信仰編23 本邦尼僧ここに始まる
明治時代以降次第に解禁されていったようですが、それまでの社寺や霊山などでは
「女人禁制」、つまり女性に対する入山禁止を原則としていました。
そこには、現代における「女性差別」とか「女性蔑視」とはいささか意味合いの
異なる「信仰上の理由」があったとされています。
そうしたところの見解をメッチャ簡単に並べれば、こんな感じになるのでしょうか?
神道→ 出産や月経の際に血を流す女性そのものを、穢れた存在と見なした?
(流血している男性も同様に見做した)
仏教→ 女性は修行の妨げ(誘惑に負けそう)になるとして、なるべく遠ざけるための
配慮? (開祖・釈迦が男性であったことも影響を及ぼしたのかも?)
こうした「信仰上の理由」をずっと厳格に守り続けていたとするなら、当然のこと、
「尼僧」(女性僧)などは誕生しなかった、ということになるはずです。
ところが、日本史を眺めても、そこに登場する「尼僧」は決して少なくもありません。
こりゃまた、一体どうしたことだ?
お話を遡ってみましょう。
さて、百済・聖明王が先端・中国文化の象徴として、仏像やら経典などを日本に寄贈
したのが538年のこと。
これが「仏教公伝」と言われる出来事であり、日本の仏教文化はここから始まったと
されています。
ただ、民間ではこれより早い時期にすでに仏教のある程度の広まりはあったものと
推察されています。
なぜなら、いつの時代も政府より民間の方が敏捷な動きを見せるものですから、
こうした見方があることは特段に不思議でもありません。
もっとも、この「仏教公伝」後の広がりは、必ずしも順風満帆とはいきませんでした。
その受け入れに反対する物部氏と、賛成する蘇我氏との間に激しい対立があった
からです。
その辺のところは、通説ではこんな具合に語られているようです。
~百済王からの伝来を受けや欽明天皇は、これを礼すべきかどうか、
群臣の意見を聞いた~
これに対し、蘇我稲目は
~西の諸国はみな仏を礼しております。日本だけこれに背くことができましょうか~
と受容を勧めたのに対し、物部尾輿・中臣鎌子らは
~我が国の王の天下のもとには、天地に180の神がいます。
今改めて蕃神を拝せば、国神たちの怒りをかう恐れがあります~と反対した。
これが、いわゆる「崇仏・廃仏論争」と言われる出来事であり、この対立は、
やがて軍事衝突(崇仏戦争/587年)へと進み、これに賛成派・蘇我氏が
最終的に勝利したことにより、やっとのこと「仏教」が、この日本に受け入れられる
ことになったとされています。
ところが、実はこの戦争の3年も前の584年のこと、本邦初?の、現代で言う
「お坊様」・・・つまり「仏教僧」が誕生しているのです。
しかも驚くなかれ、この時出家得度をした三人ともが、なんと「女性」だったのです。
いつの時代にも「跳んでる女性」がいるものですねぇ。
折角ですから、その三人の女性それぞれについても、もう少し知っておくことに
しましょう。
まず最初に、その名を「善信尼」(ぜんしんに/574?-?年)とする、この時
わずか11歳の少女。
そして、その弟子として「恵善尼」(えぜんに/生没年不詳)と
「禅蔵尼」(ぜんぞうに/生没年不詳)。
それぞれの年齢は分かりませんが、しかし11歳の少女を師として、その弟子という
のですから、師より年少だったと見るのが常識的でしょう。
師と弟子の関係にあった少女三人ということになりますから、つまり、
日本の「仏教人」は「尼僧」(女性)から始まったことになりそうです。
しかし、まだこの頃は仏教反対派の巨頭・物部守屋(生年不詳-587年)が健在な
時期だったこともあって、仏教に対するその迫害もハンパなく激しかったようです。
この三人にはこんな過酷なお話も残されているほどです。
~法衣を奪われた上に全裸にされ、群衆の目前で鞭打たれた~
仏教三尼 / 崇仏戦争
む、惨い!
正義感を持ってこんなことまで実行してしまうのですから、信仰の世界には
過激な一面があることは間違いありません。
で、お話は元へ戻りますが、六世紀のこの「尼僧誕生」から、仏教の定着へ向けて
動き出したとするなら、その後の時代の「女人禁制」は一体どういうキッカケで
始まったものか?
蛇足ながら、「尼僧」とはいえ、この善信尼たちは現在の「巫女」的な役割も
備えていたとの見方もあるようです。
なるほど確かに、仏教が確立していくのは先に挙げた「崇仏戦争」(587年)以後の
ことですから、納得がいく見方です。
だいたいが、「本邦初」なんて大それたことは、それなりに濃くて大きな下地・
動機・キッカケなどが無いことには、なかなか実現できるものではありません。
しかしながら、「女人禁制」については、その思想が定着した「時期」や、あるいは
「誰が」最初に始めたか、などの点についての確かなところは、どうもよく分かって
いないようです。
そうした状況に便乗?するわけではありませんが、案外こういうところだったのかも
しれません。
~なんとはなしにねぇ、自然にそうなっていったのよねぇ~
まことに無責任かつ不敬な見解で恐縮ですが、この~自然に~という論法は、
日本人の昔からの「民族的特技」ですから、仮にそうであったとしても、
特別に不自然ということにはならないような気もするところです。
だって、こんなことをおっしゃる御仁も現におられたのですからね。
~私たちって、気が付いたら自然に結婚していたのよねぇ~
筆者的には、なんとなく釈然としないものも感じますが、まあ他人の結婚について、
傍がとやかく口を挟むのは野暮の極みですからねぇ、止めておくことにしましょう。
お話がドンと逸れてしまいました。
しかしそういうことなら、明治時代以降になって「女人禁制」が今度は次第に解かれて
いったのも、「信仰上の理由」を超越して、いわば~自然にそうなっていった~だけ
のことだとも考えられることになりそうです。
でももし、そんなことを「善信尼」たち三人の少女が知ったら怒り心頭でしょうよ、
きっとなら。
だって、~だったら、素っ裸に剥かれてムチ打たれたのは、いったい何だったの?~
ということになってしまいますからねぇ。
もっとも、「女人禁制」が解除されていったことには、別にこんな醒めた見方も
あるにはあるようです。
~新たな観光地?として成り立とうとする寺社が、男性より買物に活発な
「女性」客?を呼び寄せようとするなら、「女人禁制」はまことに都合が悪い
制限であるから、そこはしらばくれていったのサ~
これが正確な考察なのかどうかはともかくとして、本邦初の「仏教人」が
「女性」(少女)だったことを知ると、この日本では女性の方が積極的で逞しい働きを
発揮していた歴史的事実を改めて思い知らされるところです。
早い話が、最高神とされる「天照大神」も、また原日本と言ってよさそうな
邪馬台国の王「卑弥呼」も、そしてアナタの奥様も、いずれにせよ「偉い人」と
される方は全部が全部、もれなく女性ですものねぇ。
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