ヤジ馬の日本史

日本の常識は世界の非常識?この国が体験してきたユニークな歴史《日本史》の不思議をヤジ馬しよう!

事始め編33/列島民族は東を意識する

住兵衛

昔々の大和民族は太陽を特別な存在として崇め、なおかつそれに対する篤い信仰心を
備えていたように、筆者は考えています。
なぜなら「天照大神」、分かりやすい言葉なら「天空を照らす」太陽を最高の神と
して位置付けているからです。


その太陽は、よほど特殊な事情がない限り東から上って西へ沈みます。
そして、人類の歴史においてはその「よほど特殊な事情」は多分なかったはずです。
自分たちの命は、そうした環境の中で育まれたものと受け止めるなら、それこそ
「太陽命」ほどの思いに昇華するのも無理はありません。
ですから、この頃の大和民族にとって、そうした存在である太陽を心底崇めることは
ごくごく自然で素朴な心情だったと思われます。


そんな環境下にある民族ともなれば、方角に対しては「南北」に比べ、「東西」に
対する意識のほうが敏感になるように思えます。
信仰の対象が、南北方向の移動ではなく「東から西へ」の運動を毎日繰り返して
いるのですからです。


   天照大神


方角的には「南北」より「東西」に敏感な民族。
こうなる理由は実はほかにも考えられそうです。
たとえば、大和民族の初代天皇とされる神武天皇の行動もその一例と言っていいのかも

しれません。


~日向にいたとき、都をつくるのによい土地が「東の方角」にあると聞いて、
 海路や陸路で近畿へ進み、地元勢力と戦いを交えながら大和入りを果たした~

いわゆる「神武東征」ですが、これもまた方角的には「東西」を強く意識させる
物語になっているのです。


おそらくその理由は、「我が国土は東西に広がっている」ほどの単純な認識があった
からでしょう。
そうした流れもあって、いささか強引な印象は否めませんが、今回は「国土の東西」と
いうお話を取り上げてみることにした次第です。


さて、現代では日本の国土について、「関東/関西」という地域概念があります。
これもまた「東/西」という言葉をモロに含んだ言葉になっていますが、
では、そのエリアの定義は? 実はこんな説明になっています。
~奈良時代以来、鈴鹿・不破・愛発の三つの関所より 東の地域が「関東」。 
 同じく西の地域が「関西」~


折角ですから、もう少しヒツコクその「三関(三つの関所)」についても探ってみると、
鈴鹿関-すずかのせき(現・三重県亀山市/鈴鹿峠の麓)
不破関-ふわのせき (現・岐阜県不破郡関ケ原町)
愛発関-あらちのせき(現・福井県/愛発山あたり)
これが「関東/関西」の国境線?とされているわけです。


そして、武士が帯刀して以降の時代の「関東/関西」の歴史的なイメージをメッチャ
大雑把に眺めてみるなら、こんな感じにもなりそうなところです。
関東=武士階級地域/田舎/地味・野暮
関西=朝廷公家地域/都会/華やか・風雅の趣


しかしもっと古い時代なら、露骨にこうも言えるのかもしれません。
関東=領土外→野蛮人エリア/文化果つるところ
関西=領土内→我が民族の居住地
ただし、これは昔々の人々が抱いていたであろうもので、さすがに現代では
差別的偏見ということになってしまいそうです。


さて「不破関」の名が出たことで、今ひょっこりこんなことも思い出しました。
戦国時代に、この「不破関」の「関ケ原」で繰り広げられたのが、文字通りの
「関ヶ原の戦い」(1600年)でした。
直前まで天下人の地位にいた豊臣秀吉(1537-1598年)の死を受け、その
豊臣家と、新たに天下掌握を目指す徳川家康(1543-1616年)とが、正面から
ガチンコ衝突に及んだ戦闘でした。


実はこの場面を語るとき、後の時代には「東西」の言葉が使われるようになりました。
関西を本拠地とする豊臣方を「西軍」といい、関東を本拠地とする徳川方を「東軍」
呼ぶようになったということです。


ところが、さらにもう少し時代を遡ってみると、戦国時代の入口となった「応仁の乱」
(1467-1478年)でも、後になって実は「東軍/西軍」との用語が使われています。
細川勝元側を「東軍」、これに対抗する山名宗全側を「西軍」と呼ぶようになったと
いうことです。


ただし、この乱における諸大名・小名の入り乱れ方はハンパではありませんでした。
時として東軍・西軍のメンバーが入れ替わることもあったくらいのもので、それを
正しく知ろうとするなら、格好の「頭の体操」になるのかもしれません。
ですから筆者なぞは、まぁハナから御免蒙っているところです。


