列伝編26/乱世に見た楷書的生きざま
合戦頻発という乱世の最中ということもあって、こんな身体つきになっていたようです。
~片目の上に、顔には多数のキズ痕、片足や手指も創傷によって欠損していた~
度重なる参戦による「名誉の負傷」ということでしょうが、ちょっとばかり迫力を
感じさせる容姿・風貌です。
その持ち主は、名を本多重次(通称・作左衛門/1527-1596年)といい、三河の
戦国大名・徳川家康(1543-1616年)に仕えていました。
容姿・風貌だけでなく、備えた気迫にも強いものがあり、さらには怒りやすい性格
だったことも重なって、後には「鬼作左」との綽名も付けられたようです。
それだけではありません。
気性の荒さは主君・家康にも遠慮なく向けられ、強い諫言にも及んだこともあったと
されています。
主君に対して注意やアドバイスのみならず、時にはそれ以上のこともあったという
のですから、並みの家臣とは一味違う存在だったようです。
武士の本分とされる武勇にも秀でていました。
一方の武田信玄と、それに対する徳川家康・織田信長の間の「三方ヶ原の戦い」
(1573年)においては、こんな逸話も伝わっているくらいのものです。
~大敗した徳川軍の中で、自ら敵兵数十人に囲まれて絶体絶命に陥る中、
敵兵の繰り出す槍をたぐって1騎を落馬させ首をかき切るや、その馬を奪って
浜松城に逃げ込んだ~
そして、その「鬼作左」が結構面白い歴史エピソードも残してくれているのです。
折角ですから、それらを眺めることにしましょう。
さて、まず第一に言えること。
それは、主君・家康に対する、この鬼作左の忠臣ぶりが半端ではなかったことです。
そのことは以下のエピソードからも強烈に伝わってきます。
1585年のお話ですが、その頃を少し整理すると実はこんな政治状況にありました。
~織田信長(1534-1582年)が、家臣・明智光秀(1528-1582年)による謀反
「本能寺の変」(1582年)に倒れた後には、羽柴秀吉(1537-1598年)と家康が
直接に激突した「小牧・長久手の戦い」(1584年)が勃発~
この合戦に軍事的な勝利を収めたのは家康でしたが、ところが政治的には秀吉に
まんまと翻弄される形となりました。
つまり、天下は実質的に秀吉が掌握していたということです。
さて、そうした両者間の直接対決が決着を見た翌年(1585年)のことです。
実は家康は腫物をこじらせていました。 腫物はなかなか収まってくれません。
ところが、自分の身体の「健康管理」をなまじ趣味?としている家康ですから、
本物の医者にはかかろうとはしません。
当然のことですが、家臣たちは繰り返し、素人の手治療ではない、つまり本物の
医師による本格的な診察・治療を繰り返し勧めます。
しかし、当の家康が耳を貸しません。
自分が備えた健康知識に妙な自信を持っていることが、その理由です。
そんな膠着状況にあって作左が動きました。
前もって断っておくと、家康に対するこの時の「鬼作左」の行動が、いったいどういう
ものだったのか、筆者はその史実については承知していません。
しかしながら、たまたま出くわした小説『三河雑兵心得』(井原忠政著)に、
こんな描写がありましたので、ついでのことに、その辺もちょっとご紹介しておく
ことにしましょう。
医者の治療をハナから拒絶する家康の頑迷さに痺れを切らした作左はこう言い放ちます。
作左「ああ、もう。 徳川もこれで終わりか!」
家康「たァけ。 作左、控えよ!」
ちなみに、この「たァけ」とは三河(愛知県西部)言葉で「バカ者ッ!」ほどの
意味になります。
佳境部分をもう少し続けると、
作左「拙者は今年が五十七。 もう老い先も短い。 下らぬ手治療なんぞで殿が
無駄死にされ、徳川家が秀吉に攻め滅ぼされるのを見たくはねェ。
よって、この場にて腹を切る」
この作左の態度をハッタリと踏んだ家康は、
家康「たァけが、大口を叩くな! 切れるものなら切ってみりん!」
こうなると売り言葉に買い言葉です。
作左「たァけは殿の方だら! 三河武士の最期、とくとご検分あれ」
~そう吼えるなり、本当に切っ先を、己が左腹に二寸(約六センチ)ほど突き刺した
のだ。 見る間に鮮血が滴り落ちる。~
この成り行きにすっかり慌てた家康は、腫物を医者に見せることを作左に約束し、
家康「だから作左・・・し、死ぬな!死んでくれるな! 戦場以外の場所で死ぬるは
