逆転編12/マル秘本戦国武士への郷愁
何年も前のことですが、とある年配者との間でこんな言葉が話題になったことが
ありました。 ~武士道と云ふは死ぬ事と見付けたり~
そして、その時の筆者がこんな感想を漏らしたのを、なにがキッカケだったか、
最近ひょいと思い出したのです。
~武士って、こりゃまた凄い覚悟を持って毎日を過ごしていたようですね~
これは、現代人としては、割合に素直で穏やかな感想だったはずです。
なにせ、~一人の生命は全地球よりも重い~を常識として刷り込まれているのが
現代人ですからねぇ。
もっとも、こちらの現代人の常識の方も少しヘンだといえばヘンな感じがするのですが。
なぜなら、この標語?は「一人の生命>全地球」としているわけですが、冷静に
考えれば必ず、
~全地球がないことには一人の生命だって保全することはできゃせんぞ~
ということに落ち着くはずだからです。
そうした杓子定規な理屈はともかくとして、この「武士道と云うは・・・」という
言葉を初めて知った若い頃の筆者なぞは、そもそも根が素直なタチということもあって、
随分と驚いたものです。
~武士ってこれほどまでに、凄い覚悟を持って日々を過ごしているのか!
圧倒されちゃうなあ~ということです。
「地球より重い(はずの)命」の扱いとしては、現代とはまったく「別次元」の
ものに感じられたからです。
そこで、年配者との間でこんな会話がありました。
筆者「この時代の武士って、とことんストイックな心構えを備えていたんですねぇ」
それに対して、
年配者「言っちゃあなんだが、それはアンポンタンな受け止め方だ」
なぜ、そんな細かいやり取りまでお覚えているかと言えば、年配者の口から出た
この「アンポンタン」という言葉を筆者が耳にしたのは、ホントに久方ぶりのこと
だったからです。
当時でも、ほぼほぼ「死語」だったと言っても差し支えないほどだったでしょう。
幾分横道へ逸れますが、知らない方のために一応の補足をしておくと、
~(アンポンタン/安本丹とは) 間(ま)が抜けていてばかなこと。そういう人~
こんな説明になっています。
では、筆者の受け止め方が、なぜその「アンポンタン」なのかと言えば、
年配者「だって、考えてもみよ。 たとえばだ<交通ルールを守ろう>なんて
スローガンは、それを守らない者が多いから登場するわけだろう」
なるほど確かに! 皆が守っているということなら無用なお節介になるものね。
年配者「ということはだ、早い話が、この時代の武士の生き様は、
<死ぬこととは見つけて>はいなかったことになりゃせんか」
なるほど理屈だなぁ、と感心したものの、その時のお話はここで終わりました。
ところが、これまたひょんなところから、思いもかけず『葉隠』なんていう言葉が
聞こえてきて、昔のどうでもいいような、そんなやりとりを思い出したわけです。
打っちゃっておいても何ら差障りがあるわけではありませんが、そこはヒマ人なりの
矜持もあって、ちょっと首を突っ込んでみる気になったわけです。
さて、~武士道と云ふは死ぬ事と見付けたり~
まずは、この発言の主から探すことにしたのですが、すると、
~肥前国佐賀鍋島藩士・山本常朝(やまもと つねとも/1659-1719年)であり、
その口述内容を、同藩士・田代陣基(たしろ つらもと/1678-1748年)が筆録し
まとめた書物『葉隠』(全11巻/1716年頃)に登場する言葉~
ちなみに、名を「常朝/じょうちょう」と読むようになったのは42歳での出家以後の
こととされています。
ということで、その口述人「山本定朝」についても追ってみました。
つまり、~武士道と云ふは死ぬ事と見付けたり~の言葉を吐いたご本人ということです。
すると、こんな履歴になっています。
~9歳のとき、鍋島光茂(佐賀藩2代藩主/1632-1700年)の小僧として召し使われ、
20歳代で、神・儒・仏の学をきわめ藩随一の学者といわれた~
殿様に可愛がられただけでなく、頭抜けた学識を備えた人物だったということです。
そして、
~藩主の光茂が69歳の生涯を閉じるや、42歳のこの年までの30年以上を、
「お家を我一人で荷なう」の心意気で側近として仕えた常朝だったが、
追腹禁止により殉死もならず、願い出て出家した~
ちなみに「追腹」とは「殉死」することで、つまり、
