忘れ物41/陸奥国のシュールな世界
奥州藤原氏については、こんな説明になっています。
~前九年の役・後三年の役の後の1087年から、源頼朝に滅ぼされる1189年までの間、
陸奥(後の陸中国)平泉を中心に出羽を含む奥羽地方(現在の東北地方)一帯に勢力を
張った藤原北家の支流の豪族~
この程度の案内でも分かる人には分かるのでしょうが、「これだけではよくわからんがや」
との感想を持つ方も、筆者を初めとして少なからずいそうです。
そこで、まずは上の説明にも使われている歴史用語などから確認し直すことにして
みました。
確かに耳に覚えはあるものの、その中身はといえば「うすらボンヤリ」状態に
なっているからです。
そこで、まずはのっけに登場している「前九年の役」から探ってみると、
~前九年合戦(ぜんくねんかっせん)ともいう。
陸奥国の豪族・安倍氏と陸奥国司の争いに端を発し、陸奥守兼鎮守府将軍・
源頼義が出羽国の豪族・清原氏と結んで安倍氏を滅ぼす結果となった~
要するに、陸奥国内部での対立に、東国の勢力が介入してきたとの印象になります。
では、その介入の成果は?
~安倍氏の滅亡により清原氏がその勢力を拡大させ、後三年の役につながることとなり、
河内源氏が東国の武士と主従関係を形成する一つの契機となったとされる~
ちなみに、この源頼義(988-1075年/享年88)とは、
~鎌倉に鶴岡八幡宮を創建した人物~
との紹介になっており、後に鎌倉幕府を創立することになる源頼朝(1147-1199年)は、
この頼義の五世孫(孫の曽孫)の一人にあたるようです。
続いては「後三年の役」です。
~後三年合戦(ごさんねんかっせん)ともいう。
前九年の役の後、奥羽を実質支配していた清原氏が滅亡し、
勝利した藤原清衡を祖とする奥州藤原氏が登場するきっかけとなった~
ただ、こんなことにも触れています。
~他方、朝廷の立場は冷淡で、清衡の勝利を助けた陸奥守・源義家は私戦を
起こしたことを理由に10年にわたって官職から遠ざけられることとなった~
なるほど、なかなかにシビアな一面もあったようですが、ただ「前九年の役・後三年の役」
と聞くと、いつもながらついつい「前後合わせて十二年の役」という思いに
走ってしまいます。
ところがドッコイ、史実のほうはそうはなってはいません。
その年代をよくよく確認をしてみると、「前九年の役」(1051-1062年/12年間)、
「後三年の役」(1083-1087年/5年間)との説明になっていて、歴史用語と
史実とが噛み合っていない、とんとシュールな組み合わせになっているのです。
こうしたシュールな世界こそが「陸奥国」本来の姿なのかもしれません。
そこで、今回の筆者はこの「陸奥国」、その中でも特にシュールさを感じさせる
事象に目を向けてみたのです。
ひどく遠回りしている印象になりそうですが、そうなるとまず登場してくるのが
「平泉文化」ということになりそうです。
~平安時代末の12世紀、奥州藤原氏代の保護のもとに、その居館のあった
平泉を中心に開花した仏教文化~
まんまの説明です。
そこで、もうチョイ押してみると、
~藤原清衡(1056-1128年)がここに本拠を移した(1095年頃)ときから始まるとされる。
(奥州藤原氏)初代・清衡は中尊寺、(二代)基衡は毛越寺、(三代)秀衡は
無量光院を建立し、贅を尽した荘厳のありさまは、まさしく地上に極楽浄土を
再現したごとくであったという~
これだけではいささか説明が弱いと思ったものか、この文章には、こんな一節も
加えられています。
~藤原道長の法成寺、頼通の平等院に比肩するもので・・・~
そして、
~大寺院が甍(いらか)を並べ、諸社が計画的に配置された都市であった~
こうした「計画都市」も、当時としては他には少ない結構シュールな空間だったかも
しれません。
その上に、そこに建設された「金色堂」もまた、おそらくは結構シュールな印象を
与えたことでしょう。
