大雑把編12 速度をどう表現したの?
重さや長さなどを表わす「単位」は、当然ながら日本史にもいろいろな形で
登場しています。
では、そうした単位のうちに「速度(スピード)」を表すものあったものでしょうか?
現代でいう「時速〇km」といった類の単位のことです。
それを表すために必要な要素、「距離」と「時間」についての単位は確かにありました。
距離については、基本的で代表的な単位は「里」ということになるのでしょう。
では、その「里」とはいったいどのくらいの距離なのか?
ほんのお気楽な問い掛けにも感じられますが、実は結構ウルサイ説明になっているのです。
~1里歩くのにかかる大体の時間から、「その時間」に歩いた距離を1里と
呼ぶようになった~
何を言っているのさ?
こんな説明では、まるで「循環論理」もどきで正気のサタデーナイト。
念のために、その言葉にも触れておくと、
~循環論法とは、論証する事柄がその論証の根拠となってしまう論理展開で、
論点先取の虚偽の一種とされ、アカデミックの世界では最も避けたい
論理展開のひとつとされている~
それはそれでよろしいとしても、しかし、距離の基準としての「1里」についての
説明はさすがに大雑把に過ぎる印象です。
そこで、もう少し深追いしてみると、江戸時代には「36町里」を「里」の標準に
したとの説明です。
ではでは、その「町里」とは?
これも、当時はそれほど厳密な定義がなかったようで、明治になってからメートルを
基準として、1200メートル=11町と定めたそうですから、まあ、
1町≒109メートル程度ということになるのでしょうか?
つまり1里はその36倍、1200÷11×36で≒3.9kmということになるわけです。
現在は徒歩の場合の速度は、概ね時速4km程度とされていますから、まあ、
現在でいう「1時間」程度の時間でこの36町里の距離を歩いた理屈になります。
そうすると元へ戻って、説明にある「その時間」とはどの時間のことなのか?
江戸時代は、明け六ッ(日の出)、暮れ六ッ(日没)を基準にしてそれぞれを
6等分したものを一刻という時間の単位にしていたということですから、季節によって
一刻の長さは異なります。(不定時法)
たとえば、筆者の生息地・名古屋の場合を例に取ってみましょう。
その夏至と冬至の折の日の出・日の入りの時刻を調べてみたところ、
「その年によって多少前後はするものの、概ねの目安として」との断り付きながら、
こんな数字が謳われていました。
〇夏至(6月21日頃)
/日の出:4時40分ごろ/日の入り:19時15分ごろ/日照時間:約14時間35分
〇冬至(12月22日頃)
/日の出:6時58分ごろ/日の入り:16時45分ごろ/日照時間:約9時間47分
で、上の説明に従って、
~明け六ッ(日の出)、暮れ六ッ(日没)を基準にして、それぞれを6等分~
してみると、こうなります。
夏至の場合の昼間の一刻(とき)は、
14時間35分(875分)÷6等分≒146分(2時間26分)となり、
冬至の場合の昼間の一刻は。
9時間47分(587分)÷6等分≒98分(1時間38分)となります。
同じ「一刻」という言葉を使っても、夏至と冬至では、現在の時間に直すなら
なんと約「48分」もの大きな違いがあったということです。
それを思えば、上の
~1里歩くのにかかる大体の時間から、「その時間」に歩いた距離を1里と呼ぶように
なった~ との大雑把で堂々巡りのような説明は、ある意味止むを得ないこと
でもあり、また反面では「的確」だとも言えそうです。
そうすると、「時速」を表わす公式「距離÷時間」の分母である「時間」が、
江戸時代の頃は、そもそも一定したものではなかったということになります。
だったら、現代で言う「時速」を比べることはできなかったことにもなりそうです。
「分母」が流動的なのですから、当然と言えば当然のことかもしれません。
ですから、たとえばの話、かなりの足自慢の飛脚がいたとしても、いささか迫力に
欠けた、自慢しかできなかったことになりそうです。
たとえば、せいぜいがこの程度のものになりそうです。
~オレの走りなら、夏至の頃の四半刻で、ざっと120町里は楽勝だゼ~
ですから、この頃には「速度/スピード/時速」という概念が無かったということに
なるのかもしれません。
不定時法 / 飛脚
折角ですから、歴史の中の「スピード」にも目を向けてみましょう。
たとえば「本能寺の変」(1582年)の直後に見せた羽柴秀吉のいわゆる
「中国大返し」(岡山→京都)を取り上げてみます。
するとこれなどは、岡山→京都の≒200kmを、これも≒6日間で走破したとされています。
なにせその数25,000人もの将兵がいくつかの日を跨いで、目的地・京まで行軍を
し続けようというのですから結構凄まじくもある光景です。
しかも、機械ではなく人間の移動ですから、適宜の休息時間も欠かすことはできません。
休息が無ければ、京に到着する前に間違いなくバテてしまうからです。
そこで、計算。
まあ、なんやかやで行軍に使えた時間を16時間/日として、その内の半分の
時間(8時間)を実際に歩き続けていたとすると、
200km÷(6日×8時間=48時間)となり、単純計算では≒4.0km/hほどの
進軍スピードということになります。
普通に歩く≒4.0km/hという現代の徒歩感覚に比べて、
”なんだ、意外にゆっくりなんだな”と受け止めるのは誤解です。
かなりの装備を身体から外して別送する方法を採った、ともされているようですが、
ともかく“武装行軍”には違いない上に、ましてや、現代のような歩きやすい仕様の
ウォーキング・シューズを履いていたわけでもないのですからね。
もう一つ見てみましょう。
こちらは、いわゆる「元禄赤穂事件」(1701年)の折の第一使者(江戸→赤穂)の
江戸→赤穂間の移動です。
「元禄赤穂事件」といえば、日本人なら知らない人以外は誰もが知っていると
される超有名な事件です。
ちなみに、こんな説明になるのでしょうか。
~江戸城内において、指導役の吉良上野介に突如斬りかかった播州赤穂藩主・
浅野内匠頭が幕府より切腹を命じられた~
この「大事件」を国許へ知らせるために、藩士二人がその使者が立てられます。
萱野三平(重実/1675-1702年)と早水藤左衛門(満尭/1664-1703年)です。
この二人の藩士は早駕籠に乗り続けるスタイルで、江戸から国許・赤穂までの
距離にして≒670kmを、なんと≒4日半で移動したということです。
さすがにこちらは「自分の足」で、というわけにはいかず乗物を利用しました。
この道中を、仮にまったくの不眠不休とした前提で単純計算に及ぶと、
670km÷(4.5日×24時間=108時間)となり、そのスピードは≒6.2km/hになります。
ですから、当時は確かに「驚愕のスピード」だったかもしれません。
さらに驚愕なのは、赤穂到着までの4日半の道中を、早駕籠に揺られ続けた
藩士二人の行動の方です。
なぜなら、その4日半は、一瞬たりとも横になるはできませんし、そして、
おそらくは「籠酔い」?や「腸捻転」?もどきの症状に苦しみながらのことであり、
さらにその上に、ウッカリ「舌を噛んで死亡」という事故の防止にも対処しながら、
ということになりますから、掛け値なしにガッツ溢れる行動です。
この「4日半もの早駕籠旅」はもうほとんど「拷問」のレベルの所業ですから、
並みの現代人にはとても務まるものとは思えません。
そうした意味からすれば、昔の人に「速度/スピード/時速」という概念や単位が
あったのかなかったという今回の考察ごときは、とてつもなく枝葉末節なことにも
思えてくる今日この頃の筆者・・・ということになりそうです。
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