~主君の死後、臣下があとに続いて切腹することであり、古くから行なわれたが、
江戸幕府は寛文三(1663)年禁止した~
「武士の本懐を遂げる」ことが禁止された時代に生きるはめになったのですから、
定朝本人にすれば、「自分は死に損ないである」というくらいの忸怩たる思いも
募ったことと思われます。
藩をお役御免となって隠居した田代陣基が常朝を慕い尋ねてきたのが、それから
10年後のことで、二人の語りと筆記が始まり、その6年後(1716年)に田代は
『葉隠』全11巻の編集を了えています。
大層な仕事ということもあって、ついつい二人ともそれなりの高齢に達していたように
思い勝ちですが、これが計算してみると定朝58歳(死61歳)、田代39歳(死71歳)
の時のこととなります。
その意味では、現代とは何かしら年齢感覚が違っていたようにも感じられます。
『葉隠』全11巻 / 山本定朝
さて、その書物『葉隠』にある文言~武士道と云ふは死ぬ事と見付けたり~については
こんな「注意喚起」もありました。
~『葉隠』の記述の中で特に有名な一節であるが、『葉隠』の全体を理解せず、
ただとある目的のためには死を厭わないとすることを武士道精神と解釈されて
しまっている事が多い~
「解釈されてしまっている」と言っているのですから、裏を返せばそれは「誤解」と
いうことになりそうです。
要するに、若き日の筆者もそうした誤解者の一味だったということです。
~実際、太平洋戦争中の特攻、玉砕や自決時にこの言葉が使われた事実もあり、
現在もこのような解釈をされるケースが多い。
しかしながら、そのような解釈は全くの見当違いである~
あっちゃー「全くの見当違い」ってか。
そこにはこんな時代背景が紹介されていました。
~江戸時代はじめ、幕府の意向で中央に近いところでは儒教的な服従と秩序と規律の
価値が重視され、武士は役人としての仕事にあくせくしていた~
言い換えるなら、戦国時代には歴とした軍人だった武士は、平和な江戸時代には
官僚(役人)に生まれ変わっていた、ということになりそうです。
~しかし江戸(つまり大都会?)から遠ざかるにつれ、教養のある人々(インテリ?)
のところから、もっと鬱屈した人間(凡人?)たちのところへ行くにつれて、
中央の思想とは違った感情に人は出会うこととなる。
名誉心はいっそう峻厳なものとなり、忠誠心はいやが上にも賛美され、単に有用な
だけの才能を軽侮することをもってよしとする風があった~
そして案の定、こんな説明が続きます。
~死が身近であった戦国の精神がそこには生き残っていた。
山本常朝が九州の片隅、肥前(今の佐賀市)で最もラディカルな武士道の書、
『葉隠』を口述しえたのはそのような背景がある~
そして、
~徐々に藩士に対する教育の柱として重要視されるようになり、「鍋島論語」とも
呼ばれた~
ハイカラな(目新しい)江戸気風を良しとしないばかりか、ホンマモンの武士気風を
継承している者こそここ肥前に在る、という矜持なのでしょう。
しかしこれを岡目八目で眺めるなら、明白に「我田引水/独りよがり」です。
ですから、ずっと続いた、何事も『葉隠』的な価値観で物事を進める姿は、
後の時代には批判の対象にもなりました。
たとえば、江戸時代後期の佐賀藩の朱子学者・古賀穀堂(1778-1836年)などは、
こんなことも言ったようです。
~なにごとも『葉隠』一冊で済ませてしまおうとするから、佐賀藩士は学問に対し
すこぶる不熱心なのだ~
また、明治新政府では重きをなした同じく佐賀藩出身の大隈重信(1838-1922年)も
この『葉隠』の内容を、古い世を代表する考え方だと批判しています。
ただ、意外な感もありますが、実は『葉隠』そのものが、巻頭でこんなことを
記しているのです。
~内容を覚えたならば、全巻すべては火に投じて燃やしてしまう気概と覚悟が
肝要である~
うっかり露見しようものなら、江戸幕府に睨まれることは必至ですから、それを
恐れたための注意書きだったのかもしれません。
~武士道と云ふは死ぬ事と見付けたり~
ともあれ、この過激な言葉が現代にも伝わっているという事実は、皆が皆
言いつけられていた~覚えたら火中にくべて燃やすよう~を実行したワケでは
なかったことになりそうです。
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