとっても
重要で当然な行為ということになりそうです。
また、こんなヒントもありました。
~神様とはいうものの、風神はどちらかと言うと「妖怪」に近い存在と捉えることも
でき、中世になると農作物に被害を与える暴風や、あるいは人の体に入って病気を
引き起こす風は、すべて妖怪の仕業であると考えるようになった~
へぇ、神様ではなくて妖怪であり、しかも自然界(暴風)だけでなく、
人体(病気)にまで災いをもたらす存在との説明です。
~病気のカゼを「風邪」と書くのは、邪気による風であるというように人々が考えて
いたからであり、また江戸時代の『絵本百物語』には、風の神とは邪気のことで
あると記載されている~
そういえば、「風神」の面構えも、確かに神様というよりはむしろ十分すぎるほどの
妖怪感を備えています。
さらに、もう少し飛躍した印象の、こんな説明も見つけました。
~風の又三郎(かぜのまたさぶろう)は、東北地方各地で信仰されてきた
半ば妖怪ともいえる「風の神」であり、古来神社で祀られてきた~
「風の又三郎」? はて、どこかで耳にしたような名前だなぁ。
すると、
~宮沢賢治(1896-1933年)の短編小説『風の又三郎』とその先駆作『風野又三郎』は
この風神に材を採った作品である~
ゲッ、「風神」と宮沢賢治が顔見知りだったってか。 世間はホントに狭いよなぁ。
風の又三郎像 / 五百円記念硬貨(雷神と風神)
では、もう一方の「雷神」の場合は、どうなのか?
~雷神(らいじん、いかづちのかみ)は、日本の民間信仰や神道における雷の神。
雷様・かみなりさま/雷電様・らいでんさま/鳴神・なるかみ/雷公・らいこう/
とも呼ばれる~
また、いささかの唐突感は拭えないのですが、こんな説明にも遭遇したのです。
~菅原道真は死して天神(雷の神)になったと伝えられる~
その菅原道真(845-903年)なる人物の紹介はこのくらいになります。
~平安前期の公卿・学者・文人で、第59代・宇多天皇の信任が厚く、遣唐使に
任ぜられたが、献言してこれを廃止し、後に政敵・藤原時平の中傷により
左遷(901年)され配所で没した~
ところがその後になって、その藤原一族を初めとして政府要人に病死・事故死が相次ぎ、
さらには、あろうことか御所が落雷(清涼殿落雷事件/930年)に見舞われただけで
なく、朝廷要人に多くの死傷者を出したのです。
さらには、その様子を目撃した第60代・醍醐天皇も体調を崩し3ヶ月後に崩御。
これらすべての凶事は道真の怨霊が原因とされ、そのためその道真は北野天満宮に
おいて神として祀られる(947年)にようになったのです。
しかし、天神様と雷神様とは同じだってなんて、筆者のご存知なかったお話でした。
そういうことであるなら、名前のよく似た「明神(みょうじん)様」も同じなの
ではないか。
こんな考えも浮かんだので、その辺のことも探ってみることにしました。
すると、
~(明神は)「名神」(みょうじん)の転化した語とされ,神を尊んで呼ぶ称~
ですから、天神・雷神よりはもう少し広い範囲の神々を指しているイメージに
なりそうです。
そんな最中にひょっこり知ったのですが、東京2020オリンピック&パラリンピック
競技大会記念貨幣(五百円硬貨)には、この「風神・雷神」がデザインされていた
とのことです。 でも、なんで「風神雷神」なの?
その点については、チャットGPTにお尋ねしてみました。 すると、
1> 日本文化の象徴としての選定
→風神雷神は古来から日本の農耕文化や武士道などにも関連しており、国内外の
参加者や観客に日本の伝統と現代の融合をアピールする効果が期待された。
2> 神話の力強さとスポーツの精神との共鳴:
→スポーツにおける競技者の精神や努力、そして自然の力との対峙は、
風神や雷神の神話にも通じる要素がある。
3> 視覚的な魅力とデザイン性:
→「風神・雷神」は彫刻や絵画などで多くのアーティストによって表現されてきた
モチーフであり、その豊かな表現力と視覚的な魅力が、記念貨幣としての
デザインに適していると見なされたのでは?
なるほど、確かに説得力のある分析になっていて、昨今のAIの能力に妙に感心して
しまったところです。
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