断じて許さん!」
誤解のないよう繰り返しておきますが、これは小説での描写であって史実の方は
どうだったのか、筆者は知りません。
しかし、「楷書的忠臣」だったことは確かなようです。
さらに、この作左は、いわゆる「日本一短い手紙」の書き手としても有名です。
ええ、例のこの手紙です。
~一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ~
「長篠の戦い」(1575年)の陣中から妻にあてて書いた手紙とされ、ここに登場する
「お仙」とは、当時4歳ほどの嫡子・仙千代(成重/1572-1647年)を指しています。
ただ、その文面が事実その通りだったかと言えば、どうやら諸説あるようで、
折角ですからそれにも少し触れておくと、例えば、
~一筆申す 火の用心 お仙痩さすな 馬肥やせ かしく~
確かに言い回しが微妙に異なっていますが、こちらには「痩せ/肥え」の一対の
表現があってそれなりの印象を残しています。
ただ残念なことに、元々の文面を確認することはできません。
なぜなら、この手紙を紹介している徳川家康の事跡についての説話集『岩淵夜話集』
の生原稿も現存せず、残念ことですが、ただ後世の人たちが書き写したいくつかの
写本が今に伝わっているに過ぎないからです。
これも念のためですが、その文章を示した石碑も、全国にはいくつかあるようで、
2001年には作左の主君・家康の誕生地である岡崎にも建立されました。(写真参照)
石碑「一筆啓上」 / 徳川家康
お話の流れから、その本多作左衛門重次の三河奉行として一面も覗いてみることに
しましょう。
実は、これより少し後の時代の政治家・学者である新井白石(1657-1725年)は、
この作左をこう評しているのです。
~重次(作左の本名)は恐ろしげに見え、言いたい放題を言い、 思慮のあるよう
ではなく、奉行など務まる柄ではないように思えた。 だが心正しく、
しかも民を用いるのに配慮があり、訴訟をよく聞き、事を明らかにした~
このように、行政官としての作左の能力・手腕を非常に高く評価しています。
そして、筆者が一番気に入っているエピソードがこれ。
~(作左は)領地の民に法令を触れ回る時の立て札は、難しい言い回しを避け、
ひらがなでわかりやすく大きな字で書かせた~
「わかりやすく」というところがミソで、やたらとややこしい言葉を使った法律が
出没するどこかの国の政治家・お役人に聞かせたいようなお話です。
人々に守らせたい「法律」なのですから、内容が伝わらなくては意味がありません。
ここらへんのことが、どこかの国ではすっかり欠落してしまって、やたらと煩雑な
仕組みや制度が出現することも珍しくはないのです。
広く民に伝え、そのことの理解を促すために、そこで、
~ひらがなでわかりやすく大きな字で~ということになるワケです。
しかも、最後部分をこの文言で締めたそうで、これがまたとことん気が利いています。
~右に背くと、作左が叱る~
なにかしら、作左の民に対する慈愛めいた思いが感じられて、白石の評である、
~心正しく、配慮があり、訴訟をよく聞き、事を明らかにした~
も、さもありなんと思えてきます。
その意味では、間違いなく「楷書的奉行」だったと言えそうです。
ただ、家康に対する忠臣ぶりの裏返しだったのか、家康の前に立ち塞がる存在だった
豊臣秀吉には徹底的にタテをついたようです。 こんな具合です。
〇人質として秀吉に差し出されていた息子・仙千代を、嘘をついて呼び戻した。
〇秀吉の生母・大政所が岡崎に下向した時(1586年)、宿舎に薪を積んで万一の
有事に備えた。(家康に何事かあれば、大政所を焼き殺すという意思表示)
〇秀吉が岡崎城に立ち寄った際(小田原攻めの折り/1590年)、作左との対面を
予定していたにもかかわらず、作左はシカトした。
そして、
~(作左は)そうした秀吉に対する「不手際」を咎められ、家康の関東入り(1590年)
の後、上総にて蟄居(閉門の上一室に籠る)させられた~
亡くなったのはそれから6年後のことでした。 享年68。
それまでの生きざまからしても、おそらく「楷書的蟄居」を完遂しただろうことは
想像に難くありません。
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