だって、全体がピッカピカの黄金建築物だなんて、そもそもそうした発想自体が
結構シュールですからねぇ。
それに費やした資金は「奥州の金山」が支えました。
日本は昔から多くの金山、銀山を保有した歴史がありましたが、その中でも、
奥州の金は、古くから有名であり、奈良時代から日本の仏教文化にも貢献してきました。
奈良の大仏に奥州の金が使われ、中国の仏教文化にあこがれた聖武天皇を大いに
喜ばせたとも言われています。
その「奥州の金」は、実は近代にも話題に上っています。
~この奥州の黄金文化を支えた金山の一つ、玉山金山は、明治時代には
その周辺を含めて膨大な金鉱があるという報告がなされて、明治政府も注目していた~
日露戦争を想定して明治政府が戦争資金の調達の必要性を感じていた時期でした。
大仏建立という一大文化事業が叶って第45代・聖武天皇(724-749年)を泣いて
喜ばせた金が、千年余を経ると、今度は戦争を目論む政府の軍資金になろうと
いうのですから、これも両極端な扱いで結構にシュール感が漂っています。
それはともかく、ただ、こうした「平泉文化」、言葉を換えれば「奥州藤原氏」の
栄華が永く続くことはありませんでした。
仏教でいう「諸行無常」・・・その通りの経緯を辿ったのです。
~初代・清衡以後、基衡・秀衡の三代にわたって栄華を誇ったが、
源義経を匿まったことなどがあり、1189年源頼朝に四代泰衡が攻められて滅亡。
中尊寺金色堂(岩手県)には、清衡・基衡・秀衡のミイラ化した遺体と
(四代)泰衡の首が葬られている~
この辺のところは、ドラマ・芝居などで描かれることもあって、歴史としても、
割合よく知られています
しかし、まあ「ミイラ」ともなると、古代エジプトの王族はいざ知らず、
12世紀の日本ではさすがに珍しい存在だったことでしょう。
人が亡くなった後の「葬り方」は、土葬から火葬へという大きな時代的変遷はありますが、
しかし、「ミイラとして葬る」方法は、この時代においてさえも結構シュールな
「葬り方」だったと思われます。
それ以前も以後も、そうした例はあまりなかったようですからねぇ。
中尊寺・金色堂 / 奥州藤原氏三代
そんなことから、ほんの軽い気持ちでAIにこんな質問をぶつけてみました。
~現代日本において「ミイラ」として葬るという方法は、法律的には許されているの
でしょうか?~
すると、こんな質問に対しても、ご丁寧なご回答を寄せてくれました。
蛇足ながら、ついでのことですから、それも記しておくことにしましょう。
~現代日本において、「ミイラ」として葬る、すなわち遺体を防腐処理して
長期間保存することは、原則として法律上認められていません~
法律的に認められていない、というのですから、実行すれば「犯罪行為」ということに
なるのでしょう。 AIは、その理由についても述べています。
~墓地、埋葬等に関する法律(墓埋法)では、遺体の処理方法としては、
火葬または土葬のみが認められている(現在は火葬が圧倒的多数)~
つまり、
~ミイラ化のような方法はこの法律の想定外であり、合法な埋葬方法には
含まれていない~ということのようです。
ひょっとしたら、日本の気象条件は、昔の昔から、そして現在も「遺体のミイラ化」
には、あまり適していなかった。
あるいは日本民族の感性にはマッチしなかった、ということなのかもしれません。
そうした目線で眺めて見るなら、この時代の「奥州藤原氏三代ミイラ葬」は、
尋常という範疇からはみ出した結構にシュールな出来事にも感じられます。
そうした意味もあって、奥州藤原氏三代の時代の陸奥国については、筆者なぞは
ある種の「シュールな世界」を感じるのです。
ただ、そうしたシュールさに対する好奇心はあるにはあるのですが、自分が
ミイラになることにはこれっぽっちの憧れも抱いてはおりませんので、
ドナタ様もどうか誤解なきようお願いいたしますヨ、ホントに。
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