ヤジ馬の日本史

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ツッパリ編35/あれは紀ノ国ミカン船

住兵衛

~沖の暗いのに白帆が見ゆる、あれは紀ノ国ミカン船~
このとき「舅の高松河内から大金を借りてミカンを買い集め、家に残ったぼろい大船を
直し、荒くれの船乗り達を説得し命懸けで嵐の太平洋に船出した」
とされる
紀伊国屋文左衛門の様子はこう唄われました。


では、なんでまたそんな「命懸けの船出」を?
そこにはこんな事情がありました。
~紀州は驚くほどミカンが大豊作だったある年のこと、収穫されたミカンを江戸に
 運ぼうとしたが、その年の江戸への航路は嵐に閉ざされて運べなくなった。
 余ったミカンは上方商人に買い叩かれ、価格は暴落した~


山ほどの「商品」(ミカン)があるのに、「市場」(流通)の方が閉ざされた
格好ですから、いわゆる「需要と供給」の関係から「商品価格」が暴落してしまう
のは当然のことです。
しかも、その江戸には当時こんな風習があったようですからなおさらでした。


~毎年のこと、鍛冶屋の屋根から「ミカン」をばら撒いて地域の人に振舞い、
 鍛冶屋の神様を祝う「ふいご祭り」が行われていた~

そんな江戸では肝心の「ミカン」が絶望的に品薄になっていたわけです。


~生産地・紀州では大豊作でダラ安になり、消費地・江戸では極端な品薄に落ち込んだ
 ミカンの価格がメッチャ高騰していた~
ことになります。
そういうことなら、どこぞの誰かがこれをビジネスチャンスとして目をつけそうな
ものです。


実際それが紀伊国屋文左衛門だったわけで、ミカンを買い集めるや
「命懸けで嵐の太平洋に船出した」というわけです。
何かしら、あまりにも手際が良すぎるようにも感じますが、それを脇に置いて先へ進むと、
~大波を越え、風雨に耐えて何度も死ぬ思いをしながら、文左衛門はついに江戸へ
 たどり着く事が出来た~


ただこの場合、たどり着いただけでは意味がありません。
~ミカンが不足していた江戸でミカンは高く売れて、嵐を乗り越えて江戸の人たちの
 為に頑張ったと、江戸っ子の人気者になった~

この博打的ビッグ・ビジネスは大成功を収めたということです。

   紀文・ミカン船


お話はそれだけで終わりません。 こんな後日談がありました。
~大坂で大洪水が起きて伝染病が流行っていると知った文左衛門は、江戸にある塩鮭を
 買えるだけ買って、先に「流行り病には塩鮭が一番」と噂を流し上方に戻った~


こうなると、お話の展開は想像がつきます。 案の定、
~噂を信じた上方の人々は我先にと塩鮭を買い求め、文左衛門が運んできた塩鮭は
 飛ぶように売れた~

さらに、この先には、
~紀州と江戸を往復し大金を手にした文左衛門は、その元手で江戸に材木問屋を開き、
 こうして、しがない小商人から豪商へと出世し、富と名声を掴んだ~


そして、そうした文左衛門の名が「大尽」として挙げられるようにもなりました。
ちなみに、その「大尽」とは、こんな人のことを言います
1・財産を多く持っている人/財産家/大金持ち。
2・遊里で多くの金を使って豪遊する客。

今風の言葉なら大富豪/金満家/セレブほどの表現になるのでしょうか。


さて、ここから先は少なからず蛇足感が伴う話題です。
そうした「大尽」なる代表的な人物として、多くの場合この二人の名前が挙げられます。


〇初代・紀伊国屋文左衛門(1669?-1734年) 享年66?
〇初代・奈良屋 茂左衛門(生年不詳-1714年)
ただし、双方ともにその名は次世代以降にも引き継がれたので、ここでは敢えて
「初代」との断りを付けています。


その「大尽ぶり」については、こんな案内もあるほどです。
~吉原の遊女を身請けするなど、紀伊國屋文左衛門と奈良屋茂左衛門は対抗して
 放蕩の限りを尽くした~

このくらいやらないことには、とても「大尽」とは呼んでもらえないようです。


それはさておき、この「ミカン船」による紀伊国屋文左衛門のエピソードはすこぶる
ドラマチックな展開で心躍るものがあります。
ところがドッコイ、これを史実でないとする見方があることを、筆者は最近になって
知った次第です。


あっちゃーですが、それによると、
~この伝説は幕末に刊行された小説に描かれたものであり史実ではない~
なんだとぉ、小説が出処だってか? でもひょっとしたら、そうなのかもしれません。


なぜなら、
~このお話は文左衛門の在世中および死去間もない時期の資料には見えない~
こう説明されているばかりか、紀文のこの冒険話?が広まったのは、なんと明治時代に
入ってからのこととされているからです。