さて、お話は次第に逸れていっていますが、実はその「東西」という文言を使った、
一風変わったこんな言葉もあります。
「東西東西」(とうざいとうざい/とざいとうざい)です。


筆者なぞは、現代人がこの言葉を使う場面に遭遇したことはほとんどありませんが、
昔は興行物などで見物人をしずめたり、口上を述べるに先立って注意をひいたりする
ときに、~皆さん、お静かに願います。 静粛にしてください~
ほどの意味で用いていたようです。


多数者へ向けた呼びかけ言葉が「南北南北」でなく、「東西東西」になっている
ところがまことに面白く、これなども、ひょっとしたら大昔から続く太陽信仰の
名残りなのかもしれませんねぇ。
何しろ「東西東西」ってことは、太陽の軌道そのものですからねぇ。


   

        西南戦争 / 西郷隆盛(南洲)


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で、とんと遠回りしてしまいましたが、やっとのこと「西南戦争/西南の役」(1877年)
です。 ご存知の方は既にご存知のように、
~征韓論で敗れ下野した西郷隆盛(1827-1877年)を立てた鹿児島士族らが
 熊本や宮崎において明治政府に対して挙兵~


これがこの「西南戦争/西南の役」の大雑把な説明です。
ところが、ここで使われている名称がイマイチ不可解なのです。
たとえば、源氏対平家の三連戦で源氏の三連勝となった「一の谷の戦い」(1184年)/
「屋島の戦い」(1185年)/「壇ノ浦の戦い」(1185年)などは、
いずれの場合も戦場となった土地の名称を冠した合戦名になっています。


また土地の名称ではないものの、このずっと後に起きた織田信長暗殺事件、いわゆる
「本能寺の変」(1582年)では、現場となったその名称が冠されています。


また先に触れた「応仁の乱」や、武士政権確立を決定づけた「承久の乱」(1221年)
などの名称には、事件勃発時の元号が冠されています。
さらに言うなら、「(藤原)薬子の変」という名称には、これに関わった人物の名が
バッチリ謳われています。
もっとも、一昔前には普通に使っていたこの名称も、最近では「平城太上天皇の変」
(810年)との表現が増えているそうですが。


それはともかくとして、ところがこの「西南戦争/西南の役」にはその場所も、
あるいは勃発時の元号も、はたまた関わった人物の名前すら含まれてはいないのです。
では、その「西南」とは一体何のこと?


驚くなかれ呆れるなかれ、腰を抜かしちゃいかんゾ。
なんと、単に地理的な方角の「西南」のを指しているとの説明です。
~(この場合の)「西南」とは、この戦争の主な戦場が、日本の地図で「西南」部に
 位置していたことに由来する~


つまり、ここには地名(たとえば鹿児島・熊本)も、元号(明治)も、また大昔の
「壬申の乱」(672年)のような発生年を特定する干支(丁丑/ひのとうし)も、
さらには、これに関わった人物の名(たとえば西郷隆盛)さえバッサリ省かれている
ことになります。


無駄のないスリムな名称というべきか、トコトン素っ気がないというべきか、
いずれにせよ木で鼻をくくった印象です。
そこで、多少のムカッ腹をたてながら、それじゃあ、
なんで「南西戦争」とは呼ばずに「西南戦争」と呼ぶのだ? 
当然、このような展開になります。


しかしながら、この疑問に対する回答もいたって素っ気ないもので、
~当時の日本が中国の影響で「東・西」を先に書いたからであり、
 「南・北」が先になる現在の表記は欧米の影響によるもの~との説明です。


こんなスカスカの説明で筆者が納得すると思ったら、それは考え方が甘すぎるぞよ。
この命名にはきっちり確かな根拠がある・・・
このことに誰も気が付かなかったのでしょうが、幸いなことに筆者だけは
気が付いたのです。 日頃の信心のお陰ということでしょうか


そこでこの機会ですから、好奇心旺盛なアナタにだけは披露しておこうと思います。
実の実は、他の歴史事件と同様に、それに関わった人物の名前を冠しているのです。
えぇ、首謀者・西郷隆盛(号・南洲)の、名字の西郷から「西」の一字を、
号の南洲から「南」の一字を頂戴して「西南戦争」・・・


う~む、文句のつけようもないし、ツッコミのスキもなしの超鋭い考察だと、
悦に入っている今日この頃の筆者です。


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