女性編33/絶世美女と御祭神の転生
さて、お遊び半分のクイズです。
活動時期には前後100年ほどの開きがある方々ですが、以下の四人には、
共通点があります。 ではそれはなに?
〇山上憶良(660?-733年?)貴族・歌人
〇吉備真備 (695-775年)右大臣・公卿・学者
〇最澄 (766?-822年)天台宗開祖/伝教大師
〇空海 (774-835年)真言宗開祖/弘法大師
正解は、~どなたも遣唐使を経験していること~
ではもう少し突っ込んで、その「遣唐使」っていったいどんな立場だったの?
こんな説明になっています。
~日本古代の朝廷が唐(中国)に派遣した使節~
至極当たり前の説明ですが、そこをヒツコクさらにもう一歩進んでみると、
~目的は国際情勢を知り、大陸文化を輸入することが主。
使節団の構成は大使およびその使人や留学生・学問僧らの随員など。
一行は240人ほどから500人以上に及び、ふつう4隻に分乗した~
そして、その往来についてはこんな説明になっています。
~日本が唐(618-907年)に派遣した使節で、630年に始まり以降200年以上の間、
十数回にわたって派遣した。
最終は894年に56年ぶりに使節派遣の再開が計画されたが、907年に唐が滅ぶと、
そのまま消滅する形となった~
「唐」という国家がなくなってしまったなら「遣唐使」も消滅するのは当然です。
ところが、その「遣唐使」に対する唐・日本双方の意識については、実は
微妙な(大きな?)違いがあったようです。
~日本側の史料では唐の皇帝と同等に交易・外交をしていたと記して対等な姿勢を
とろうとしたが、唐の認識として朝貢国として扱い、(歴史書などの)記述では、
「倭国が唐に派遣した朝貢使」とされる~
つまり、皇帝に対して周辺諸国(この場合は日本)の君主が貢物を献上するための
使節を送ったものとしているのが中国側の見解で、つまりは「自分の方が上」とする
「中華思想」にどこまでもドップリと漬かった受け止め方をしているワケです。
さて、その中国・唐王朝第6代の皇帝となったのが玄宗(685-762年)という方でした。
そして、その唐王朝の初期には、皇帝の妻たちのうち「皇后」の下に
「貴妃/淑妃/徳妃」を設けて、これをまとめて四夫人と称していたようです。
ええ、話題は当初の「遣唐使」から、なんらの断りもないままに、とっくに唐の
「玄宗皇帝」に移っていますから、負けずについてきてくださいね。
さて、皇后に次ぐとされるその貴妃に注目してみると、玄宗皇帝の貴妃となったのが、
姓は楊、名は玉環という女性だとされています。
この運びでとっくにお気づきかとは思いますが、念のため別の呼び方で表すなら、
ええあの有名な「楊貴妃」(719-756年)のことです。
そしてこの楊貴妃こそは中国においても「美女中の美女」とされる存在で、少し例を
挙げるなら「古代中国四大美人」の一人に挙げられていますし、それどころか、
なんと「世界三大美人」の一人に数えられているほどのものです。
念のためですが、その御三方とは、
〇クレオパトラ7世(前69年-前30年)/
〇ヘレネー(ギリシア神話に登場する架空の女性)/&〇楊貴妃
但し、神話上の「ヘレネー」に変わって、実在した「小野小町」(生没年不詳/
平安時代前期)を挙げる日本版バージョンもあるようですが。
さらには、美女は美女でも「傾国の美女」とされる一人でもありました。
その「傾国の美女」って、いったいどんな美女のことですか?
