付録編28/維新後八十年の四民平等
江戸幕府第15代将軍・徳川慶喜が政権返上を明治天皇へ奏上し勅許された、いわゆる
「大政奉還」がなされたのは1867年のことでした。
歴史区分の説明なら「江戸時代が終わって明治時代が始まった」という表現になる
のでしょうか。
「太平の眠り」の中で「黒船来航」(1853年)に遭遇した後の江戸幕府はこれまで
意識する必要もなかった「西欧諸国」と接触する機会が増えたことで「国際社会」と
いう新しい環境にうまく対応することが必要となりました。
しかし、思うように運ぶことができずに、その結果、政権を投げ出さざるを得なく
なってしまったのでした。
江戸幕府に変わって政権を把握した明治新政府にとっては、そうした「西欧諸国」を
強く意識し、上手く付き合っていくことがの最重要課題となりました。
こうした「西欧祖国」、なかでも特にイギリスにいいように食い物にされていた
超大国「清」の姿をすぐ隣に見ていたこともその意識をさらに高めたかもしれません。
一歩間違えば「清国の二の舞」になりかねない、という深刻な心理状況があったのです。
おっと、図らずも「清国」と「深刻」というダジャレもどきになってしまいましたが、
筆者が言いたいことは、実はそれではありません。
日本が西欧諸国の食い物にされないよう、明治新政府は万全の対応を迫られていた
ということを言いたかったのです。
そうした環境下にあって、新政府は国民に対して、これまでの「身分」についての
見直しを進めていきました。
このことの背面には、奴隷という身分を巡ってアメリカ合衆国が国内を二分する
大内乱「南北戦争」(1861~1865年)を引き起こしたという事実があったことも
無関係ではなかったはずです。
奴隷という身分を無くすために、自国民相互が戦って血を流すという姿を見せつけ
られたことで、このように考えが芽生えるのは当然のことだからです。
~固定された身分制度をこのまま存続させることは、我が国とていずれ国内の対立を
招くに違いない~
西欧諸国が「人間は神の下で平等」という思想を備えていたことは知っていました。
オエライさんの州知事であろうと、はたまた一介の鍛冶屋や漁師であろうとも、
一人一人は人間としての価値には差がないという考え方です。
だったら日本の場合だって、同様に「メッチャ大きな存在・天皇」の下では平等、
つまり「四民平等」だとするう考え方が出てきても不思議ではありません。
しかし、そうそう理屈通りに運ばないのが人の世で、この「人間平等/四民平等」と
いう立派な思想に対しても当然のように疑問が呈されます。
~教養ある貴族や殿様と、肥桶を担ぐような百姓が「平等」だなんて、これは
ナンセンスな考え方であり、そこには明瞭な線引きがあってしかるべきだ~
実は、これに反論を加えることはなかなかに難しい。
なぜなら、旧来の身分意識がこの時なおそのまま生き続けているわけですから。
南北戦争
そこで、こんな考え方も出てきました。
~特殊な立場にある人々は別扱いとする方が、やはり収まりがいいのではないか~
一種の「ガス抜き」とも言えそうですし、また「既得権益」の保全という側面もあった
のかもしれませんが、こうした心情から生み出されたのが、いわゆる「華族制度」でした。
それはこのくらいの説明になるようです。
~これは貴族階級を指したもので、封建時代の大名や公家、藩主などの上級武士階級を
近代国家における上流階級として再編成したもの~
そして、この「華族制度」は1869(明治2)年に発足しました。
この制度・仕組みは、よほど日本人の心情にフィットしていたものか、その後ずっと
継続され、ピリオドが打たれたのはなんと太平洋戦争(1941-1945年)が終結した後の
1947(昭和22)年のことでした。
つまり、筆者自身を含め、現在に生きている日本人の大多数は、この「華族制度」を
実際に体験・体感したことがないということになります。
そこで、まことに勝手ながら、今回はその「華族制度」を少し覗いてみることにした
のです。 すると、こんな説明になっています。
~華族は、上位順に5つの爵位(公爵/侯爵/伯爵/子爵/男爵)に分けられた~