 

 紀伊国屋文左衛門 / 吉原遊郭


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では、紀伊国屋文左衛門こと「紀文」(享年66?)が活動したのは、一体どんな
時代だったのでしょうか? それを探ってみました。
すると、生年不詳とはされているものの、没年と享年から単純に逆算してみると、
生年は「1670年」頃、あるいはもう少し以前のことのこととなりそうです。


そして、その「紀文」がざっと30歳くらいの頃(1700年頃)の御時世を整理して
みるとこんな感じになります。
〇天皇/第113代・東山天皇(在位期間:1687-1709年)
〇将軍/第5代・徳川綱吉(在職期間:1680-1709年)
〇元号/元禄(元年-17年) /西暦なら1688-1704年
〇事件/元禄赤穂事件(殿中刃傷1701年/吉良邸討ち入り1703年)


そして、この頃の紀伊藩について、こんな説明も見つけました。
~紀州ミカンは、この頃まだ江戸へ出荷されていなかった~
要するに、紀州ミカンを江戸で消費するための流通ルートも販売ルートもまだまだ
確立していなかったと言っているようです。


さらには、~ミカンは特産品であり、流通は藩が管理していた~
藩の「専売」になっていたということでしょう。
もし、そういうことなら普通は一般商人が手を出すことはできないはずです。
現在で言うなら、国の専売品を許可なく横流し販売するようなものですから、
バッチリ不法行為・犯罪行為ということになってしまいます。


ましてや、当時は青二才の存在に過ぎなかったであろう紀文が、そうした環境下で、
買い付けをすることなど不可能だったようにも思えます。
ですから、「命懸けの嵐の中のミカン船」のエピソードには、やはりいささかの疑問符が
つきそうです。 


ただ、商売で成功を収めたのは事実のようです。
~紀州と江戸を往復し大金を手にした文左衛門は、その元手で江戸に材木問屋を開く。
 こうして文左衛門はしがない小商人から豪商へと出世、富と名声を掴んだ~


さらには、
~元禄年間には江戸八丁堀へ住み、江戸幕府の側用人・柳沢吉保(1659-1714年)や
 勘定奉行の荻原重秀(1658-1713年)、老中の阿部正武(1649-1704年)らに
 賄賂を贈り接近したと言われる~


ちなみに、現代感覚なら側用人≒政府官房長官、勘定奉行≒財務大臣、老中≒総理大臣
といったところでしょうから、「政治家と結びついて儲ける商人」という意味では、
いわゆる「政商」的な存在だったのかもしれません。


その「政商」紀伊国屋文左衛門はさらに、
~上野寛永寺根本中堂の造営(1698年落成)で巨利を得て幕府御用達の材木商人と
 なる~

しかし、~深川木場を火災で焼失し、材木屋は廃業(1710年)した~


なにかと浮き沈みが忙しく感じられる人物ですが、「紀文」のビジネスはなにも
材木屋に限ってはいませんでした。
なにせ「政商」ですから、その守備範囲も広いわけです。
~また、幕府から十文銭(宝永通宝)の鋳造を請け負ったが、文左衛門の造った
 十文銭はとても質が悪く、五代将軍綱吉の死(1709年)と同時にこの十文銭は
 1年で通用が停止されてしまった~


さすがの「政商」も、この「十文銭通用停止」では、メッチャ大きなダメージを
受けたようです。
~そのことによって、大きな損失を被り商売への意欲を失ってしまった~
そして、さらには、
~全財産をつぎこんだ十文銭の鋳造事業の失敗により、以降は乞食同然の生活となり
 哀れな晩年を送った~


ところがドッコイ、実はこれとは真逆の異説もあるのです。
~深川富岡八幡宮に総金張りの神輿三基を奉納(1717年/紀文49歳頃?)したり、
 大火で消失した富岡八幡宮社殿建立費用に全財産を寄進(時期不詳)したりと、
 潤沢な資産を持っていたとも言われる~

晩年ですら「乞食同然」から「潤沢資産」までの説があるのですから、この「紀文」の
生き様には多くの謎があるとは言えそうです。


ちなみに、大相撲の取組み前に「呼び出し」が懸賞幕を持って土俵を周ることが
ありますが、その「呼び出し」の衣装の背中に、あるいは取組みの懸賞幕に「紀文」の
文字があることに、先日ひょいと気が付きました。


但し、こちらはミカン船の紀伊国屋文左衛門「紀文」とは関係がないようです。
海産物卸売会社の「紀文」であり、またその屋号の由来については、こんな説明に
なっていました。
~改称前の「紀国屋果物店」の「紀」と、創業者である保芦邦人(ほあし くにひと/
 1913年- 1989年)氏の奥さまである文子さんの「文」を組み合わせたもの~


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