~元首が寵愛にかまけて政治を疎かにしたため、その国家が崩壊に至った女性をいう~
ですからこの場合は、玄宗皇帝が楊貴妃を寵愛しすぎたために、肝心の政が疎かに
なってしまい、その結果として「安禄山の乱/安史の乱」(755-763年)を招き、
当の玄宗と楊貴妃が没落と死に至ったという史実を指しているのでしょう。
ここからお話は、またまた急転します。
さて、日頃は熱田を生息地としている筆者ですが、その楊貴妃がなんとこの熱田にも
深い縁があったことを、不覚なことについ最近になって知りました。
熱田神宮刊の「神話と歴史でたどる 熱田神宮 千九百年の歴史」とタイトルされた
パンフレットにこんな記事を見つけたのです。
【中世】-●蓬莱伝説 の項(P12)です。
~また、熱田大神が中国に渡って楊貴妃となった話はあまりにも有名で、
歌人の間で歌にもされていますが(以下省略)~
ちなみにこの熱田大神とは熱田神宮の御祭神であり、天照大神を指すとされています。
しかしまぁ、「あまりにも有名」とされているのにそれを知らなかったのですから、
筆者は「モグリの熱田っ子」と言われても仕方のないとことです。
そこで、念のために周囲の方々にも確認してみたのですが、なんと誰一人として
知ってはいなかったのです。 「あまりにも有名」な割には意外な結果でした。
神様とて多少ホラを吹くこともあるのかもしれませんねぇ。
では、このお話がとことんのデッチ上げかと言えば、実はそうでもないようなのです。
ネットを初めとして諸々にそれ系のお話も取り上げられているからです。
~唐の玄宗皇帝が日本を侵略しようとしたとき、日本の神々が協議した結果、
熱田の大神が楊家に生まれて貴妃となることとなった。
そして、玄宗に仕えてその心をたぶらかせ、日本侵攻を思いとどまらせた~
実は、この玄宗皇帝が生まれる四半世紀ほど前の出来事になりますが、実際に
日本と唐・新羅連合軍が戦った事件が起こっています。
日本がボロ負けした「白村江の戦い」(663年)がそれで、唐軍のさらなる侵攻に怯えた
この時の日本側は、それまでの都を棄て内陸(近江京)へ遷したほどでした。
そうした生々しい記憶がまだまだ消えていない時期ですから、唐の「日本侵攻」に
対する恐怖感には大きなものがあったに違いありません。
そんな折も折、
~玄宗皇帝の「日本侵攻」計画を思い留まらせたのは、楊貴妃に生まれ変わった
熱田大神だった~
このように言っているわけですから、言い方を変えれば、
~玄宗皇帝の野望を打ち砕いたのは熱田大神の神威に他ならず、日本が救われた
原因はここにある~ということになります。
つまり、その熱田大神を御祭神とする熱田神宮からすれば、このエピソードが
「あまりにも有名」でないと、ちょっとばかり格好がつかないということだった
のかもしれません。
で、お話は続きます。
~しかし、玄宗は「安禄山の乱/安史の乱」で都を追われ、その途中、楊貴妃は
玄宗の部下に殺されて(縊死)しまった~
史実も確かにこのような運びになっていました。
楊貴妃(尾張名所図会) / 熱田神宮・楊貴妃石碑址?
ところが、お話はまたまた急転直下です。
~そのとき楊貴妃はたちまち元の熱田の大神に戻り、船に乗って熱田神宮に帰還した
という~
そして、
~熱田神宮の境内には(かつて)楊貴妃の石塔と言われるものがあった~
実際、そのことは戦国時代の古図(1529年)にも描かれているという証言?もあります。
「石塔」というからには、普通には「故人を弔うための仏塔」のことであり、もう少し
頑張るなら「石墓」と言ってもいいのかもしれません。
「ここにそれがあったらしいぞ」というお話ですから、そのお話に従えば、楊貴妃が
亡くなったのは大陸ではなく「この日本だったらしいぞ」ということにも
ならないわけではなさそうです。
それはともかくとして、その上にこんなことも伝えられています。
~それ(石塔)は境内の末社・清水社の近くにあったが、貞亨三年(1686)の造営の
ときに廃絶された。
今日では、清水社の湧き水の中の石が石塔の頭部であると言われている~
なんだ、そうした行ったり来たりの経歴は知らなかったが、その石のことなら筆者も
よくご存じだぞ。
なぜなら、確か小学生時代の夏休みに開かれた、熱田神宮の森を教室としたいわゆる
「林間学習」の折に、そこでこんなことを教わっていたからです。
~手元に置かれている柄杓で湧き水をすくい、水面から頭を出しているその石を
目掛けて三度水をかける(石に命中する)と願いが叶う~
そういう経緯もあったことから、大人になってからこの石に会う機会があると、
こんな願掛けをするようになったのです。 ~今度こそ宝クジが当たりますように~
ただ、現在時点では「見果てぬ夢」のままです。
その原因が、筆者の信心不足にあるのか、はたまた熱田大神の実力不足にあるのか、
そのへんはよく分かりませんが、大変に残念無念であることだけは、まったく
確かな事実として続いているのです。
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