折角ですから、その点をチャットGPTにも質問してみました。
~爵位の公爵・侯爵・伯爵・子爵・男爵にはどんな違いがありますか?~
するとたちまちのうちに詳細な返事が頂けました。
但し、ここではそれを抜粋した範囲での御報告に留めます。
~爵位それぞれの地位や名誉には違いがあります。
これらの爵位は、明治維新後に明治政府が導入した西洋の貴族制度に基づくもので、
主にイギリスの貴族制度を参考にしています~
1. 公爵(こうしゃく)/地位:最も高い爵位
授与対象:皇族の一部や明治維新で大きな功績を上げた人物、極めて高貴な家柄。
例::島津氏(薩摩藩)、徳川氏(旧将軍家)
2. 侯爵(こうしゃく)/地位:公爵に次ぐ高位の爵位
授与対象:大名家や明治政府に貢献した有力者、歴史的に高い地位を持つ家柄。
例::前田氏(加賀藩)、毛利氏(長州藩)
3. 伯爵(はくしゃく)/地位:中級の爵位
授与対象:旧大名家の中でも中規模の藩主や、幕末維新期に功績を残した官僚や武士。
例:松平家(会津藩)、伊達家(仙台藩)
4. 子爵(ししゃく)/地位:下級貴族に相当する爵位
授与対象:旧小規模大名や、明治維新後に比較的小さな貢献をした者たち。
また下位の家柄の中で、家系や功績に基づいて評価。
例:土方家、榎本武揚
5. 男爵(だんしゃく)/地位:最も低い爵位
授与対象:小規模な功績者や、維新後の政府での活躍者、あるいは学問や文化での
貢献をした者。
例:福沢諭吉(学者)、大隈重信(政治家)
そして、こんなことも説明されていました。
~これらの爵位は、近代の日本における華族の社会的な階層を反映しており、封建時代の
大名制度を近代国家においても一定の形で維持する役割を果たしていました~
言い換えれば、この制度が廃止された1947(昭和22)年まで、「四民平等」の本来的な
姿は、なかなか登場しなかったということになりそうです。
士農工商から四民平等へ / 爵位
ついでのことに、その「華族」をもう少し追ってみることにしました。 すると、
~華族創設に際して華族に編入されたのは公卿から142家、諸侯から285家の
合計427家である。
この427家が「華族第1号」にあたるが、その数は大政奉還(1867年)時の
公卿・諸侯の数と同数ではない。
その時と比較して公卿は5家、諸侯は16家増加している~
ちなみに、説明にあるその「公卿」って?
これに似た「公家」という似た言葉がありますから、念のために、これも
チャットGPTにお尋ねしてみたのです。 すると、
~「公卿」と「公家」は、どちらも日本の古代から中世にかけての貴族階級を
指す言葉ですが、意味や範囲が異なります~
1. **公卿(くぎょう)**とは
朝廷における高位の官職に就いた貴族を指します。
具体的には、太政官(だじょうかん)の中でも、太政大臣、左大臣、右大臣、大納言、
中納言、参議といった上級の役職に就いた者が「公卿」と呼ばれました。
2. **公家(くげ)**とは
皇族を除く貴族全体を指す用語です。
具体的には、平安時代から江戸時代にかけて、主に朝廷に仕えた貴族やその家系を
意味します。
公家は、公卿を含むより広い範囲の貴族階級を指しており、その中には高位の
公卿だけでなく、下級の官職にある貴族も含まれます。
途中の説明のいささか煩雑な部分はばっさり省略しましたが、最後にはこんなまとめが
されていました。
~このように、「公卿」は高位の役職に就いた貴族であり、
「公家」は貴族階級全体を指す広い概念です~
こういったところは、筆者に限らす少なからずの方も疎いのではないでしょうか。
なぜなら、その「華族制度」が消滅してから八十年近くという長い歳月が経っていますし、
また私たちのほとんどが、華族でもなく公卿でも公家でもない身分なのですから、
これは無理もありません。
そんな話をヒマ人同士でしていたところ、相手がボソッとこう呟いたのです。
~いやぁ、オレの家が「華族」だった可能性は残されているが、オヌシの場合は
「裸族」だった可能性も否定できないゾ~
こういうこと言うからケンカになってしまうのです・・・まったく。
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